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2020年9月15日 (火) 13:20時点における版

慰安所(いあんじょ)とは、本来苦役に従事する人たちの為の福利厚生の為に設置された慰安を供する為の施設のことであるが、一般には軍隊や炭鉱などに設置された売春宿のことを指す。

概略

慰安所とは、本来苦役に従事する人たちの為の福利厚生の為に設置された、飲食娯楽遊興などで慰安を供する為の施設(慰安施設)のことである。従って、食堂やカフェや酒場等の飲食施設、遊戯設備(ゲーム器)等を備えた施設、舞台や音楽鑑賞やダンスの出来る施設などがあり、軍慰問団は軍用慰安施設のホールや部隊などを利用して将兵の慰問を行った[1][要出典]

軍慰安所軍隊慰安所ともいい[2]、一般には軍隊や政府組織が軍人や軍属のために設置あるいは指定した売春宿のことを指す。 近現代史において、日本・ドイツ・フランスなどの軍隊は公娼制を前提として軍公認の売春宿を設置あるいは指定した[要出典]日本軍政が制度化した軍公認の軍利用・軍専用売春宿の呼称が「特殊慰安所(慰安所)」である[3][独自研究?]フランスの軍用売春宿計画は「キャンディボックス(la boîte à bonbons)」などと婉曲表現された[4]。韓国で設置された国連軍・米軍のための軍用売春宿は「基地村(Camp Town 기지촌 Kijichon)」と呼ばれた[5]。また、ベトナム戦争時、韓国軍が韓国兵専用としてサイゴンに設立した慰安所は「トルコ風呂(The Turkish Bath)」と呼ばれた[6]

また、労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のために事業場慰安所が設立された例もある[7][8]

慰安婦

慰安所で兵士の相手をした女性を慰安婦という。

軍隊と娼婦

16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている[9]

十字軍の遠征にも売春婦が同行していた[10] [11]。売春婦部隊が存在したとする者もいる[12]

朝鮮の妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族が出没する白頭山付近の「邑」に派遣された[13]

日本にも古くから御陣女郎がいた[14]:91

近代公娼制と軍隊

藤目ゆきは、近代の公娼制と軍隊が密接に関連していたと述べている。

兵士の性病防止の為の売春の国家統制は、まず19世紀初頭のフランスで始まり、ヨーロッパ大陸とイギリスに広がった。この当時、ナポレオン戦争の副産物として性病がヨーロッパ中に広まっていた。

その後プロイセンは一時公娼制度を中断したが、軍当局の圧力で1851年に再開した。イギリスもクリミア戦争による性病の蔓延を受けて公娼制度を導入した。1886年に本国で公娼制度を撤廃した後も、イギリス軍の利益の為に、イギリスの植民地ではこの制度は温存された。

北アメリカでは、法制化にこそ至らなかったが、南北戦争中に北軍が南部の都市を占領すると、北軍の指導者が売春の統制に乗り出し、1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制度が正式に採用された。

藤目は、近代の公娼制度は「軍隊慰安と性病管理を機軸とした国家管理売春の体系」であるとしている[15]

近代型の公娼制度は、その後、日本でも導入された。

秦郁彦も、近代公娼制が始められたのは性病対策がきっかけであったとし、ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは、軍隊に付いてくる売春婦と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだが、ナポレオン軍は性病を欧州中に広めたとした[16]

1901年に軍医の菊池蘇太郎も「軍隊ニオケル花柳病予防法」で、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたとしている[17]

公娼制度

国家による管理売春公娼制度という[16][18]。公娼制は古代ギリシアローマ帝国にもすでに存在した[11]

江戸時代にも公娼制度は存在したが(例えば、吉原遊郭)、明治以降の近代型公娼制度はヨーロッパから輸入されたもの[19]

日本軍の慰安所

慰安所の入口。「聖戦大勝の勇士大歓迎」「身も心も捧ぐ大和撫子のサーヴイス」と書かれている。
上海の日本軍慰安所であった建物

日本政府によれば、慰安所の開設は軍の要請により、軍人の住民に対する不法行為、性病の防止、防諜の必要性などから設置された[20]クマラスワミ報告によれば、日本陸軍上海派遣軍参謀副長の岡村寧次[21]によって創設された[22][要検証] 設置地域は沖縄[23]・中国・フィリピン・インドネシヤ・マラヤ(現在のマレーシア)・タイ・ビルマ(現在のミャンマー)・ニューギニア香港マカオ仏領インドシナ[24]

上海師範大学中国慰安婦問題研究中心」所長の蘇智良2005年6月に『上海日軍慰安所実録』を刊行し、上海市内には慰安所が149ヵ所あり、最初に「大一沙龍(サロン)」が設置されたとしている[25]

慰安婦の募集は、多くが民間業者によって行われ、軍はそれらの取り締まりや衛生等の管理に直接・間接的に関与したと考えられている[26][27]

90年代に入り、韓国挺身隊問題対策協議会日本弁護士連合会戸塚悦朗国連に日本軍性奴隷問題として問題提起してから国際的に注目され[28]:30,34[29]国連人権委員会に「強姦所」として報告されていた時期もある。1998年国連人権委員会に取り上げられた「マクドゥーガル報告書」では日本軍の慰安所を「rape center(強姦所)」としているが、この報告書の事実認識を含め「アジア女性基金[30]ではこれを批判している。

2009年になると、欧米の研究者の間からも、慰安婦は当時の公娼と変わらず、慰安所を強姦所などと呼ぶ事に反対する意見が出てきた[31]

研究者の間では、日本軍の慰安所を、当時の遊里(遊廓)と変わらないという見解(秦郁彦ら)[32]と、奴隷状態に置かれた慰安婦が強制的に売春させられていたという見解(吉見義明ら)[33]がある。韓国政府は、ウェブサイト上で、日本軍の慰安所を、女性が強引に閉じ込められ性的に搾取された場所と解説し、ここで慰安婦は日本の軍人たちに強制的に性的暴行を受けたとしている[34]

名称

1932年に初めて作られた陸軍公認の売春施設の名称は、「軍娯楽所」だった[35]

慰安所の他に「軍人倶楽部」という呼び方もあった[注釈 1]

外務省の公電などには「軍慰安所」と書かれているものもある[38]。「特殊慰安所」[注釈 2]や「特殊慰安施設(慰安所)」[39]:22と記載されている資料もある。

軍人には「ピー屋」とも呼ばれた。ピーとは、英語のprostitute(売春婦)の略、あるいは中国語で女陰を表す言葉などと言われている[37]:68[40]:178

当時の慰安所の管理人の日記英語版を分析した崔吉城によれば、関係者の間の会話では、〇〇楼や〇〇倶楽部などという固有名が主に使われていたという[41]:162

商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた小野田寛郎の記憶では、1939年、「漢口特殊慰安所」という看板が掲げられていたという[42]

「慰安所」や「慰安」という用語の日本軍以外の使用例は、太平洋戦争後の米占領軍相手に強姦事件を防ぐ目的で設立された公的な売春施設である「特殊慰安施設協会」、朝鮮戦争における韓国の「慰安所」[43]、戦時中に朝鮮労働者向けに企業が設置した「産業慰安所」[44]などがある。


慰安所開設時の娼婦の状況

中国でイギリスフランスが公娼制を行っていたので娼婦が集まったが、1929年に中国の国民政府国家主席である蔣介石が上海の公娼廃止を行ったため、1930年の統計では上海で私娼が圧倒的多数となっている。[要出典]上海租界では、1930年統計で、中国人2万人余り、朝鮮人千人余り、日本人7百人余りで、そのほとんどが私娼である。

日本では、1920年に海外への日本人娼婦である「からゆきさん」を廃止。朝鮮では、1920年代に年間3万人の私娼が朝鮮で売り買いされ、1920年代半ばには外国に売られたの人が年間5000人、8割が騙されてだという。1930年頃の朝鮮内の公娼は、日本人と朝鮮人それぞれ4、5千人程度とされる。1937年、日本内地では、芸妓を含めて21万人とされる[45]

慰安所の設置理由

当時の公文書から以下の設置理由が考えられている。[46]

  1. 強姦などの抑止:占領地で日本軍人による強姦や性的虐待、男女関係が多発したため。[47][要出典]
  2. 将兵への「慰安」の提供:将兵の生理的欲求の処理が根本にある。日本軍には休暇制度がなく、また長期間戦地での自由の制限により不平が溜まりやすかったため。
  3. 克己的性病の防止:将兵の公衆衛生上の安全確保。民間の売春宿を利用して性病が蔓延する事を恐れたため。

設置経緯

1932年、第一次上海事変が起きる。上海事変から南京攻略を終えた1937年末までに、日本兵による強姦が頻発したため、その防止に向け慰安所が設置されたといわれる[48]。この時期は民間の経営による民間客と兼用の慰安所・風俗売春店が多く[49]、長崎の女性達がだまされ帰りの旅費がないためにそのまま就業したという事件も起きている[50]

1937年7月29日に発生した通州事件では冀東防共自治政府保安隊によって日本人約260名が虐殺された際、多数の女性が強姦殺害され、陰部にほうきを刺された女性の遺体もあった[51]

1937年10月6日、当時の中国には紅槍会という地方農民の自衛団があり「特に強姦に対しては各地の住民一斉に立ち死を持って報復せるを常しあり」と、各方面軍から通達が回っている[27]

本格的設置の始まり

1938年、慰安所の数が増え、管理体制が決められ、それまで個々の軍がやっていたことを兵站の一部として設定される。

このときの慰安婦の募集では、地方警察に無連絡であり、日本国内法の常識から大きくはずれる点が多く、誘拐と疑わしいトラブルが、警察との間に生じた[52]。日本では公娼が廃止の方向に向かっていたこと、「からゆき」といわれる主に南方の海外娼婦を廃止させた(1920年)政策も背景と見られている。

1938年2月に内務省警保局から地方にあてた「支那渡航婦女の取扱に関する件」と題する通達[53]では、海外渡航の売春関係の女性が増えていること、その中には、軍が了解していると言って回る者が頻発しつつあるとし、取り締まりの基準として、成人以上で親族・本人の同意を直接確認するなどし、社会問題が起きないよう広告を禁じている。これを受けた3月には、陸軍省から華中派遣軍に対して、業者による募集が誘拐に類するものなどが少なくないなどの懸念を通知し、軍の威信保持、ならびに社会問題上遺漏なきようにとの指示が出されている。[54]

1937年までは、風俗関係の取り締まりが地方領事館によって一定でなかった[55]。当時の上海などでは取り締まりの厳格さのために新規営業を認めない方針であったが、1938年以降、日本軍占領地域での犯罪の防止と治安維持のために、民間業者による軍人専用の「特殊慰安所」の設置が始まり、多くの施設が作られた[27][56]

兵団とともに移動することも多く、辺境での末端部隊では、独自に慰安所を設置したり、巡回慰安婦という形も生じた[57]

1941年太平洋戦争開始に伴い慰安所は太平洋地域へも拡大したと考えられている[58]。太平洋戦争期の全ての戦地(満州を除く)での性病の罹患率は、100万以上の[59]陸軍兵士・軍属に対し年間約1.2万人で[49]、終戦時の連合軍の調査では南西太平洋地域では日本軍の罹患率はきわめて低いとしている。[49]

慰安所は1942年9月3日の陸軍省人事局恩賞課長の報告「金原日誌」によれば400箇所が設営された[60](地域別の内訳は北支100、中支140、南支40、南方100、南海(南西太平洋)10、樺太10)。しかしこの報告書で言及された施設のすべてが慰安所であったかどうかは不明であり、新設計画を含めたものかどうかも不明である。秦郁彦は、陸軍の慰安婦関係は1942年の4月から人事局恩賞課が担当したが、1942年夏に要望があったがうまく派遣を実行できず、業者が部隊と連絡して行なったという。資料の「金原日誌」9月3日には将校以下の慰安施設として数字があるだけであると指摘している[61]

将兵は軍政に部隊責任者が届け出た日に時間を割り当てられ、軍兵站部を通じて軍政から支給された花券で利用した[62]

慰安婦の募集方法

軍慰安所従業婦等募集に関する件によれば、民間業者による甘言、就業詐欺も少なくなかったと考えられている。また中国やフィリピン、インドネシアなど占領地域では暴力的な方法による強制連行との証言が多い[63]。朝鮮人元慰安婦の証言では、民間業者による騙し・甘言による誘拐が多く見られるが暴力的な強制連行との証言も報告されている。十分な情報の得られる証言者43人中、大多数は就業詐欺だが、強制連行も数件存在する[64]

経営・管理

日本軍の慰安所は、軍隊や政府組織が軍人や軍属のために民間業者に設立させ、軍政が経営を監督及び監査した。慰安所は、民間業者が慰安婦を募集し経営も行っていたが、開設には旧日本軍の許可が必要で、施設の整備・慰安所規定の作成、悪質業者の取り締まりや衛生管理も旧日本軍が行っていた[65]

女性の世話は民間の日本人や朝鮮人女性が行った[66]。 軍が直接経営すると、軍律違反で慰安所は閉鎖、関与した将兵や責任者は軍法会議行きだった。一方で、軍は駐屯もしくは駐留地周辺市街地の戦況と次第により、慰安業者による安全な施設確保が困難と判断される際には、基地の敷地内に施設開設に必要な筐体を用意して業者にテナント提供することはあった[67]

戦地では、将兵の軍用もしくは軍専用以外の慰安所の利用は認められていなかった[68]

1943年のマンダレー(中部ビルマ)の慰安所規定では、違反者は慰安所の使用停止のみならず、会報に載せられ、その部隊の使用停止につながると警告されている[69]

  • 太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎1940年前後に、商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという。中国江西省南昌の「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、鉄帽を被り、銃と剣を携えた歩哨らが、慰安所の内部まで巡察し、利用者数の記録を確認したという[70][71]
  • 安秉直ソウル大学教授によると営業者の半数が朝鮮人であるとしている[72]
  • 陸軍経理学校では慰安所の経営についても講義があったといわれ、陸軍経理学校を卒業した鹿内信隆は「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。」[73][74]と述べている。
  • 産経新聞』紙上の証言として「軍の経理を担当した当時、日本人や中国・朝鮮人の売春業者から兵隊相手の売春宿をやりたいと申し入れが相次ぎ許可した。これが慰安所の始まり。それまで上層部から設置を指示されたことはなかった」(八王子市の94歳男性)、というものがある[75][76]

利用料金

  • 1939年頃、陸軍主計将校として陸軍経理学校で慰安所開設のマニュアル作成に関わっていた鹿内信隆によると、階級ごとに使用時間と料金が決められていた[77]金子安次によると慰安料金は1円50銭くらい(当時の一等兵の月給は8円80銭くらい)だったとしている[78]
  • 李榮薫によれば、日本軍相手の慰安婦の利用料金は兵士と将校には区別があったが、兵士はおおむね1円から2円であった[79]。当時の兵士の月給は7円から10円であった[80]。売上金はおおむね慰安婦と業者間で折半されたが、業者に負った前借金が多すぎたり、悪徳業者に出会った場合は、首尾よく金を稼ぐことができない場合もあったとしている[81]
  • 日本人戦争捕虜尋問レポート No.49によれば中部ビルマにおける朝鮮人慰安婦のケースで平均的な料金体系は、兵士が1円50銭、下士官は3円、将校は5円、将校は20円で宿泊も可能だった。当レポートによれば、慰安婦の月給は平均で1500円であったという[82]。が後に1500円〜300円と慰安所の楼主は証言しているのでATISの調査報告書No.120 (1945-11-15)、平均とするのは誤りであろう。また売り上げであって月給ではない。仮に月給が1500円とするならば利用料金から逆算して毎日60人前後の兵を相手にした事になる。
  • フィリピンのマニラの慰安所を利用した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、慰安婦は通常、スペイン人とフィリピン人の混血であり、利用料金は10円ないし20円……日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」という[83][84]
  • 近年、日本軍兵士の月給が24円程度だった中、慰安所(amenities)における慰安婦(comfort girls)の料金相場が3.5〜5円だったとする、米軍による日本軍捕虜に対する審問記録が、聯合ニュースの申請により開示されている[85][86]
  • 料金は泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと考えられる)。
  • 古山高麗雄は、利用料金は、兵2円、下士官3円、将校は5円ではなかったかと回想している。慰安婦に気に入られようと、決められた料金以上に払う者が多かったとも[87]

慰安婦の収入・生活状況

第三者による目撃証言

シンガポールの初代首相となったリー・クアンユーは、シンガポールを占領した日本軍が、西洋人の邸宅の空き家を利用して慰安所を開設したのを目撃している。塀の外には100人から200人の兵隊が列を作って順番を待っており、日本人と朝鮮人の女性が兵士にサービスするために従軍して来たと聞いたという。

リーは、この結果、日本軍のシンガポール占領時にはレイプは殆ど発生せず、起きたレイプ事件の大半は郊外での出来事で、これは「慰安所の存在でその説明がつくと思う」と回顧録に書いている。リーは、日本軍がこのような問題に対して実用的かつ現実的な処理の仕方をすると思ったという[88]:40

軍の関与

慰安所の設置は軍の指示のもとに行われ、性病を防ぐため将兵にコンドームを着用させるなど慰安婦と将兵の公衆衛生面の管理も軍医がこれにあたった。営業は民間人が行ったが、慰安所の監督は軍が行い主計局が兵站部を通して監査した[89]。慰安婦の募集は民間人が行い、いわゆる河野談話でいうところの「募集に官憲が加担した」とする例はオランダ人女性を強制連行したとされるスマラン慰安所事件以外見つかっていない。

中央大学教授吉見義明は、警察資料、拓務省・内務省の資料の一部、従軍日誌や軍の業務日誌類、法務省・外務省の戦犯裁判資料、厚生省の復員・援護関係資料などが非公開なので事実究明には制約があると主張している[90]

吉見義明は軍の関与について以下の例を挙げている。

  • 1932年3月:上海派遣軍は上海で慰安所を作った、岡村寧次上海派遣軍参謀副長や岡部直三郎高級参謀が慰安所を作る指示を出し、永見俊徳参謀が設置を行った。[91][92]
  • 1937年12月:中支那方面軍は慰安所設置の指示を出した。これを受けた上海派遣軍では参謀第二課が案を作成、長勇参謀が設置を担当した。[93]
  • 1937年12月:第十軍参謀寺田雅雄中佐は憲兵を指揮して湖州に慰安所を設置した[93]
  • 1938年6月:北支那方面軍の参謀岡部直三郎中将は、指揮下の区部隊に慰安所の設置を指示を出している[49]
  • 千田夏光が自著『従軍慰安婦』(1978年)において、1941年7月:関東軍は2万人の朝鮮人「慰安婦」を徴募しようと計画、原善四郎参謀は朝鮮総督府に依頼して八千人の朝鮮人慰安婦を集め満州に送った(P102-105)と書いており、最初は原から直接聞いたとしていたが、後に、『関東軍』(中公新書、1965年)(島田俊彦 『関東軍―在満陸軍の独走』 講談社学術文庫, 2005/06 ISBN ISBN 978-4061597143)が出処原典とした。しかし、その書には人物や数字は存在しないという[要ページ番号]。しかし、千田夏光の著作には数々の問題点が指摘されている。
  • 1939年:海南島の海軍部隊のため慰安所設置を計画、海軍第4根拠地隊司令部が台湾総督府海軍武官に特要員(慰安婦のこと)[要検証]50名の徴募を要請。台湾総督府の武官からは特要員50人を送るという電報がきた[94]

ただし、歴史学者の秦郁彦は、軍の関与については当初から研究者の間でも異論はなく、映画などのたぐいも多く軍が関与していないと思う人の方が珍しかったろうとし、政府が「国としての関与を認めてこなかった」と報じた1992年1月11日の朝日新聞の報道を批判している[95]

アメリカ軍の慰安所

アメリカ合衆国では南北戦争時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後の1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制が導入された[96]。ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられたが[97]、同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこった。

19世紀

幕末の日本

タウンゼント・ハリス駐日領事が江戸幕府に要請した結果、横浜沖に停泊する軍艦(黒船)の水兵たちの為に女性が集められ、現在の横浜スタジアムの地に港崎遊郭が作られた[98]:81-85。港崎遊郭は、8軒、331人の遊女でスタートした[98]:96[注釈 3]

港崎遊郭が造られるまで、日本に駐留する欧米各国の兵士は、神奈川宿周辺の遊郭を利用していた[98]:73

米西戦争・米比戦争

フィリピン

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、イギリスと同様、植民地で公娼制度を導入した[97]米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた[99]。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした[99]。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった[97]。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した[100]。当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持しており、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていたため、植民地での売春宿・慰安所についての反対運動は後退した[101]

米軍目当てのフィリピンの売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった[102][97]。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した[103]

第一次世界大戦

こうした出来事を背景に、第一次世界大戦のアメリカン・プランが推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった[104][105]。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制的に収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された[105]。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない[105]

第二次世界大戦

第一次世界大戦で性病に悩まされた経験から、兵力保持の観点から売春宿や娼婦の規制を求める動きが現われ、1941年7月、基地周辺での売春を禁止するメイ法(連邦法)が制定された。しかし、ハワイや海外では必ずしもこの原則は守られていなかった[106]。ハワイ準州(当時)に存在した「慰安所」については、実際に米兵を相手に売春したジーン・オハラ英語版の体験談が知られている。

ハワイ

軍事基地が多かったハワイでは、第一次世界大戦後から軍の主導下で警察による管理売春が行われていた。カリフォルニアから出稼ぎに来た白人の売春婦が多く、ホノルルの赤線地帯では、兵士専用の売春宿が20軒ほどあった。警察に登録された売春婦は250人で、売春宿(民間経営)の前では、毎日兵士が2時間待ちの行列をつくり、月25万人近い軍関係者が利用した。殆どの所では、月20日以上の労働と1日100人以上を相手にするノルマが課せられていた[106]

リビア

現地の米軍の要請により、リビア政府によって二か所の”セックス・キャンプ”がモンロビアに設置された。女性たちは、米軍の軍医の検査を受け、リビア政府から購入したコテジで商売をした。病気になると標識票を取り上げられ、追放された。この施設は、1942年から1945年まで存在した[107]

日本

戦勝国として日本を占領した米軍は、日本の各地で慰安所を利用した。日本政府からの設置の申し入れを受け入れたケースもあれば、米軍が日本側に要請して設置させたケースもある[108]:39

朝鮮戦争

韓国軍も日本軍同様慰安所を設置したが、この中には米軍用の慰安所も存在した[109]:288

この他にも、韓国政府は米軍基地の周りに「基地村」を造り、女性を送り込み米軍と共同でこれを管理した。1977年の韓国政府の資料では、9935人の女性が基地村で米兵を相手に売春していた[110]。2000年代に入り、1980年代まで続いた基地村での売春について韓国政府と米軍を告発する慰安婦も現われた。この告発について、在韓米軍も韓国政府もニューヨーク・タイムズ紙に対し明確なコメントを拒否した[111][112]

近年でも、米軍基地周辺でフィリピン人などの外国人娼婦がジューシーバーなどで売春をおこなっており、現在進行中の人身売買であると米軍も注意勧告を行っているが[113]、問題解決にはいたっていない(在韓米軍慰安婦問題)。

ベトナム戦争

ベトナム戦争においても、米軍の周りには黙認という形で「慰安所」が存在した。旅団長がこうした売春宿を監督し、ウィリアム・ウェストモーランド司令官や国防省はこれを黙認していた。第一師団第三旅団の例では、「慰安所」の周りには兵士が歩哨に立ち、地元民が女性を集めてくるという形式をとっていた。値段が安い点を除けば、日本軍のシステムに酷似していると秦郁彦は述べている[114]

アメリカの公娼制度

アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、イギリスと同様、植民地で公娼制度を導入した[97]。フィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった[115]

イギリス軍の慰安所

将兵の買春や売春宿の利用はイギリスにおいてはタブーであり、あまり語られないが、一部の兵士の残した記録から、少なくとも第一次大戦中の西部戦線などでは、イギリス軍が公式に「慰安所」の利用を認めていたことが分かっている[116]

19世紀

19世紀のイギリス海軍では、船が入港すると、売春婦を船内に呼び入れるのが一般的な慣習だった。イギリスの港町では、ランチが女性を軍艦に運び、ランチの船長が代金を受け取る光景が見られた。そんな中で性病に対する懸念が高まり、1864年制定の法律により、指定された11の港町の売春婦が陸軍省と海軍省の管理下に置かれた。やがて医師による定期的な検診が義務付けられるようになり、売春婦は登録制となる。その後、陸海軍が常駐する町以外にも法律を適用させようという動きもあったが、実現しなかった[117]:307

インドにおけるイギリス軍

1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった[118]。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した[118]。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた[118]。売春婦登録簿は1888年まで記録されている[118]

藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している[119]

イギリスは1921年の婦人及児童ノ売春禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された[115]

第一次世界大戦

フランスに出征中のイギリス軍将兵は、売春宿の利用を軍に公認されていた。将校用の売春宿(慰安所)は「ブルー・ランプ」、一般兵士用は「レッド・ランプ」と呼ばれていた[116]

開戦当初のイギリス政府の方針は、医学的管理下にある売春宿での買春の容認であった。終戦近くになると、兵士に対する性教育と同時に、兵士たちが匿名で治療薬(消毒剤)を使用出来るようにした。当局によって調査済み売春宿は特例とされた[120]

イギリスの詩人ロバート・グレーヴズは、第一次大戦に従軍した際、フランスのベテューヌでイギリス軍の慰安所を目撃している。グレーヴズによれば、「レッド・ランプ」と呼ばれた慰安所には、3人の慰安婦の順番を待つ為に150名からの兵士が列を作っていた。料金は10フラン(当時の8シリング)だったと言う[121]:213

第二次世界大戦

第二次世界大戦中は軍公認の慰安所は置かず、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した[122]

シンガポールの政治家リー・クアンユーは、シンガポールに駐留していたイギリス軍の周りに売春婦が集まっていた様子や、イギリスへの帰還兵が船の上で同僚の女性兵士たちと人目もはばからずセックスしている様子を見て、「慰安所に整列して順番を待つ日本兵の記憶と対照的な光景だと思った」と振り返っている[88][123]

秦郁彦は、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している[124]

イギリスの公娼制度

イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案[125]で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され[126]、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された[125]。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された[126]

1870年代になってジョセフィン・バトラー[127]らの売春婦救済運動(廃娼運動[11])が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される[11]。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦[124]、ヒックス[118]、藤目ゆき[115])。

オーストラリア軍の慰安所

第二次大戦中、オーストラリア軍は、南方戦線で占領した日本軍の慰安所を自分たちが利用する為に転用した[注釈 4]

韓国軍の慰安所

朝鮮戦争時の韓国軍[129][130]アメリカ軍[131][132]などが戦地・占領地・訓練地で軍隊慰安所を設置・利用したという研究がなされている。

韓国・慶南大学校客員教授の金貴玉によると、韓国の公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」との記述があり、旧日本軍に関係した韓国軍の幹部によって設置されていたと考えられると言う[133][134]

1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される[135][136]

ソウル特別市地区には以下の3ヶ所が設置された[137]

  • 第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
  • 第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
  • 第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)

江陵市には、第一小隊用慰安所(江寮郡成徳面老巌里)が、他に春川市原州市束草市などに慰安所が設置された[137]

慰安婦をドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで前線まで移送したという証言もある[注釈 5]。こうした慰安婦を米兵も大いに利用したという[138]

1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された[137]。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている[137]

ベトナム戦争においても「トルコ風呂(The Turkish Bath)」と称する、韓国軍による韓国兵専用の慰安所がサイゴンに存在していた[6]

台湾(中華民国国軍)の慰安所

正式名は「軍中特約茶店」。「軍中楽園」「831」とも呼ばれる。1950年代より営業を開始。台湾本島では1974年に廃止されたが、金門島では1990年代の初めまで存在した。軍妓(慰安婦)の中には、意に反して働いていた女性や、未成年者も含まれていたと言われる。

利用料金は、1951年では、軍人〔ママ〕が15元、兵士が10元。1989年では、それぞれ250元と150元だった(当時の一般兵士の給料は、3100元)[139]

台湾の金門県には、軍中楽園を復元した特約茶室展示館が一般公開されている[139]

2014年にニウ・チェンザー監督による映画、「軍中楽園」が公開されている。

ドイツ軍の慰安所

第一次世界大戦

第一次大戦中のドイツ軍には、軍が管理、あるいは直接運営する売春宿が存在した[140]

1917年に、フランスのヴァランシエンヌで「慰安所」の帳簿係を命じられた兵士によれば、慰安所には18人の慰安婦がおり、6人が将校担当だったという。兵士相手の慰安婦は一日30人を相手にし、将校担当は25人を相手にした。業務日誌には、慰安婦の名前と番号、部屋の番号、開始時間と終了時間を記入した。料金は4マルクで、取り分は、女性1、管理人1、慰安所業務の責任を負う赤十字社が2だったという[140]

第二次世界大戦

フランスのブレストで慰安所に入るドイツ軍兵士(1940年)。建物は以前のユダヤ教施設(シナゴーグ)。

ドイツ軍には日本軍と似た形の「慰安所」が500箇所存在した。ただし、日本軍の場合と異なり、ドイツ軍は、軍の最高レベルで慰安所を律していた[注釈 6][141]

フランツ・ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿 (Bordell) は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した[142]。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった[142]。ヒトラーは「性病の蔓延は民族の没落の現れ」とみなしたため、ナチスドイツはドイツ国内および占領地でも売春を徹底的に管理し、路上客引きを禁止し、民間の売春宿は警察と保健所の監督下に置いた[143]

ソ連スターリンが売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる[144]

強制収容所の中の慰安所

強制収容所での囚人用売春施設についてはオイゲン・コゴンの『親衛隊国家』、ヘルマン・ラングバインの『アウシュヴィッツの人間』でも知られていたが、戦後英雄視された政治犯も当時囚人であったためタブー視され研究されることがなかったが、2009年にロベルト・ゾンマー(Robert Sommer)が『Das KZ-Bordell:Sexuelle Zwangsarbeit in nationalsozialistischen. (強制収容所の売春施設:ナチス強制収容所での性的強制労働』(Paderborn)を発表した[143]

ゾンマーによれば、この強制売春施設はハインリヒ・ヒムラーがソ連のラーゲリ強制労働所における報奨制度にならって強制労働の生産性を向上させるために構想された[143]ゲシュタポは1942年6月にオーストリア、ドイツ、ポーランドの強制収容所などに13の強制売春施設を建設した[143]。そのうち9カ所が囚人専用、4カ所は収容所警備のウクライナ人親衛隊員専用であった[143]。被害女性の数は210人と推計され、114人がドイツ人、46人がポーランド人であった[143]。この実証研究によって、これまで流布した「ナチスがユダヤ人女性を強制売春させた」ということには根拠がなくなった[143]。女性たちの平均滞在期間は10ヶ月で、最長34ヶ月であった[143]。食料は親衛隊員待遇で豊富であった[143]。毎晩2時間、6人〜8人の男性囚人を規則に従って受け入れた[143]

フランス軍の慰安所

フランスには、1800年代から海外の植民地に展開した軍隊の為の軍用売春宿が存在した。こうした「慰安所」は、21世紀直前まで存在した[145]

第一次大戦

第一次世界大戦が始まり、軍人・民間人を問わず20~30パーセントのフランス人男性が梅毒に感染する状況に陥ると、フランス政府は国内に「慰安所」を開設した(1915年)。フランス軍は、既に外地におい軍用売春宿(BMC)を運用していたが、フランス本土に設置されたのは、この時が初めてだった。アメリカ軍は、こうした方式を取らなかった為に、フランスのサン=ナゼールにアメリカ軍が上陸すると、町中に梅毒を広めてしまった[145]

移動慰安所(BMC)

モロッコでのフランス軍の移動慰安所(1920年代)

フランス軍、特にフランス植民地軍には「移動慰安所」というシステム(慣習)があった[146][147]。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦第二次世界大戦インドシナ戦争アルジェリア戦争の際に存在した[148]

移動慰安所は1830年にアルジェリア、あるいはモロッコで成立したといわれ[149][150]チュニジアにも存在した[151]慰安婦には北アフリカ出身者が多かったが[146]、現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた[152]

BMCは、第二次大戦中、ドイツにも設置された。大戦後も、1950年代まで戦われたインドシナ戦争で運用された[145]

その後も、1978年までヨーロッパにおけるフランス領土、いわゆるフランス・メトロポリテーヌ内に4つのBMCが存在し、ギアナのフランス領クールーでは、1995年までBMCが稼働していた[145]

秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している[146]

フランスの公娼制度

19世紀初頭の1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された[126]。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった[153]。16世紀に梅毒が流行したが18世紀末にも梅毒流行が再燃し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがった[154]。藤目ゆきはフランスを「公娼制度の祖国」と評している[155]

ロシア(軍)の慰安所導入計画

第一次世界大戦

ロシアでは、第一次世界大戦の頃から、軍用売春宿(慰安所)の導入が検討されていた。ロシア帝国ロシア臨時政府がそれぞれ別個に各々の陸軍の為に検討していた。モデルとなったのは、当時のドイツ軍の軍用売春宿(慰安所)であった。ボリシェビキも同様の検討を行っていた。ロシア軍はブルシーロフ攻勢後ドイツ軍の慰安所を複数個所手に入れ、コサック兵たちの利用が黙認されていた。戦争が塹壕戦に入ると、前線のあちこちに売春宿が乱立するようになり、ロシア臨時政府はこれらの合法化を考えた。臨時政府の外務大臣であったパーヴェル・ミリュコーフによれば、目的は兵士のモラルの向上と、臨時政府に対する不満の捌け口となるはずだった。彼の提案は陽の目を見なかったが、ペトログラード・ソビエト英語版に引き継がれ、1917年、ペトログラード・ソビエトは、兵士達の住民に対する暴力の抑止になると期待して再検討に着手した。しかし、この計画も内戦の勃発により実現しなかった[156]

第二次世界大戦

ソ連軍は慰安所を持たず、ベルリン満州で大規模な強姦事件を起した[157][158]

秦郁彦は、伝聞と断った上で、日本の慰安婦問題についてソ連軍の元将軍が地元のテレビで「日本軍のように兵士の面倒見をよくしていたら、対独戦は一年早く終わっていたろう」とコメントした話を伝えている[159]

国連軍・連合国軍の慰安所

安浦ハウスに集まる米国将兵たち

国連軍とその前身である連合国の軍隊は、過去に韓国や日本において慰安所を利用した。

第二次世界大戦

終戦後、連合国軍占領下の日本において内務省により占領軍のために特殊慰安施設協会(RAA)が東京都京橋区銀座七の一(現在の中央区銀座南部)に設立された。地方にも同様の「特殊慰安施設」が設立されたが、地方自治体が主導したもの、警察が主導したもの、米軍が要求して設置させたものなど様々な形態がある[108]:39

朝鮮戦争

韓国軍は、米軍を主体とした国連軍に慰安所を提供した。韓国の研究者は、設置にあたり米軍が最終的な承認を与えたと推測している。ただし、それを裏づける決定的な文書資料は見つかっていない[137]:296[注釈 7]

1951年に現地調査を行った国際NGO団体が、黄海道に住む女性から、米軍が娼家をこしらえ、若い女性を無理矢理連れて行き、米軍と英国軍の将兵にあてがったという証言を得た[160]:230平壌でも、米軍がオペラハウスや近所の住宅を軍用娼家にし、町で捕まえた女性を強制的に連れて来たといった証言が採取されている[160]:214

脚註

注釈

  1. ^ 「マスバテ島警備隊 軍人倶楽部規定」[36]:321など。ただし、独立歩兵第一三旅団中山警備隊の規定では、第一軍人倶楽部を食堂、「第二軍人倶楽部ト称スルハ慰安所トス」となっており、軍人倶楽部=慰安所と言えるかは分からない[36]:285。沖縄に派遣された第24師団歩兵第三十二連隊(沖縄在住の元慰安婦、裵奉奇<故人>の証言で知られる)でも軍人倶楽部と呼称していた[37]:75
  2. ^ 「在留邦人の各種営業許可及取締に関する陸海外三省関係者会同決定事項」「独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌」など[36]:180,267,270,354
  3. ^ 川元祥一は、これを「開港慰安所」と呼んでいる。
  4. ^ これを指摘した田中利幸はオーストラリアの退役軍人会から非難された[128]
  5. ^ 証言者は、慰安婦を前線まで連れて行くことは許可されていなかったとも言っている。
  6. ^ 秦によれば、日本軍の場合、輸送関係を除くと出先部隊の低いレベルで業者と取り決めしていた。
  7. ^ 金貴玉は、米軍用の慰安婦として論評しており、明確に国連軍用という言い方はしていないが、国連軍も責任は免れないと言っている。

出典

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    「著者は、1992年2月17日国連人権委員会に対して、日本軍性奴隷を"sex slaves"として報告し、国連への問題提起を始めたが、これは、のちにILO専門家委員会報告書による対日勧告の基礎となった」P.34
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参考文献

関連項目

外部リンク