コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「怡峯」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
8行目: 8行目:
[[537年]]、宇文泰の下で[[竇泰]]を小関で破った。[[長安]]に帰還すると、散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司の位を受けた。宇文泰の下で[[弘農郡|弘農]]を奪回し、[[沙苑の戦い]]に参戦し、爵位は楽陵郡公に進んだ。[[元季海]]や[[独孤信]]とともに洛陽を攻撃した。怡峯は奇兵を率いて成皋に入り、その戸口を獲得して帰還した。東魏の[[任祥]]が1万あまりの兵を率いて潁川を攻撃すると、怡峯は軽騎500を率いて任祥を迎え撃ち、撃退した。開府儀同三司の位を加えられた。
[[537年]]、宇文泰の下で[[竇泰]]を小関で破った。[[長安]]に帰還すると、散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司の位を受けた。宇文泰の下で[[弘農郡|弘農]]を奪回し、[[沙苑の戦い]]に参戦し、爵位は楽陵郡公に進んだ。[[元季海]]や[[独孤信]]とともに洛陽を攻撃した。怡峯は奇兵を率いて成皋に入り、その戸口を獲得して帰還した。東魏の[[任祥]]が1万あまりの兵を率いて潁川を攻撃すると、怡峯は軽騎500を率いて任祥を迎え撃ち、撃退した。開府儀同三司の位を加えられた。


[[538年]]、東魏軍が洛陽を包囲すると、怡峯は元季海とともに金墉城を守った。宇文泰が到着し、洛陽の包囲が解けると、東魏軍と[[河橋・ボウ山の戦い|河橋]]で決戦した。怡峯は左軍にあったが、西魏軍は敗れ、怡峯が[[李遠]]とともに先に撤退したため、宇文泰も軍を返した。怡峯は敗戦の罪を問われず、東西北三夏州諸軍事・夏州刺史に任じられた。後に于謹とともに劉平伏を討ち、玉壁の包囲を解き、柏谷塢を平定するのに、いずれも功績を挙げた。涼州刺史の宇文仲和が叛くと、怡峯は于謹とともに仲和を討った。
[[538年]]、東魏軍が洛陽を包囲すると、怡峯は元季海とともに金墉城を守った。宇文泰が到着し、洛陽の包囲が解けると、東魏軍と[[河橋・山の戦い|河橋]]で決戦した。怡峯は左軍にあったが、西魏軍は敗れ、怡峯が[[李遠]]とともに先に撤退したため、宇文泰も軍を返した。怡峯は敗戦の罪を問われず、東西北三夏州諸軍事・夏州刺史に任じられた。後に于謹とともに劉平伏を討ち、玉壁の包囲を解き、柏谷塢を平定するのに、いずれも功績を挙げた。涼州刺史の宇文仲和が叛くと、怡峯は于謹とともに仲和を討った。


[[549年]]、東魏軍が潁川を包囲すると、怡峯は趙貴とともに救援におもむいた。南陽にいたって、病のため死去した。享年は50。華州刺史の位を追贈された。[[諡]]は襄威といった。
[[549年]]、東魏軍が潁川を包囲すると、怡峯は趙貴とともに救援におもむいた。南陽にいたって、病のため死去した。享年は50。華州刺史の位を追贈された。[[諡]]は襄威といった。

2020年8月17日 (月) 05:09時点における版

怡 峯(い ほう、500年 - 549年)は、中国北魏から西魏にかけての軍人。本姓は黙台。は景阜。本貫遼西郡。黙台寛の玄孫、黙台文の曾孫。異民族出身。

経歴

若いころから征戦に従い、驍勇で知られた。北魏の永安年間、仮の龍驤将軍の位を受け、都将となり、賀抜岳の下で万俟醜奴を討った。功績により給事中・明威将軍の位を受け、征虜将軍・都督に転じ、蒲陰県男に封じられた。534年、賀抜岳が侯莫陳悦に殺害されると、怡峯は趙貴らとともに宇文泰を後継者として推した。爵位は伯に進んだ。原州刺史の史帰が侯莫陳悦のために原州を守備していたので、怡峯は侯莫陳崇とともに史帰を討ち捕らえた。

高歓孝武帝のあいだが険悪になると、孝武帝は精鋭を率いて洛陽に入るよう宇文泰に命じた。宇文泰は怡峯や趙貴らに軽騎を率いて洛陽に向かわせた。潼関にいたって、孝武帝が関中に入ると、怡峯は宇文泰の下で回洛を抜け、潼関を奪った。安東将軍・華州刺史に任じられた。まもなく大都督に転じた。曹泥を討った功績により、華陽県公に進んだ。

537年、宇文泰の下で竇泰を小関で破った。長安に帰還すると、散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司の位を受けた。宇文泰の下で弘農を奪回し、沙苑の戦いに参戦し、爵位は楽陵郡公に進んだ。元季海独孤信とともに洛陽を攻撃した。怡峯は奇兵を率いて成皋に入り、その戸口を獲得して帰還した。東魏の任祥が1万あまりの兵を率いて潁川を攻撃すると、怡峯は軽騎500を率いて任祥を迎え撃ち、撃退した。開府儀同三司の位を加えられた。

538年、東魏軍が洛陽を包囲すると、怡峯は元季海とともに金墉城を守った。宇文泰が到着し、洛陽の包囲が解けると、東魏軍と河橋で決戦した。怡峯は左軍にあったが、西魏軍は敗れ、怡峯が李遠とともに先に撤退したため、宇文泰も軍を返した。怡峯は敗戦の罪を問われず、東西北三夏州諸軍事・夏州刺史に任じられた。後に于謹とともに劉平伏を討ち、玉壁の包囲を解き、柏谷塢を平定するのに、いずれも功績を挙げた。涼州刺史の宇文仲和が叛くと、怡峯は于謹とともに仲和を討った。

549年、東魏軍が潁川を包囲すると、怡峯は趙貴とともに救援におもむいた。南陽にいたって、病のため死去した。享年は50。華州刺史の位を追贈された。は襄威といった。

子女

  • 怡昂(後嗣、開府儀同三司、鄭国公)
  • 怡光(汾涇豳三州刺史、開府儀同三司、龍河県公)
  • 怡春(吏部下大夫・儀同三司)

伝記資料