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「伴成益」の版間の差分

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[[仁明天皇|仁明朝]]に入り、[[承和 (日本)|承和]]元年([[834年]])[[遣唐使]]が派遣されることが決まると、[[弁官|左中弁]]・[[笠仲守]]と共に[[遣唐使|遣唐装束司]]に任ぜられ、遣唐使節用の[[装束]]の製作を担当する(この時の[[官職]]は右少弁)。のち、[[大蔵省|大蔵少輔]]/大輔を務める一方、承和3年([[836年]])右少弁、承和7年([[840年]])従五位上・右中弁、承和9年([[842年]])[[正五位|正五位下]]、承和11年([[844年]])左中弁、承和12年([[845年]])従四位下に叙任されるなど、[[弁官]]を兼帯して順調に昇進した。


しかし、承和12年(845年)に[[法隆寺]]の[[僧侶]]・[[善がい|善愷]]が同寺の[[布施|壇越]]である[[少納言]]・[[登美直名]]を告訴し、弁官による審理の結果直名を遠流とした[[訴訟]]事件が発生する。その訴訟の取り扱いを巡って、翌承和13年([[846年]])に右少弁・[[伴善男]]と[[史 (律令制)|左大史]]・[[伴良田宗]]がこの訴訟の審理を行った5名の弁官を[[弾劾]]した。具体的な成益の罪状としては、善愷が提出した訴状を[[僧綱]]・[[治部省]]を経由せずに弁官が直接受理したが、これは慣例ではあったものの本来手続違反であり、その後に出た当該の慣例は不適切であるとした上官の判断を成益は敢えて無視し、訴状を本来の正しい部署(僧綱)へ移送しなかった事があげられている。結局この弾劾は認められ、成益は他の弁官と共に私罪にあたるとして[[解官]]の上で[[贖銅]]10斤を課された([[善がい訴訟事件|善愷訴訟事件]])<ref>『続日本後紀』承和13年11月14日条</ref>。承和14年([[847年]])には弾劾された4人の元弁官と共に[[位記]]を1階分破毀され、翌[[嘉祥]]元年12月([[849年]]1月)にはさらに[[位階]]を1等降格した上で従五位上に再叙された。
しかし、承和12年(845年)に[[法隆寺]]の[[僧侶]]・[[善愷]]が同寺の[[布施|壇越]]である[[少納言]]・[[登美直名]]を告訴し、弁官による審理の結果直名を遠流とした[[訴訟]]事件が発生する。その訴訟の取り扱いを巡って、翌承和13年([[846年]])に右少弁・[[伴善男]]と[[史 (律令制)|左大史]]・[[伴良田宗]]がこの訴訟の審理を行った5名の弁官を[[弾劾]]した。具体的な成益の罪状としては、善愷が提出した訴状を[[僧綱]]・[[治部省]]を経由せずに弁官が直接受理したが、これは慣例ではあったものの本来手続違反であり、その後に出た当該の慣例は不適切であるとした上官の判断を成益は敢えて無視し、訴状を本来の正しい部署(僧綱)へ移送しなかった事があげられている。結局この弾劾は認められ、成益は他の弁官と共に私罪にあたるとして[[解官]]の上で[[贖銅]]10斤を課された([[善がい訴訟事件|善愷訴訟事件]])<ref>『続日本後紀』承和13年11月14日条</ref>。承和14年([[847年]])には弾劾された4人の元弁官と共に[[位記]]を1階分破毀され、翌[[嘉祥]]元年12月([[849年]]1月)にはさらに[[位階]]を1等降格した上で従五位上に再叙された。


嘉祥3年([[850年]])従四位下に復され、[[丹波国#国司|丹波権守]]として地方官を務めるが、丹波国赴任中は国内は粛然とし、[[国人]]は成益の清廉潔白さを賞賛したという<ref name="a">『[[日本文徳天皇実録]]』仁寿2年2月10日条</ref>。[[仁寿]]2年([[852年]])2月10日[[崩御#卒去|卒去]]。[[享年]]64。最終[[官位]]は従四位下行丹波権守。
嘉祥3年([[850年]])従四位下に復され、[[丹波国#国司|丹波権守]]として地方官を務めるが、丹波国赴任中は国内は粛然とし、[[国人]]は成益の清廉潔白さを賞賛したという<ref name="a">『[[日本文徳天皇実録]]』仁寿2年2月10日条</ref>。[[仁寿]]2年([[852年]])2月10日[[崩御#卒去|卒去]]。[[享年]]64。最終[[官位]]は従四位下行丹波権守。

2020年9月14日 (月) 23:03時点における版

 
伴成益
時代 平安時代初期
生誕 延暦8年(789年
死没 仁寿2年2月10日852年3月4日
官位 従四位下左中弁
主君 淳和天皇仁明天皇文徳天皇
氏族 大伴宿禰→伴宿禰
父母 父:伴宇治人
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伴 成益(とも の なります)は、平安時代初期の貴族参議大伴弟麻呂の孫。従五位上・伴宇治人の子。官位従四位下左中弁

経歴

若くして大学に入学して文章を学び、進士試に及第する。弘仁14年(823年左京少進に任ぜられたのち、式部少丞・右京少進を経て、天長9年(832年従五位下に叙せられる。

仁明朝に入り、承和元年(834年遣唐使が派遣されることが決まると、左中弁笠仲守と共に遣唐装束司に任ぜられ、遣唐使節用の装束の製作を担当する(この時の官職は右少弁)。のち、大蔵少輔/大輔を務める一方、承和3年(836年)右少弁、承和7年(840年)従五位上・右中弁、承和9年(842年正五位下、承和11年(844年)左中弁、承和12年(845年)従四位下に叙任されるなど、弁官を兼帯して順調に昇進した。

しかし、承和12年(845年)に法隆寺僧侶善愷が同寺の壇越である少納言登美直名を告訴し、弁官による審理の結果直名を遠流とした訴訟事件が発生する。その訴訟の取り扱いを巡って、翌承和13年(846年)に右少弁・伴善男左大史伴良田宗がこの訴訟の審理を行った5名の弁官を弾劾した。具体的な成益の罪状としては、善愷が提出した訴状を僧綱治部省を経由せずに弁官が直接受理したが、これは慣例ではあったものの本来手続違反であり、その後に出た当該の慣例は不適切であるとした上官の判断を成益は敢えて無視し、訴状を本来の正しい部署(僧綱)へ移送しなかった事があげられている。結局この弾劾は認められ、成益は他の弁官と共に私罪にあたるとして解官の上で贖銅10斤を課された(善愷訴訟事件[1]。承和14年(847年)には弾劾された4人の元弁官と共に位記を1階分破毀され、翌嘉祥元年12月(849年1月)にはさらに位階を1等降格した上で従五位上に再叙された。

嘉祥3年(850年)従四位下に復され、丹波権守として地方官を務めるが、丹波国赴任中は国内は粛然とし、国人は成益の清廉潔白さを賞賛したという[2]仁寿2年(852年)2月10日卒去享年64。最終官位は従四位下行丹波権守。

人物

正直な性格で、公事を務めるにあたっては法を重視し、権力に阿るようなことはなかった[2]

官歴

六国史』による。

脚注

  1. ^ 『続日本後紀』承和13年11月14日条
  2. ^ a b 日本文徳天皇実録』仁寿2年2月10日条

参考文献