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「詩経」の版間の差分

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古文の学はそもそも[[武帝 (漢)|武帝]]時代に博士となった[[孔安国]]の『古文尚書』に始まる。前漢末に[[劉歆]]が『左氏春秋』([[春秋左氏伝]])と『[[周礼]]』とを世に出したことで注目され、後漢には[[班固]]・[[馬融]]・[[鄭玄]]らの古文学派の大物が次々と現れた。詩家においては鄭玄が今文系の三家の学と毛詩の学とを比較検討し、毛詩のテキストをもとに四家の説をまじえた注解書を著した。いわゆる『毛伝鄭箋』である。以後、鄭氏の学が尊ばれるようになり、漢代の三家詩は衰えてやがて失伝した。韓詩のみは唐代まで残っていたようだが、現存するのは説話集的な『[[韓詩外伝]]』のみである。その流れは、唐代に『[[五経正義]]』が定められたとき、『毛伝鄭箋』が標準テキストに選ばれることで決定づけられた。
古文の学はそもそも[[武帝 (漢)|武帝]]時代に博士となった[[孔安国]]の『古文尚書』に始まる。前漢末に[[劉歆]]が『左氏春秋』([[春秋左氏伝]])と『[[周礼]]』とを世に出したことで注目され、後漢には[[班固]]・[[馬融]]・[[鄭玄]]らの古文学派の大物が次々と現れた。詩家においては鄭玄が今文系の三家の学と毛詩の学とを比較検討し、毛詩のテキストをもとに四家の説をまじえた注解書を著した。いわゆる『毛伝鄭箋』である。以後、鄭氏の学が尊ばれるようになり、漢代の三家詩は衰えてやがて失伝した。韓詩のみは唐代まで残っていたようだが、現存するのは説話集的な『[[韓詩外伝]]』のみである。その流れは、唐代に『[[五経正義]]』が定められたとき、『毛伝鄭箋』が標準テキストに選ばれることで決定づけられた。


また漢代以降、儒教が「国学」に定められると、そのテキストの異同が問題となった。そのため前漢の「石渠閣」や後漢の「白虎観」での会同に代表されるような宗論の場が設けられ、公式に認められたテキストを「石経」として刻んで公開した。特に後漢の[[蔡ヨウ|蔡邕]]らによる「[[熹平石経]]」と、唐代に造られた「[[開成 (唐)|開成]]石経」とが知られている。
また漢代以降、儒教が「国学」に定められると、そのテキストの異同が問題となった。そのため前漢の「石渠閣」や後漢の「白虎観」での会同に代表されるような宗論の場が設けられ、公式に認められたテキストを「石経」として刻んで公開した。特に後漢の[[蔡邕]]らによる「[[熹平石経]]」と、唐代に造られた「[[開成 (唐)|開成]]石経」とが知られている。


今日伝えられている詩経のテキストは、
今日伝えられている詩経のテキストは、

2020年8月17日 (月) 07:35時点における版

儒家経典
五経
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儀礼/周礼
春秋
礼記
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春秋公羊伝
春秋穀梁伝
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論語
孝経
爾雅
十三経
孟子
『御筆詩経図』(乾隆帝による写本)

詩経』(しきょう、拼音: Shī Jīng)は、中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文)と見なしうる。もともと舞踊楽曲を伴う歌謡であったと言われる。

『詩経』は、幸か不幸か経典の一つに取り込まれ、人類普通の聖典に祭りあげられた時から、後生の恣意に満ちた解釈の犠牲となり、その本来的な姿を忘れたまま今日に至っている。毛伝にはじまり集伝を経て近時の注解書に至るまで、納得のいくまで『詩経』を詩として解釈してくれるものは少ない。だが近年、所謂経学の一環としての詩経学の呪縛から解き放たれて、『詩経』を古代歌謡としてその原初的な姿に遡って解釈しなおそうとする研究方法が、着実にその成果を獲得しつつある[1]

西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。

現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。

構成

その構成は、

  1. 各地の民謡を集めた「風(ふう)」すなわち国風(160篇)
  2. 貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」(小雅74篇、大雅31篇)
  3. 朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」(40篇)

の3つに大別される。

国風は、周南・召南・邶(はい)・(よう)・・檜(かい)・(ひん)の15の国と地域の小唄や民謡を収める。「雅」はさらに小雅と大雅に分かれる。「頌」は、頌・頌・商頌に分かれる。商頌は室の祭祀を継承した、の廟歌と言われている。

各篇には題がついているが、詩の文句(通常は冒頭の句)から取ったものにすぎない。複数の詩で同じ題がついているものがあり(羔裘・揚之水は3篇、柏舟・無衣・采薇・杕杜・甫田・谷風・黄鳥は2篇)、区別するために「鄭風・羔裘」「唐風・羔裘」「檜風・羔裘」、「邶風・谷風」「小雅・谷風」のように呼びわける。

六義

作品のスタイルは基本的に四字句の連続で、オノマトペ(関関、夭夭、呦呦)や繰り返し(式微式微、楽土楽土など)を多用するところに特徴がある。通常一篇の詩は複数の章(スタンザ)に分かれ、章は複数の句に分かれる。偶数句末で押韻することが多いが、押韻のパターンはかなり変化に富んでいる。句末に「兮・只」などの意味のない助辞を置くことが多く、その場合はそのひとつ前の字で押韻する。

実際には上記の形式に従わない詩もある。3字句も多いし、召南・行露では句の多くが5字である。魏風・伐檀は4・5・6・7・8字句がある。周頌のいくつかの詩はまったく押韻していない。

作風は素朴に尽き、しばしば楚辞の自由暢達の気風に富んだ騒体と比せられる。また国風においては、その土地の習俗が反映されていると言われ、聖人の薫陶をとどめる周南や召南に対して、鄭風や衛風は軽薄の気風であると評価された(礼記・楽記「鄭・衛の音は、乱世の音なり」)。ただし、これは詩そのものについて言っているのではなく、鄭の音楽が節度を保っていないという意味だとする説もある[2]。 一方で特に小雅を中心に為政の乱れを嘆く作品も多く、古代人の切実な訴えに驚かされる。大雅では周の歴史を歌うものが多く、また「江漢」は冊命金文とよく似た文章になっている。

また風・雅・頌が体裁上のスタイルであるのに対し、表現上には賦・比・興という3つのスタイルがある(体裁上の3スタイルと合わせて「六義」という)と言われている。 六義の名称現存する唯一のテクストである毛亨・毛萇の伝えた『毛詩』の大序にはじめて見え、以降『詩経』の伝統的解釈の基本となった。漢の鄭玄はその注釈を作り、この鄭箋を踏えて『毛詩正義』を完成したのが唐の孔穎達である[3]

  1. 「賦(ふ)」は心情をすなおに表現するもの、直接にその事柄について述べて、気持ちを表す。
  2. 「比(ひ)」は詠おうとする対象の類似のものを取り上げて喩えるもの、比喩表現である。
  3. 「興(きょう)」は恋愛や風刺の内容を引き出す導入部として自然物などを詠うもの。

『詩経』には「碩鼠」など諷刺の精神に富む詩を多く含むが、これは比喩の方法の発達に助けられている。直接ずけずけと政治の批判はしにくいし、たとえしても為政者の側に抵抗感を抱かせるだけであるが、比喩を設けて暗示するならば、より大きな効果が期待できよう。逆に為政者の側で民の声を知るため周には採詩官があったという説もあるが、この伝えは信じにくい。やはり当時の民衆の率直な感情が、諷喩の詩には反映しているのである。後世の人びとが詩に消閑や交際の手段あるいは芸術のための芸術の傾向が強くあらわれるようになると、必ず『詩経』の精神への復帰を意識してその文学運動上のスローガンとして掲げるのは、『詩経』の詩に人間性の本質に迫るものがあるからであろう。そしてくもることのない社会批判の眼が、そこに働いているからであろう[4]

作者

作者については、宮廷詩人・尹吉甫の名が知られており、また解説書のひとつ「毛伝」などが参考になるが、それも「雅頌」についてであり、「国風」に収められた詩編のほとんどは無名の人物の手になるものと考えられる。編者である(ことになっている)孔子は、諸国遍歴の途次に、その土地土地の詩編を集めたと言われているが、すべてが採集によるものとは思われない。また孔子の没後、子夏・子張ら孔門の若い世代が潤色したところもあるだろうし、東周以降の作がまじっている可能性も高い。なお古代に「采詩の官」がおり、地方の詩を中央に送ったという説(鄭玄の『譜序』)もある。

三百五編の詩が集められている『詩経』だが、その作者の名は、ほとんどすべて判らない。明らかではないというよりも集団のなかから作りだされたものが多く、フランスのマーセル・グラネーは『支那古代の祭礼と歌謡』において、農村の祭りが詩を生み、そして育てたことを説いている。清代の精霊派の詩人袁枚・号は随園が『随園詩話』で述べるように、「詩経三百篇の大半は労する男や恋する女の、率直に感情を抒べた事を詠じてある」のであって、とくに民謡を集めた国風にはその傾向が強くでている。これらの詩は、祭りで歌われ踊られたものであろう。農良仕事や為政者への民の声、恋愛や結婚がその主な主題となっている[5]

受容の変遷

『詩経』はその成立からして「」と横断するところがあり、孔子自身も子弟にその修養を求めているように、左伝などを見ると、当時の卿・大夫・士の必修の教養とされた。また史記の儒林列伝において詩家が五経の筆頭にあることからも解るように、漢初には重んじられていたことが窺える。のち宣帝のころに梁丘賀らの易家が興り、前漢末から後漢にかけての神秘主義=「讖緯説」の思潮の中で易家の地位は不動となり、漢書・芸文志では「・詩・春秋」の順に変化している。ただし冒頭にも触れたとおり、詩経に収められた詩編は韻文作品の祖型であり、東周から清代にかけて、最大の広義の意味での「中国文学」に与えた影響は計り知れない。

前漢では一芸に通じた博士が私塾において弟子に学問を伝授したが、後漢に入って太学におけるカリキュラムとして定着すると、詩家としての独自性は失われる。また思想界において経典化する一方、文学界においては、前漢の司馬相如揚雄らを端緒とする(長文の韻文)が流行していく中で、換骨奪胎され、変容と再生をくりかえしていく。

詩経は『春秋』の場合と同じく、編纂者である聖人孔子の思想がそこに隠されているという考え方が強かった。特に漢代には、すべての詩編には必ずその発祥のもととなった史実があり、歌詞にはそれらに対する毀誉褒貶がこめられている(美刺説)、という考え方が主流となった。この思想は代の『五経正義』(古注)において決定的となる。しかし南宋代の朱熹はこれに対して、「国風」については単なる民謡・小唄であり、なかには「淫奔者」の詩がある、と『集伝』で手厳しい批判を行い詩経の学の面目を一新した(新注)。しかし「雅頌」については、従来どおり「聖人」の作であることを認めている。

なお詩経は日本にも古くに招来され、『日本書紀』によれば継体欽明朝のころ、百済から五経博士が来日したという。以後、「博士家」において細々と伝えられたが、広く読まれた形跡はないようである。鎌倉室町期に五山文学が興ると、道俗の間に漢籍に対する関心が高まり、「毛詩抄」のような資料も作られたようである。

テキストについて

の焚書のあと漢が勃興すると、魯の申培公(魯詩)が家伝の学を世に表し、ついで斉の轅固生(斉詩)と燕の韓嬰(韓詩)とが出た。三氏はみな漢氏の学官(博士)に立てられた(三官詩・三家詩)。のち遅れて毛亨・毛萇が出る(毛詩)。 いずれも「美刺説」に基づくものであったが、両毛公は、孔門・子夏から荀子を経て伝わったという、先秦の字体(古文)によるテキストを用いていた。これに対して三家詩は、漢代通行の字体である「隷書」(今文)のテキストによって教授していた。

ただし、毛詩の伝承者については難しい問題がある。『漢書』や鄭玄「詩譜」(正義が引く)はいずれも河間献王の博士であった趙人の毛公とのみ言い、名を言わない。『後漢書』儒林伝では毛萇とする。陸璣『毛詩草木鳥獣虫魚疏』では荀子が魯の毛亨に伝え、毛亨が故訓伝を作って毛萇に伝えたとする。『経典釈文』では帛妙子が河間の大毛公に伝えたとする説と、荀子が魯の大毛公に伝えたという2つの説を述べる。時代が新しくなるごとに説が増えていくことから、康有為『新学偽経考』はこの伝承を虚偽に基づくものとした。

古文の学はそもそも武帝時代に博士となった孔安国の『古文尚書』に始まる。前漢末に劉歆が『左氏春秋』(春秋左氏伝)と『周礼』とを世に出したことで注目され、後漢には班固馬融鄭玄らの古文学派の大物が次々と現れた。詩家においては鄭玄が今文系の三家の学と毛詩の学とを比較検討し、毛詩のテキストをもとに四家の説をまじえた注解書を著した。いわゆる『毛伝鄭箋』である。以後、鄭氏の学が尊ばれるようになり、漢代の三家詩は衰えてやがて失伝した。韓詩のみは唐代まで残っていたようだが、現存するのは説話集的な『韓詩外伝』のみである。その流れは、唐代に『五経正義』が定められたとき、『毛伝鄭箋』が標準テキストに選ばれることで決定づけられた。

また漢代以降、儒教が「国学」に定められると、そのテキストの異同が問題となった。そのため前漢の「石渠閣」や後漢の「白虎観」での会同に代表されるような宗論の場が設けられ、公式に認められたテキストを「石経」として刻んで公開した。特に後漢の蔡邕らによる「熹平石経」と、唐代に造られた「開成石経」とが知られている。

今日伝えられている詩経のテキストは、

  1. 後漢の鄭玄の作と伝えられる「譜序」
  2. 孔門・卜子夏の作と伝えられる「詩序」 - 各篇につけられた小序と、『詩』全体の大序がある。作者は明らかでない。『後漢書』儒林伝では後漢の衛宏が作ったという。『四庫全書総目提要』では冒頭のみが毛萇以前のもので、それ以下は毛萇以下の弟子が付加したとする。
  3. 両毛公が伝えた「経文」
  4. 毛亨の作と伝えられる「
  5. 鄭玄の「箋注」

によって構成されている。

これに対して新注のものとしては朱熹の『集伝』が有名である。漢代の三家の学を伝えるものはわずかに『韓詩外伝』10巻が伝わるだけで、ほかに清代考証学の成果として、三家詩系の輯本的作品である王先謙『詩三家義集疏』や、毛詩系の馬瑞辰『毛詩伝箋通釈』、胡承珙『毛詩後箋』などが知られている。

1977年に発見された阜陽漢簡には『詩経』国風65篇と、小雅4篇が含まれているが、現行のテキストとはかなり異なっており、また知られる限りの三家詩とも異なる。

主な完訳版

脚注

  1. ^ 石川忠久『詩経』 上(初版)、明治書院、1997年、1頁。 
  2. ^ 楊慎丹鉛総録』 巻14・淫楽、1542年https://archive.org/stream/06061595.cn#page/n92/mode/2up。「『論語』「鄭声淫。」淫者、声之過也。(中略)鄭声淫者、鄭国作楽之声過於淫、非謂鄭詩皆淫也。」 
  3. ^ 佐藤一郎『中国文学史』(初版)慶応義塾大学出版会、1971年4月10日、12頁。ISBN 9784766401943 
  4. ^ 佐藤一郎『中国文学史』(初版)慶應義塾大学出版会、1971年4月10日、12-13頁。ISBN 9784766401943 
  5. ^ 佐藤一郎『中国文学史』(初版)慶応義塾大学出版会、1971年4月10日、11頁。ISBN 9784766401943 

関連項目

外部リンク