コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「張海鵬」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 臏珖玦玠猨琛を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (于琛澂) - log
28行目: 28行目:
=== 満州国での活動 ===
=== 満州国での活動 ===
[[File:Zhang Haipeng.jpg|thumb|張海鵬別影<br/>『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)|180px]]
[[File:Zhang Haipeng.jpg|thumb|張海鵬別影<br/>『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)|180px]]
[[1931年]](民国20年)9月18日に[[満州事変]](九・一八事変)が勃発すると、その直後の21日に張海鵬は[[関東軍]]に降伏した<ref>「&#x6D2E;南鎮守使降伏」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)9月22日。</ref>。10月1日に張は独立宣言を発布し、&#x6D2E;索辺境保安司令を自称、[[関東軍]]に呼応した<ref>「&#x6D2E;遼鎮守使 張海鵬氏独立」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月3日夕刊。</ref>。翌[[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月9日、[[満州国]]が正式に成立すると、翌10日、張は[[満州国参議府|参議府]]参議兼[[満州国宮内府|執政府]]侍従武官処武官長に任ぜられている<ref>「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。</ref>。同年11月、陸軍上将位を授与された。[[1933年]]([[大同 (満州)|大同]]2年)5月、[[熱河省 (満州国)|熱河省]]警備司令官兼熱河省省長に任ぜられ、翌[[1934年]](大同3年)11月まで務めた<ref>1932年から1934年までの張海鵬の職歴については、劉ほか編(1995)、1147・1150・1151・1194頁に拠った。徐(2007)、1836頁及び王ほか主編(1996)、993-994頁の記述は、劉ほか編(1995)のものと若干差異が見られる。</ref>。同年中に、侍従武官処武官長(この時点では治安部管轄)に再任された。[[1939年]]([[康徳]]6年)1月、侍従武官長は治安部管轄から皇帝直轄へと改められたが、張はそのまま留任した<ref>劉ほか編(1995)、1150頁。</ref>。[[1941年]](康徳8年)3月3日、張は武官長から勇退し、[[吉興]]がその後任となった<ref>「満洲國軍首脳異動」『朝日新聞』昭和16年(1941年)3月4日。</ref>。[[1944年]](康徳11年)9月29日、[[于芷山]]・[[于チン澂|于&#x741B;澂]]と共に軍事諮議官に任命された<ref>「駐日満洲国大使 [[王允卿]]氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。</ref>。
[[1931年]](民国20年)9月18日に[[満州事変]](九・一八事変)が勃発すると、その直後の21日に張海鵬は[[関東軍]]に降伏した<ref>「&#x6D2E;南鎮守使降伏」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)9月22日。</ref>。10月1日に張は独立宣言を発布し、&#x6D2E;索辺境保安司令を自称、[[関東軍]]に呼応した<ref>「&#x6D2E;遼鎮守使 張海鵬氏独立」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月3日夕刊。</ref>。翌[[1932年]]([[大同 (満州)|大同]]元年)3月9日、[[満州国]]が正式に成立すると、翌10日、張は[[満州国参議府|参議府]]参議兼[[満州国宮内府|執政府]]侍従武官処武官長に任ぜられている<ref>「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。</ref>。同年11月、陸軍上将位を授与された。[[1933年]]([[大同 (満州)|大同]]2年)5月、[[熱河省 (満州国)|熱河省]]警備司令官兼熱河省省長に任ぜられ、翌[[1934年]](大同3年)11月まで務めた<ref>1932年から1934年までの張海鵬の職歴については、劉ほか編(1995)、1147・1150・1151・1194頁に拠った。徐(2007)、1836頁及び王ほか主編(1996)、993-994頁の記述は、劉ほか編(1995)のものと若干差異が見られる。</ref>。同年中に、侍従武官処武官長(この時点では治安部管轄)に再任された。[[1939年]]([[康徳]]6年)1月、侍従武官長は治安部管轄から皇帝直轄へと改められたが、張はそのまま留任した<ref>劉ほか編(1995)、1150頁。</ref>。[[1941年]](康徳8年)3月3日、張は武官長から勇退し、[[吉興]]がその後任となった<ref>「満洲國軍首脳異動」『朝日新聞』昭和16年(1941年)3月4日。</ref>。[[1944年]](康徳11年)9月29日、[[于芷山]]・[[于澂]]と共に軍事諮議官に任命された<ref>「駐日満洲国大使 [[王允卿]]氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。</ref>。


満州国が滅亡すると、張海鵬は[[錦州市|錦州]]筆架山の寺院に身を隠し、[[中華人民共和国]]成立後には北京へ逃れた<ref>王ほか主編(1996)、994頁。</ref>。しかし[[1951年]]5月20日、北京市人民政府から反革命罪として死刑判決を言い渡され、即執行された<ref>『人民日報』1951年5月23日、第5版。</ref><ref>一方、徐(2007)、1836頁によれば、張海鵬は満州国滅亡後に[[天津市|天津]]に身を隠したが、[[中華人民共和国]]成立後の[[1949年]]に人民政府により処刑された、としている。</ref>。享年85。
満州国が滅亡すると、張海鵬は[[錦州市|錦州]]筆架山の寺院に身を隠し、[[中華人民共和国]]成立後には北京へ逃れた<ref>王ほか主編(1996)、994頁。</ref>。しかし[[1951年]]5月20日、北京市人民政府から反革命罪として死刑判決を言い渡され、即執行された<ref>『人民日報』1951年5月23日、第5版。</ref><ref>一方、徐(2007)、1836頁によれば、張海鵬は満州国滅亡後に[[天津市|天津]]に身を隠したが、[[中華人民共和国]]成立後の[[1949年]]に人民政府により処刑された、としている。</ref>。享年85。

2020年8月26日 (水) 11:52時点における版

張海鵬
『大満洲帝国名鑑』(1934年)
プロフィール
出生: 1867年同治6年)[1]
死去: 1951年5月20日
中華人民共和国の旗 中国北京市
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府蓋平県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 張海鵬
簡体字 张海鹏
拼音 Zhāng Hǎipéng
ラテン字 Chang Hai-p'eng
和名表記: ちょう かいほう
発音転記: ジャン ハイポン
テンプレートを表示

張 海鵬(ちょう かいほう)は中華民国満州国の軍人。北京政府奉天派に属し、後に満州国に参加した。仙濤。別名は連渓。綽名は張大麻子

事績

奉天派での活動

元々は盗賊追捕の任にあった。しかし日清戦争を境に、馬賊馮徳麟配下となる。日露戦争後に馮に従って清朝に帰順し、張海鵬は巡防隊管帯となる。また、奉天講武堂で学習した。1910年宣統2年)、張作霖と知り合い、義兄弟の契りを交わした[2][3]

中華民国が成立した1912年民国元年)12月、張海鵬は第28師第55旅旅長(第28師師長:馮徳麟)に任命された。1917年(民国6年)、張勲復辟に呼応して挙兵した馮が張作霖に逮捕され、失脚する。以後、張海鵬は張作霖配下に転じた。1921年(民国10年)、張海鵬は中東鉄道護路軍哈満副司令に任命され、1923年(民国12年)には同軍総司令に昇進した。翌年の第2次奉直戦争の後に、奉天騎兵第1遊撃隊統領となった。1927年(民国16年)、遼寧洮遼(または洮南)鎮守使兼東北騎兵第32師師長に任命された[2][4]

満州国での活動

張海鵬別影
『改訂 現代支那人名鑑』(1928年)

1931年(民国20年)9月18日に満州事変(九・一八事変)が勃発すると、その直後の21日に張海鵬は関東軍に降伏した[5]。10月1日に張は独立宣言を発布し、洮索辺境保安司令を自称、関東軍に呼応した[6]。翌1932年大同元年)3月9日、満州国が正式に成立すると、翌10日、張は参議府参議兼執政府侍従武官処武官長に任ぜられている[7]。同年11月、陸軍上将位を授与された。1933年大同2年)5月、熱河省警備司令官兼熱河省省長に任ぜられ、翌1934年(大同3年)11月まで務めた[8]。同年中に、侍従武官処武官長(この時点では治安部管轄)に再任された。1939年康徳6年)1月、侍従武官長は治安部管轄から皇帝直轄へと改められたが、張はそのまま留任した[9]1941年(康徳8年)3月3日、張は武官長から勇退し、吉興がその後任となった[10]1944年(康徳11年)9月29日、于芷山于琛澂と共に軍事諮議官に任命された[11]

満州国が滅亡すると、張海鵬は錦州筆架山の寺院に身を隠し、中華人民共和国成立後には北京へ逃れた[12]。しかし1951年5月20日、北京市人民政府から反革命罪として死刑判決を言い渡され、即執行された[13][14]。享年85。

  1. ^ 人民日報』1951年5月23日、第5版(「八十五歳」とあり、これは数え年と考えられる)及び徐主編(2007)、1836頁による。王ほか主編(1996)、993頁は1875年(光緒元年)としている。
  2. ^ a b 徐(2007)、1836頁。
  3. ^ 王ほか主編(1996)、993-994頁。
  4. ^ 王ほか主編(1996)、994頁。
  5. ^ 「洮南鎮守使降伏」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)9月22日。
  6. ^ 「洮遼鎮守使 張海鵬氏独立」『東京朝日新聞』昭和6年(1931年)10月3日夕刊。
  7. ^ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。
  8. ^ 1932年から1934年までの張海鵬の職歴については、劉ほか編(1995)、1147・1150・1151・1194頁に拠った。徐(2007)、1836頁及び王ほか主編(1996)、993-994頁の記述は、劉ほか編(1995)のものと若干差異が見られる。
  9. ^ 劉ほか編(1995)、1150頁。
  10. ^ 「満洲國軍首脳異動」『朝日新聞』昭和16年(1941年)3月4日。
  11. ^ 「駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月30日夕刊、1面。
  12. ^ 王ほか主編(1996)、994頁。
  13. ^ 『人民日報』1951年5月23日、第5版。
  14. ^ 一方、徐(2007)、1836頁によれば、張海鵬は満州国滅亡後に天津に身を隠したが、中華人民共和国成立後の1949年に人民政府により処刑された、としている。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 山室信一『キメラ-満洲国の肖像 増補版』中央公論新社中公新書)、2004年。ISBN 4-12-191138-5 
  満州国
先代
(創設)
熱河省長
1933年5月 - 1934年11月
次代
劉夢庚