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「クチュ」の版間の差分

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オゴデイの治世下において、オゴデイの諸子の内年長の3人の息子(グユク、コデン、クチュ)は遠征軍の司令官を務めていた。この内グユク、コデンについては独自のウルスを形成した記録が存在するが、クチュのウルスに関しては不明な点が多い。しかし、同じような立場のグユク、コデンに独自のウルスがありながらクチュにのみないのは不自然なこと、ウルスを有する者にのみなされる華北[[投下]]領の分発が行われていることなどから、やはりクチュも独自のウルスを形成していたと考えられている。
オゴデイの治世下において、オゴデイの諸子の内年長の3人の息子(グユク、コデン、クチュ)は遠征軍の司令官を務めていた。この内グユク、コデンについては独自のウルスを形成した記録が存在するが、クチュのウルスに関しては不明な点が多い。しかし、同じような立場のグユク、コデンに独自のウルスがありながらクチュにのみないのは不自然なこと、ウルスを有する者にのみなされる華北[[投下]]領の分発が行われていることなどから、やはりクチュも独自のウルスを形成していたと考えられている。


クチュ・ウルスの位置については、[[ロ州|潞州]]にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと見られる<ref>松田1996,44-46頁</ref>。
クチュ・ウルスの位置については、[[潞州]]にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと見られる<ref>松田1996,44-46頁</ref>。


== クチュ王家 ==
== クチュ王家 ==

2020年9月3日 (木) 11:12時点における版

クチュモンゴル語: Küčü, 中国語: 闊出, ?ー1236年)は、チンギス・カンの息子オゴデイの息子で、モンゴル帝国の皇族。父オゴデイ・カーンからは後継者に指名されており、南宋遠征の総司令官に抜擢されたが、父オゴデイの存命中に急死した。『元史』などの漢文史料では闊出、『集史』などのペルシア語史料ではکوچوKūchūと記される。書籍によってはグチュとも日本語表記される。

概要

『集史』「オゴデイ・カアン紀」によるとクチュはオゴデイ・カーンの子供の中でも非常に賢明であったため、オゴデイはクチュを後継者に指名したという[1]。そのため、クチュは史料上に「クチュ太子(闊出太子)」として記されるようになる[2]。また、オゴデイ存命中に既にクチュのウルスは成立しており、その遊牧地は夏営地が襄垣県、冬営地が懐州の万全店にあったと推測されている[3]

オゴデイ・カーンは自らの指揮する金朝征服を成功させると、1235年に改めてクリルタイでバトゥを総司令とするヨーロッパ遠征と、クチュを総司令とする東アジア遠征の二大遠征を企画した[4]。クチュ率いる南宋遠征軍には王族としてはトゥルイ家のクトクトゥベルグテイ王家のクウン・ブカらが、モンゴル人将軍にはジャライル国王家のスグンチャク[5]、タングート人のチャガン[6]、同じくジャライル出身のアラカン[7]カルルク出身のテメチ[8]、また漢人としては李楨[9]楊惟中[10]張柔[11]李邦瑞[12]らが、女真人には高鬧児がいた[13]

クチュ率いる遠征軍は現在の河南省江蘇省方面へと侵攻し、棗陽や唐州・鄧州といった河南の諸城を攻略し[14]趙復らの人材を傘下に収めた[15]。しかし遠征開始から僅か1年後、1236年冬にクチュは急死してしまった[16]。総司令を失ったモンゴル軍は混乱し、クウン・ブカやチャガンが代わりに指揮をとったものの、南宋の名将孟珙の活躍もあってモンゴルは占領した大部分の土地を南宋に奪い返されてしまった。

クチュを失ったオゴデイはやむなくクチュの息子シレムンを後継者としたものの、オゴデイが亡くなった時にはシレムンは若すぎ、ドレゲネらオゴデイ家の者はシレムンではなくオゴデイの庶長子グユクをカンに推戴した。グユクが亡くなった後、オゴデイ家ではなくトゥルイ家のモンケがカーンに即位すると、これに不満を懐いたシレムンらはクーデターを計画したものの、事前に露見しシレムンらは捕らえられてしまい、権臣ヤラワチの進言で、シレムンらは皮袋に覆われて、川に放り込まれて処刑された。このため、クチュ家の財産は末子のソセに受け継がれた[17]

クチュ・ウルス

オゴデイの治世下において、オゴデイの諸子の内年長の3人の息子(グユク、コデン、クチュ)は遠征軍の司令官を務めていた。この内グユク、コデンについては独自のウルスを形成した記録が存在するが、クチュのウルスに関しては不明な点が多い。しかし、同じような立場のグユク、コデンに独自のウルスがありながらクチュにのみないのは不自然なこと、ウルスを有する者にのみなされる華北投下領の分発が行われていることなどから、やはりクチュも独自のウルスを形成していたと考えられている。

クチュ・ウルスの位置については、潞州にクチュの避暑楼(=夏営地)が建設されたという記録が存在すること、黄河沿いの懐州から現在の山西省を縦断するルートにクチュ専用の軍事駅伝道が整備されたことなどから、潞州を中心とする現在の山西省南部一帯に置かれていたと見られる[18]

クチュ王家

脚注

  1. ^ 松田1996,26頁
  2. ^ モンゴル帝国時代、「太子」と称されるのは皇帝(カーン)の子供或いは後継者に限られており、「王」「大王」といった称号より明らかに上位に置かれていた(杉山2004,475頁)
  3. ^ 松田1996,47頁
  4. ^ 『元史』巻2太宗本紀「七年乙未春、城和林、作万安宮。遣諸王抜都及皇子貴由・皇侄蒙哥征西域、皇子闊端征秦・鞏、皇子曲出及胡土虎伐宋、唐古征高麗」
  5. ^ 『元史』巻119列伝6「速渾察、性厳厲、賞罰明信、人莫敢犯。与兄塔思従太宗攻鳳翔有功。将兵抵潼関、與金人戦屡捷。既滅金、皇子闊出攻宋棗陽、入郢、速渾察皆与焉」
  6. ^ 『元史』巻120列伝7「太宗即位、従略河南……皇子闊出・忽都禿伐宋、命察罕為斥候」
  7. ^ 『元史』巻129列伝19「阿剌罕、札剌児氏。……歳乙未、従皇子闊出・忽都禿南征、累功授万戸、遷天下馬歩禁軍都元帥」
  8. ^ 『元史』巻122列伝9「鉄邁赤、合魯氏。善騎射、初事忽蘭皇後帳前、嘗命為挏馬官。従太祖定西夏。又従皇子闊出・忽都禿・行省鉄木答児定河南、累有戦功」
  9. ^ 『元史』巻124列伝11「李楨、字幹臣……従皇子闊出伐金、帝命之曰、凡軍中事、須訪楨以行。及下河南諸郡、闊出遣楨偕吉登哥往唐・鄧二州数民実、兵餘歳兇、流散十八九。楨至、賑恤饑寒、帰者如市」
  10. ^ 『元史』巻146列伝33「楊惟中、字彦誠、弘州人……皇子闊出伐宋、命惟中於軍前行中書省事」
  11. ^ 『元史』巻147列伝34「張柔…乙未、従皇子闊出拔棗陽、継従大帥太赤攻徐・邳」
  12. ^ 『元史』巻153列伝40「李邦瑞、字昌国、以字行、京兆臨潼人、世農家……甲午、従諸王闊出経略河南、凡所歴河北・陝西州郡四十餘城、繪囲以進、授金符・宣差軍儲使」
  13. ^ 『元史』巻151列伝38「高鬧児、女直人。事太祖、従征西域。復従闊出太子・察罕那演、連歳出征、累有功」
  14. ^ 『元史』巻2太宗本紀「七年……冬十月、曲出囲棗陽、拔之、遂徇襄・鄧、入郢、虜人民牛馬数万而還」
  15. ^ 『元史』巻189儒学1「趙復、字仁甫、徳安人也。太宗乙未歳,命太子闊出帥師伐宋、徳安以嘗逆戦、其民数十万、皆俘戮無遺。進楊惟中行中書省軍前、姚枢奉詔即軍中求儒・道・釈・医・卜士、凡儒生掛俘籍者、輒脱之以帰、復在其中」
  16. ^ 『元史』巻2太宗本紀「八年丙申……冬十月……皇子曲出薨」
  17. ^ 村岡1992,31頁
  18. ^ 松田1996,44-46頁

参考文献

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 村岡倫「オゴデイ= ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8
  • 蒙兀児史記』巻37列伝19