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「阿倍虫麻呂」の版間の差分

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藤原広嗣の乱、万葉集採録歌
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== 経歴 ==
== 経歴 ==
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2020年9月11日 (金) 22:08時点における版

 
阿倍虫麻呂
時代 奈良時代
生誕 不明
死没 天平勝宝4年3月17日752年4月5日
別名 氏:安倍
官位 従四位下中務大輔
主君 聖武天皇孝謙天皇
氏族 阿倍氏
父母 父:阿倍安麻呂、母:安曇外命婦
兄弟 豊継、虫麻呂
安部雄能麻呂?
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阿倍 虫麻呂(あべ の むしまろ)は、奈良時代貴族歌人安倍とも記される。従四位下阿倍安麻呂の子とする系図がある。官位従四位下中務大輔

経歴

天平9年(737年)に正七位上から五階の昇叙を受け、外位ながら従五位下に叙せられ、皇后宮亮[1]に任ぜられる。同年12月に長く病んでいた皇太夫人藤原宮子玄昉の看病により回復して、久しぶりに聖武天皇と相見えたことから、中宮職の諸官人が昇叙され、虫麻呂も内位の従五位下への叙位を受けている。天平10年(738年中務少輔に遷る。

天平12年(740年藤原広嗣の乱が発生したため、9月上旬に衛門督佐伯常人と共に勅使として九州へ派遣される[2]。9月下旬に常人と共に隼人24名・軍士4000名を率いて豊前国板櫃営(現在の福岡県北九州市小倉北区到津地区)に着陣し[3]、10月に板櫃川藤原広嗣軍と交戦する[4]。乱鎮圧後の11月に伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮において供奉者への叙位がなされて従五位上に、天平13年(741年)には乱での戦功により、正五位下に昇叙される。同年8月に播磨守として地方官に転じる。天平15年(743年)にも正五位上に叙せられ、のち左中弁を務めるなど、聖武朝後半は順調に昇進した。

孝謙朝に入り、天平勝宝元年(749年紫微中台が設置されると紫微大忠を兼ね、天平勝宝3年(751年)には従四位下に至る。天平勝宝4年(752年)3月17日卒去。最終官位は中務大輔従四位下。

万葉歌人であり、『万葉集』には虫麻呂の詠んだ「しつたまき 数にもあらぬ 我が身もち 如何でここだく 我が恋ひ渡る」という和歌ほか5首が採録されている[5]

官歴

系譜

脚注

  1. ^ または中宮少進
  2. ^ 『続日本紀』天平12年9月5日条
  3. ^ 『続日本紀』天平12年9月24日条
  4. ^ 『続日本紀』天平12年10月9日条
  5. ^ 『万葉集』巻4-665,672,巻6-980,巻8-1577,1578
  6. ^ 坂本,平野[1990: 32]
  7. ^ a b 宝賀[1986: 375]
  8. ^ 『万葉集』
  9. ^ 『日本後紀』の雄能麻呂の卒伝では、億宇麻呂の孫で、人成の子とする(『日本後紀』天長3年8月2日条)。年代的にも差異があり、系図上では数代欠落している可能性もある。

出典