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*長女 海琬(ヘワン、1915年 - 1981年)
*長女 海琬(ヘワン、1915年 - 1981年)
*次女 [[李海ウォン|海瑗]](ヘウォン、1919年 - )
*次女 [[李海|海瑗]](ヘウォン、1919年 - )
*三女 海珺(ヘチュン、1920年 - 2009年) 夫:朴賛汎(離縁)
*三女 海珺(ヘチュン、1920年 - 2009年) 夫:朴賛汎(離縁)
*四女 海璛(ヘソク、1920年 - )
*四女 海璛(ヘソク、1920年 - )

2020年8月16日 (日) 05:08時点における版

李堈
李堈
各種表記
ハングル 이강
漢字 李堈
発音: イ ガン
日本語読み: り こう
ローマ字 I Gang
英語 Yi Kang
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李 堈(り こう(日本語読み)、イ・ガン(朝鮮語読み)、1877年3月30日 - 1955年8月17日)は、大韓帝国の皇族(親王)、のち大日本帝国公族朝鮮第26代国王・大韓帝国初代皇帝高宗の五男。

生涯

韓国併合以前

朝鮮国王高宗の五男として誕生する。母は貴人張氏。異母兄に純宗、異母弟に皇太子・李王となった李垠がいる。

1892年1月に義和君となり、翌1893年に金思濬の娘と結婚する。1894年に日清戦争の祝賀使として日本に訪問した。翌年には欧米各国を歴訪した。その後、慶應義塾大学やアメリカの大学に留学した。その間に朝鮮は大韓帝国となり、義親王に封じられた。

1905年に帰国し、翌年に大韓帝国最高位の勲章である大勲位金尺大綬章が授与された。

韓国併合以後

韓国併合により1910年8月、「公」に封ぜられて恩賜公債84万円を賜り、日本の公族の身分となった。李家は、併合前の財産と恩賜公債の利子で年間4万円の収入があったが、李の散財により瞬く間に家政が逼迫した。李王職が公家を監督しようとすると、李はそれに反発し、金策に奔走して詐欺事件まで起こした。

朝鮮独立運動組織「大同団」は、こうした李に目を付け、「金は出すから、朝鮮から出て独立運動の象徴となってほしい」と彼を騙し、李公誘拐事件を起こすに至っている。

こうした李の行動は、後に制定された王公家軌範第69条の「其ノ品位ヲ辱ムルノ所行」に相当する行為であったが、王公家軌範制定前で王公族を懲戒する法的根拠がなかったため、李王(純宗)が本人を呼び出して誓約書を書かせるのが精一杯であった。

王公家軌範制定後の1930年6月12日に隠居し、公位は長男の李鍵が継承した。

栄典

李堈妃金氏

家族

妃は金氏(金思濬長女、1880年1月21日 - 1964年1月14日)である。1893年12月6日に結婚した。この他に数多くの側室[6]がいる。

子女は以下の通りである。

以下は王公族とされなかった庶出の子女である。

  • 三男 鎊(パン、1914年 - 1951年)
  • 四男 鎗(チャン、1915年 - )
  • 五男 鑄(チュ、1918年 - 1982年)
  • 六男 錕(コン、1920年 - )
  • 七男 鑛(クァン、1921年 - 1952年)
  • 八男 鉉(ヒョン、1922年 - 1998年)
  • 九男 (カプ、1938年 - 2014年) 李源の父。
  • 十男 (ソク、1941年 - )全州李氏宗親会会長
  • 十一男 鍰(ファン、1944年 - )
  • 十二男 錠(チョン、1947年 - )
  • 長女 海琬(ヘワン、1915年 - 1981年)
  • 次女 海瑗(ヘウォン、1919年 - )
  • 三女 海珺(ヘチュン、1920年 - 2009年) 夫:朴賛汎(離縁)
  • 四女 海璛(ヘソク、1920年 - )
  • 五女 海瓊(ヘギョン、1930年 - )
  • 六女 恵子(ヒジャ、1940年 - )
  • 七女 海珃(ヘラン、1944年 - )
  • 八女 海瑢(ヘリョン、1950年 - )
  • 九女 昌恵(チャンヒ、1951年 - )

系図

李堈(義親王)の親類・近親・祖先の詳細

脚注

  1. ^ 『官報』第3411号、「叙任及辞令」1924年1月9日。p.53
  2. ^ 『官報』第1499号、「叙任及辞令」1931年12月28日。p.742
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  4. ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。p.54
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  6. ^ 彼女らは全て朝鮮人というわけでなく、内地人日本人)の妾も確認されるだけで2人いた。

参考文献