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「下毛野虫麻呂」の版間の差分

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== 経歴 ==
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[[養老]]4年([[720年]])[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]する。翌養老5年([[721年]])[[呉粛胡明]]とともに従五位上に昇叙。さらに同月に[[元正天皇]]が官人の中から学業に優れ人々の師範たるに堪える者を選んで褒賞を与えた際、[[文章道|文章]]に優れるとして、[[山田三方]]・[[紀清人]]・[[高丘河内|楽浪河内]]とともに、[[絁]]15疋・[[絹糸]]15絇・[[麻織物|麻布]]30端・[[鍬]]20口を与えられている。同年6月には[[式部省|式部員外少輔]]に任官している。


このほか、『[[経国集]]』に[[対策]]文が2つ収録されている。また、『[[懐風藻]]』に養老4年の秋に[[長屋王]]の邸宅で行われた[[新羅]]の客を送る宴で詠まれた[[漢詩]]作品1首(五言[[律詩]])が序文とともに採録されているが、その目次によると[[官位]]は従五位下・大学助教で、年三十六とある。36歳で没したと見られる。
このほか、『[[経国集]]』に[[対策]]文が2つ収録されている。また、『[[懐風藻]]』に養老4年の秋に[[長屋王]]の邸宅で行われた[[新羅]]の客を送る宴で詠まれた[[漢詩]]作品1首(五言[[律詩]])が序文とともに採録されているが、その目次によると[[官位]]は従五位下・大学助教で、年三十六とある。36歳で没したと見られる。
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* 時期不詳:[[正六位|正六位上]]
* 時期不詳:[[正六位|正六位上]]
* [[養老]]4年([[720年]])正月11日:[[従五位|従五位下]]。秋:見[[大学寮|大学助教]]<ref>『懐風藻』</ref>
* [[養老]]4年([[720年]])正月11日:[[従五位|従五位下]]。秋:見[[大学寮|大学助教]]<ref>『懐風藻』</ref>
* [[養老]]5年([[721年]])正月5日:従五位上。正月27日:賜[[あしぎぬ|絁]]15疋・[[絹糸]]15絇・[[麻織物|麻布]]30端・[[鍬]]20口。6月26日:[[式部省|式部員外少輔]]
* [[養老]]5年([[721年]])正月5日:従五位上。正月27日:賜[[絁]]15疋・[[絹糸]]15絇・[[麻織物|麻布]]30端・[[鍬]]20口。6月26日:[[式部省|式部員外少輔]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2020年8月27日 (木) 23:14時点における最新版

下毛野 虫麻呂(しもつけの の むしまろ、生没年不詳)は、奈良時代前紀の貴族文人朝臣参議下毛野古麻呂の近親か。官位従五位上式部員外少輔

経歴[編集]

養老4年(720年従五位下叙爵する。翌養老5年(721年呉粛胡明とともに従五位上に昇叙。さらに同月に元正天皇が官人の中から学業に優れ人々の師範たるに堪える者を選んで褒賞を与えた際、文章に優れるとして、山田三方紀清人楽浪河内とともに、15疋・絹糸15絇・麻布30端・20口を与えられている。同年6月には式部員外少輔に任官している。

このほか、『経国集』に対策文が2つ収録されている。また、『懐風藻』に養老4年の秋に長屋王の邸宅で行われた新羅の客を送る宴で詠まれた漢詩作品1首(五言律詩)が序文とともに採録されているが、その目次によると官位は従五位下・大学助教で、年三十六とある。36歳で没したと見られる。

官歴[編集]

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『懐風藻』

参考文献[編集]