「長孫倹」の版間の差分
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[[540年]](大統6年)、長孫倹は都督三荊等十二州諸軍事・[[荊州]]刺史・東南道行台僕射に任じられ、西魏の東南方面の重任を宇文泰に委ねられた。荊州を統治すること足かけ7年、少数民族を教化して風俗を改めさせ、農耕殖産につとめた。[[546年]](大統12年)、[[長安]]に召還されて大行台尚書に任じられ、相府司馬を兼ねた。[[547年]](大統13年)、開府を加えられた。[[548年]](大統14年)、尚書左僕射となり、[[侍中]]の任を加えられた。 |
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[[549年]](大統15年)、東南道行台僕射・荊州刺史に任じられて、再び荊州に赴任した。[[梁 (南朝)|南朝梁]]の岳陽王[[蕭詧]]が西魏に帰順を求めて使者を派遣し、その使者は長安に赴く途中で荊州に立ち寄った。使者の面会した長孫倹は容貌魁偉で、鐘の鳴るような音声で鮮卑語を話し、戎服を着て軍を整列させていた。このため使者はかれを恐れて仰ぎ見ることができなかった。その日の遅く、長孫倹は裙襦紗帽の姿で使者を宴に招き、梁朝の混乱の事情と、西魏の朝廷による招聘の意志を述べると、使者は長孫倹の懐の深さに感心した。この年、[[楊忠]]とともに梁の[[司州]]刺史の[[柳仲礼]]を討ち、[[隨郡]]を攻め落とした。 |
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[[553年]]([[廃帝 (西魏)|廃帝]]2年)、東南道大都督・荊襄等三十三州鎮防諸軍事に任じられた。前年に梁の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]が江陵で即位していたが、弱体が明らかだったため、長孫倹は江陵を攻め取るよう宇文泰に進言し、その戦略を説明した。宇文泰はかれの意見を聞き入れ、[[554年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]元年)には燕公[[于謹]]に江陵を攻撃させた。江陵が平定されると、長孫倹は江陵に駐屯した。[[555年]](恭帝2年)、爵位を昌寧公に進め、[[大将軍]]に任じられた。[[556年]](恭帝3年)、また荊州に移り、総管荊襄等五十二州諸軍事・行荊州刺史をつとめた。 |
[[553年]]([[廃帝 (西魏)|廃帝]]2年)、東南道大都督・荊襄等三十三州鎮防諸軍事に任じられた。前年に梁の[[元帝 (南朝梁)|元帝]]が江陵で即位していたが、弱体が明らかだったため、長孫倹は江陵を攻め取るよう宇文泰に進言し、その戦略を説明した。宇文泰はかれの意見を聞き入れ、[[554年]]([[恭帝 (西魏)|恭帝]]元年)には燕公[[于謹]]に江陵を攻撃させた。江陵が平定されると、長孫倹は江陵に駐屯した。[[555年]](恭帝2年)、爵位を昌寧公に進め、[[大将軍]]に任じられた。[[556年]](恭帝3年)、また荊州に移り、総管荊襄等五十二州諸軍事・行荊州刺史をつとめた。 |
2020年8月13日 (木) 03:00時点における版
長孫 倹(ちょうそん けん、492年 - 569年)は、中国の北魏末から北周にかけての軍人・政治家。もとの名は慶明。本貫は河南郡洛陽県。玄祖父は長孫嵩。曾祖父は長孫地汾。祖父は長孫酌。父は長孫戫。
経歴
長孫戫の子として生まれた。北魏の孝昌年間、員外散騎侍郎を初任とした。532年(太昌元年)、仮の東夏州防城大都督となり、爾朱天光に従って宿勤明達らの反乱を討った。功績により索盧侯の爵位を受けた。533年(永熙2年)、宇文泰が夏州刺史となると、長孫倹はその下で録事をつとめた。翌534年(永熙3年)に賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されたため、宇文泰が平涼に赴くと、長孫倹は宇文泰の政戦両略の議論に参加した。宇文泰が侯莫陳悦を攻めると、長孫倹は秦州長史・防城大都督として留守を委ねられた。渭州刺史の可朱渾元が東魏に逃れると、黄河と渭水の間の治安が悪化したため、長孫倹は李弼の代行として渭州に駐屯した。535年(大統元年)、西魏が建国されると、持節・西夏州刺史となり、散騎常侍の位を加えられた。536年(大統2年)、東魏の許和が西魏の夏州を奪った。長孫倹はこれを説得して、翌537年(大統3年)には許和を夏州ごと帰順させることに成功した。539年(大統5年)、鎮東将軍・西夏州刺史に任じられ、三夏州を総統した。
540年(大統6年)、長孫倹は都督三荊等十二州諸軍事・荊州刺史・東南道行台僕射に任じられ、西魏の東南方面の重任を宇文泰に委ねられた。荊州を統治すること足かけ7年、少数民族を教化して風俗を改めさせ、農耕殖産につとめた。546年(大統12年)、長安に召還されて大行台尚書に任じられ、相府司馬を兼ねた。547年(大統13年)、開府を加えられた。548年(大統14年)、尚書左僕射となり、侍中の任を加えられた。
549年(大統15年)、東南道行台僕射・荊州刺史に任じられて、再び荊州に赴任した。南朝梁の岳陽王蕭詧が西魏に帰順を求めて使者を派遣し、その使者は長安に赴く途中で荊州に立ち寄った。使者の面会した長孫倹は容貌魁偉で、鐘の鳴るような音声で鮮卑語を話し、戎服を着て軍を整列させていた。このため使者はかれを恐れて仰ぎ見ることができなかった。その日の遅く、長孫倹は裙襦紗帽の姿で使者を宴に招き、梁朝の混乱の事情と、西魏の朝廷による招聘の意志を述べると、使者は長孫倹の懐の深さに感心した。この年、楊忠とともに梁の司州刺史の柳仲礼を討ち、隨郡を攻め落とした。
553年(廃帝2年)、東南道大都督・荊襄等三十三州鎮防諸軍事に任じられた。前年に梁の元帝が江陵で即位していたが、弱体が明らかだったため、長孫倹は江陵を攻め取るよう宇文泰に進言し、その戦略を説明した。宇文泰はかれの意見を聞き入れ、554年(恭帝元年)には燕公于謹に江陵を攻撃させた。江陵が平定されると、長孫倹は江陵に駐屯した。555年(恭帝2年)、爵位を昌寧公に進め、大将軍に任じられた。556年(恭帝3年)、また荊州に移り、総管荊襄等五十二州諸軍事・行荊州刺史をつとめた。
557年(孝閔帝元年)、北周が建国されると、趙貴らが晋公宇文護の殺害を計画し、これに長孫倹の長男の僧衍が加担して処刑された。長孫倹自身は咎めを受けず、宇文護に召し出されて小冢宰に任じられた。562年(保定2年)、浦州刺史・検校六防諸軍事となった。564年(保定4年)、治襄州に転じ、柱国大将軍に上った。566年(天和元年)、陝州総管・都督八州二十防諸軍事に任じられた。
568年(天和3年)、病のため長安に帰った。569年(天和4年)2月、夏州総管となった。11月、死去した。享年は78。本官に加えて涼瓜等十州諸軍事・涼州刺史の位を追贈され、鄶国公に追封された。諡は文といった。