コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「松平直丘」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 稹湄湞滁漳潢滎を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (松平直暠) - log
31行目: 31行目:
[[松江藩]]主・[[松平直政]]の四男として誕生。
[[松江藩]]主・[[松平直政]]の四男として誕生。


[[延宝]]元年([[1673年]])、兄・[[松平隆政|隆政]]の死後、その相続が認められて藩主となった。その後、[[番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]・御側衆となっている。男子がいたが早世していたため、[[新庄直詮]]の次男・[[松平直員|直員]]を養嗣子として迎えた(以降、直員とその長男・[[松平直道|直道]]、次男・[[松平直行|直行]]と、越前松平家出身でない当主が続いたが、その後に[[松平直良|直良]]系の[[松平直きよ|松平直暠]]・[[松平直方 (母里藩主)|直方]]兄弟が養子入りしている)。
[[延宝]]元年([[1673年]])、兄・[[松平隆政|隆政]]の死後、その相続が認められて藩主となった。その後、[[番頭#江戸幕府の番頭|大番頭]]・御側衆となっている。男子がいたが早世していたため、[[新庄直詮]]の次男・[[松平直員|直員]]を養嗣子として迎えた(以降、直員とその長男・[[松平直道|直道]]、次男・[[松平直行|直行]]と、越前松平家出身でない当主が続いたが、その後に[[松平直良|直良]]系の[[松平直暠]]・[[松平直方 (母里藩主)|直方]]兄弟が養子入りしている)。


[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。

2020年9月11日 (金) 21:55時点における版

 
松平直丘
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文5年6月26日1665年8月7日
死没 正徳2年12月27日1713年1月23日
別名 頼母(通称)、直高、直能
戒名 法性院
官位 従五位下美作守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家綱綱吉家宣
出雲母里藩
氏族 越前松平家支流母里松平家
父母 松平直政、篠塚氏
兄弟 綱隆近栄隆政直丘、駒姫、鶴姫、
竹姫、万姫、亀姫、喜耶姫、松姫
細川利重養女松平頼元三女長
男子、初、京極高通正室、松平守信正室、直員
テンプレートを表示

松平 直丘(まつだいら なおたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名出雲国母里藩2代藩主。官位従五位下美作守。通称は頼母(たのも)、別名は直高(読み同じ)、直能(なおよし)など様々なものが伝わっている。直政系越前松平家母里藩分家2代。

略歴

松江藩主・松平直政の四男として誕生。

延宝元年(1673年)、兄・隆政の死後、その相続が認められて藩主となった。その後、大番頭・御側衆となっている。男子がいたが早世していたため、新庄直詮の次男・直員を養嗣子として迎えた(以降、直員とその長男・直道、次男・直行と、越前松平家出身でない当主が続いたが、その後に直良系の松平直暠直方兄弟が養子入りしている)。

正徳2年(1712年)12月27日に死去した。享年48。法号は法性院。

系譜