コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

松平直哉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 直哉
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代
生誕 嘉永元年2月29日1848年4月2日
死没 明治33年(1900年1月3日
改名 悦之進(幼名)、直哉
墓所 天徳寺
官位 従五位下志摩守主計頭正四位
幕府 江戸幕府
出雲国母里藩藩主
氏族 越前松平家(母里松平家)
父母 父:松平直温、母:吉村氏
道子(堀田正睦の四女)[1]
直敬繁一郎浩二郎堀田正倫養子、離縁)
テンプレートを表示

松平 直哉(まつだいら なおとも[1]、なおとし[2])は、出雲国母里藩の第10代(最後)の藩主。直政系越前松平家母里藩分家10代。官職志摩守主計頭[1]

明治維新後、母里藩知事子爵[2]東京市赤坂区区会議員、同副議長、同区学務委員などを歴任[2]貴族院議員を務めた[2]

略伝

[編集]

嘉永元年(1848年)2月29日、第9代藩主・松平直温の長男として生まれる[3]幼名は悦之進[3]。母は側室・吉村氏[3]

安政3年(1856年)9月、父が亡くなり、12月15日、家督を継いだ[3][1]文久2年(1862年)12月16日、従五位下主計頭となる[3]元治元年(1864年)の第1次長州征伐に藩は消極的な立場をとった。後に幕府に懇願して10万石の格式を許されている。

明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還により母里藩知事に任じられる[3]。明治3年(1870年)の藩政改革では士族の帰農政策を推進したが失敗した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で藩知事を免職された[3]。このとき東京へ移ろうとしたが、領民の反対にあっている。

明治8年(1875年)12月、島根県・母里小学校(現・安来市立母里小学校)に資金を出している[4]

明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となった[4]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員(子爵議員)に就任し、死去するまで在任した[5][2]

明治33年(1900年)1月3日、死去した[6][1][2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 維新史料編纂会 1929, p. 599.
  2. ^ a b c d e f 衆議院 & 参議院 1990, p. 56.
  3. ^ a b c d e f g 続群書類従完成会 1984, p. 155.
  4. ^ a b 続群書類従完成会 1984, p. 159.
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
  6. ^ 『官報』第4951号、明治33年1月6日

参考文献

[編集]
  • 維新史料編纂会 編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年1月15日。NDLJP:1879484 オープンアクセス
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 『徳川諸家系譜』 第四、続群書類従完成会、1984年12月5日。NDLJP:12209719 (要登録)
  • 衆議院参議院 編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』1990年11月。NDLJP:9673684 (要登録)
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
母里松平家初代
1884年 - 1897年
次代
松平直敬