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南朝宋の金紫光禄大夫の[[張裕 (南朝宋)|張茂度]](名は裕、[[張邵]]の兄)の子として生まれた。若くして兄の太子中舎人張演([[張緒]]の父)・[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]張鏡・征北将軍張永([[張カイ|張瓌]]・[[張稷]]の父)・弟の[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]張弁とともに名を知られ、「張氏五龍」と称された。兄弟の中でも張演と張鏡の名が最も高く、張永・張岱・張弁は及ばなかった。呉郡に選挙されて上計掾とされたが、着任しなかった。[[揚州 (古代)|揚州]]に召されて従事となった。南平王右軍主簿・尚書水部郎を歴任し、[[南潯区|東遷]]県令として出向した。[[呉興郡]]太守の殷沖に名器と評され、大成を予言された。[[453年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が[[文帝 (南朝宋)|文帝]]を殺害して帝を称し、その打倒のために隨王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が会稽で起兵すると、張岱は劉誕の下で建威将軍・輔国長史・行県事となった。劉劭の乱が平定されると、張岱は司徒左西曹となった。撫軍諮議参軍に転じ、[[柯橋区|山陰]]県令を兼ねた。
南朝宋の金紫光禄大夫の[[張裕 (南朝宋)|張茂度]](名は裕、[[張邵]]の兄)の子として生まれた。若くして兄の太子中舎人張演([[張緒]]の父)・[[新安郡 (中国)|新安郡]][[太守]]張鏡・征北将軍張永([[張カイ|張瓌]]・[[張稷]]の父)・弟の[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]張弁とともに名を知られ、「張氏五龍」と称された。兄弟の中でも張演と張鏡の名が最も高く、張永・張岱・張弁は及ばなかった。呉郡に選挙されて上計掾とされたが、着任しなかった。[[揚州 (古代)|揚州]]に召されて従事となった。南平王右軍主簿・尚書水部郎を歴任し、[[南潯区|東遷]]県令として出向した。[[呉興郡]]太守の殷沖に名器と評され、大成を予言された。[[453年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が[[文帝 (南朝宋)|文帝]]を殺害して帝を称し、その打倒のために隨王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が会稽で起兵すると、張岱は劉誕の下で建威将軍・輔国長史・行県事となった。劉劭の乱が平定されると、張岱は司徒左西曹となった。撫軍諮議参軍に転じ、[[柯橋区|山陰]]県令を兼ねた。


[[460年]]([[大明 (南朝宋)|大明]]4年)、巴陵王[[劉休若]]が[[徐州]]刺史となると、張岱は冠軍諮議参軍となり、[[彭城郡]]太守を兼ね、冠軍府と徐州の事務を代行した。[[461年]](大明5年)、臨海王[[劉子頊]]が広州刺史となると、張岱は征虜府と広州の事務を代行した。[[463年]](大明7年)、豫章王[[劉子尚]]が[[車騎将軍]]となると、張岱は車騎府と揚州の事務を代行した。また晋安王[[劉子クン|劉子勛]]の下で征虜府と[[南エン州|南兗州]]の事務を代行した。入朝して黄門郎となり、驃騎長史に転じ、[[広陵郡]]太守を兼ねた。[[南徐州]]刺史の新安王[[劉子鸞]]が呉郡を南徐州に編入すると、張岱は南徐州別駕となり、劉子鸞を補佐した。[[464年]](大明8年)、[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]が死去すると、張岱は吏部郎となった。[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、晋安王劉子勛を支持する勢力が各地で挙兵して[[明帝 (南朝宋)|明帝]]に反抗すると、明帝は張岱の才幹を信任して、使持節・都督[[西豫州]]諸軍事・輔国将軍・西豫州刺史に任じた。まもなく張岱は冠軍将軍・[[北徐州]]刺史・都督北討諸軍事に転じたが、いずれも赴任しなかった。泰始末年、呉興郡太守となった。[[472年]]([[泰豫]]元年)、使持節・都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・[[益州]]刺史に任じられた。[[元徽 (南朝宋)|元徽]]年間、益州は張岱の統治のもとで比較的安定した。張岱は召還されて[[侍中]]となり、長水校尉を兼ねた。度支尚書となり、左軍を兼ね、吏部尚書に転じた。[[王倹 (南朝斉)|王倹]]とのあいだに確執があり、その仲はすこぶる険悪であった。
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[[477年]]([[昇明]]元年)、張岱の兄の子の張瓌と張岱の弟の張恕が呉郡太守の劉遐を討つと、[[蕭道成]]は張恕を[[晋陵郡]]太守に任じようとした。張岱は張恕の経験が浅いことを理由に反対したが、蕭道成は張恕の勲功を張瓌と同等と認めて翻さなかった。まもなく張岱は散騎常侍の位を加えられた。[[479年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、南朝斉が建国されると、張岱は[[左将軍]]・呉郡太守として出向した。[[480年]](建元2年)、中護軍となり、給事中の位を加えられた。[[481年]](建元3年)、金紫光禄大夫の位を受け、鄱陽王師を兼ねた。
[[477年]]([[昇明]]元年)、張岱の兄の子の張瓌と張岱の弟の張恕が呉郡太守の劉遐を討つと、[[蕭道成]]は張恕を[[晋陵郡]]太守に任じようとした。張岱は張恕の経験が浅いことを理由に反対したが、蕭道成は張恕の勲功を張瓌と同等と認めて翻さなかった。まもなく張岱は散騎常侍の位を加えられた。[[479年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]元年)、南朝斉が建国されると、張岱は[[左将軍]]・呉郡太守として出向した。[[480年]](建元2年)、中護軍となり、給事中の位を加えられた。[[481年]](建元3年)、金紫光禄大夫の位を受け、鄱陽王師を兼ねた。

2020年8月24日 (月) 09:44時点における版

張岱(ちょう たい、414年 - 484年)は、南朝宋からにかけての官僚政治家は景山。本貫呉郡呉県。娘は陸倕の母。

経歴

南朝宋の金紫光禄大夫の張茂度(名は裕、張邵の兄)の子として生まれた。若くして兄の太子中舎人張演(張緒の父)・新安郡太守張鏡・征北将軍張永(張瓌張稷の父)・弟の広州刺史張弁とともに名を知られ、「張氏五龍」と称された。兄弟の中でも張演と張鏡の名が最も高く、張永・張岱・張弁は及ばなかった。呉郡に選挙されて上計掾とされたが、着任しなかった。揚州に召されて従事となった。南平王右軍主簿・尚書水部郎を歴任し、東遷県令として出向した。呉興郡太守の殷沖に名器と評され、大成を予言された。453年元嘉30年)、劉劭文帝を殺害して帝を称し、その打倒のために隨王劉誕が会稽で起兵すると、張岱は劉誕の下で建威将軍・輔国長史・行県事となった。劉劭の乱が平定されると、張岱は司徒左西曹となった。撫軍諮議参軍に転じ、山陰県令を兼ねた。

460年大明4年)、巴陵王劉休若徐州刺史となると、張岱は冠軍諮議参軍となり、彭城郡太守を兼ね、冠軍府と徐州の事務を代行した。461年(大明5年)、臨海王劉子頊が広州刺史となると、張岱は征虜府と広州の事務を代行した。463年(大明7年)、豫章王劉子尚車騎将軍となると、張岱は車騎府と揚州の事務を代行した。また晋安王劉子勛の下で征虜府と南兗州の事務を代行した。入朝して黄門郎となり、驃騎長史に転じ、広陵郡太守を兼ねた。南徐州刺史の新安王劉子鸞が呉郡を南徐州に編入すると、張岱は南徐州別駕となり、劉子鸞を補佐した。464年(大明8年)、孝武帝が死去すると、張岱は吏部郎となった。466年泰始2年)、晋安王劉子勛を支持する勢力が各地で挙兵して明帝に反抗すると、明帝は張岱の才幹を信任して、使持節・都督西豫州諸軍事・輔国将軍・西豫州刺史に任じた。まもなく張岱は冠軍将軍・北徐州刺史・都督北討諸軍事に転じたが、いずれも赴任しなかった。泰始末年、呉興郡太守となった。472年泰豫元年)、使持節・都督益寧二州諸軍事・冠軍将軍・益州刺史に任じられた。元徽年間、益州は張岱の統治のもとで比較的安定した。張岱は召還されて侍中となり、長水校尉を兼ねた。度支尚書となり、左軍を兼ね、吏部尚書に転じた。王倹とのあいだに確執があり、その仲はすこぶる険悪であった。

477年昇明元年)、張岱の兄の子の張瓌と張岱の弟の張恕が呉郡太守の劉遐を討つと、蕭道成は張恕を晋陵郡太守に任じようとした。張岱は張恕の経験が浅いことを理由に反対したが、蕭道成は張恕の勲功を張瓌と同等と認めて翻さなかった。まもなく張岱は散騎常侍の位を加えられた。479年建元元年)、南朝斉が建国されると、張岱は左将軍・呉郡太守として出向した。480年(建元2年)、中護軍となり、給事中の位を加えられた。481年(建元3年)、金紫光禄大夫の位を受け、鄱陽王師を兼ねた。

482年(建元4年)、武帝が即位すると、張岱は再び散騎常侍・呉興郡太守となった。484年永明2年)、使持節・監南兗兗徐青冀五州諸軍事・後将軍・南兗州刺史に任じられたが、受けないうちに死去した。享年は71。は貞子といった。

伝記資料