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「利津県」の版間の差分

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== 歴史 ==
== 歴史 ==
利津県は[[周]]・[[秦]]の時代は斉国に属する。[[漢]]の時代に[[千乗郡]]湿沃県・蓼城県となる。[[後漢]]以降、[[黄河]]が利津の地で海に注ぐようになり黄河デルタを形成する。[[隋]]に永利鎮となり蒲台県に属する。[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]には渤海県永利鎮となる。[[金 (王朝)|金]]代の[[明昌 (金)|明昌]]3年12月([[1193年]]1月)利津鎮となり、山東東路浜州刺史郡に属する。[[元 (王朝)|元]]・[[明]]には山東済南府の浜州に属する。清朝・民国の時期に山東武定府(現在の[[恵民県]])に属する。水運や商業貿易の要衝を形成し、「小天津」と称された。[[清]]末に[[義和団]]が台頭し、[[袁世凱]]よる弾圧が起こる。中華人民共和国が成立すると恵民行政事務所に属する。1958年11月、利津県は沾化県と合併し沾化県となり、[[博市|淄博]]行政事務所に属する。1961年10月に再び利津県にとして復活し、恵民行政事務所に属する。1983年10月15日に東営市が成立し市轄県となり、同時に羅家公社の4村ならびに六合公社は新しく成立した[[河口区]]に編入された。
利津県は[[周]]・[[秦]]の時代は斉国に属する。[[漢]]の時代に[[千乗郡]]湿沃県・蓼城県となる。[[後漢]]以降、[[黄河]]が利津の地で海に注ぐようになり黄河デルタを形成する。[[隋]]に永利鎮となり蒲台県に属する。[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]には渤海県永利鎮となる。[[金 (王朝)|金]]代の[[明昌 (金)|明昌]]3年12月([[1193年]]1月)利津鎮となり、山東東路浜州刺史郡に属する。[[元 (王朝)|元]]・[[明]]には山東済南府の浜州に属する。清朝・民国の時期に山東武定府(現在の[[恵民県]])に属する。水運や商業貿易の要衝を形成し、「小天津」と称された。[[清]]末に[[義和団]]が台頭し、[[袁世凱]]よる弾圧が起こる。中華人民共和国が成立すると恵民行政事務所に属する。1958年11月、利津県は沾化県と合併し沾化県となり、[[博市|淄博]]行政事務所に属する。1961年10月に再び利津県にとして復活し、恵民行政事務所に属する。1983年10月15日に東営市が成立し市轄県となり、同時に羅家公社の4村ならびに六合公社は新しく成立した[[河口区]]に編入された。


== 行政区画 ==
== 行政区画 ==

2020年9月11日 (金) 20:56時点における最新版

中華人民共和国 山東省 利津県
陳荘鎮政府ビル
陳荘鎮政府ビル
陳荘鎮政府ビル
東営市中の利津県の位置
東営市中の利津県の位置
東営市中の利津県の位置
簡体字 利津
繁体字 利津
拼音 Lìjīn
カタカナ転写 リージン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
山東
地級市 東営市
行政級別
面積
総面積 1,665.8 km²
人口
総人口(2003) 28.96 万人
経済
電話番号 0546
郵便番号 277400
行政区画代碼 370522
公式ウェブサイト http://www.lijin.gov.cn/

利津県(りしん-けん)は中華人民共和国山東省東営市に位置する

歴史

[編集]

利津県はの時代は斉国に属する。の時代に千乗郡湿沃県・蓼城県となる。後漢以降、黄河が利津の地で海に注ぐようになり黄河デルタを形成する。に永利鎮となり蒲台県に属する。には渤海県永利鎮となる。代の明昌3年12月(1193年1月)利津鎮となり、山東東路浜州刺史郡に属する。には山東済南府の浜州に属する。清朝・民国の時期に山東武定府(現在の恵民県)に属する。水運や商業貿易の要衝を形成し、「小天津」と称された。末に義和団が台頭し、袁世凱よる弾圧が起こる。中華人民共和国が成立すると恵民行政事務所に属する。1958年11月、利津県は沾化県と合併し沾化県となり、淄博行政事務所に属する。1961年10月に再び利津県にとして復活し、恵民行政事務所に属する。1983年10月15日に東営市が成立し市轄県となり、同時に羅家公社の4村ならびに六合公社は新しく成立した河口区に編入された。

行政区画

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  • 街道:利津街道、鳳凰城街道
  • 鎮:北宋鎮、塩窩鎮、陳荘鎮、汀羅鎮
  • 郷:明集郷、刁口郷