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[[青海省|青海]]軍事学校に入学する。[[1925年]]([[民国紀元|民国]]14年)、寧海軍騎兵第11営の幇帯となった。[[1928年]](民国17年)、[[馮玉祥]]に反旗を翻した。しかし[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]の[[劉郁芬]]に敗北して、[[河西回廊|河西]]に逃れた。
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[[1929年]](民国18年)、[[介石]]から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令に任命され、反軍と戦う。[[1930年]](民国19年)、[[山東省 (中華民国)|山東省]]に赴いて[[馬鴻逵]]の参議となった。同年中に[[寧夏省]]に引き返し、引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長をつとめている。
[[1929年]](民国18年)、[[介石]]から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令に任命され、反軍と戦う。[[1930年]](民国19年)、[[山東省 (中華民国)|山東省]]に赴いて[[馬鴻逵]]の参議となった。同年中に[[寧夏省]]に引き返し、引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長をつとめている。


[[1931年]](民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の[[馬歩芳]]の攻撃を受け、[[酒泉市|酒泉]]へ逃れた。同年中に、今度は[[新疆省]]へ軍を率いて進入し、同省政府主席[[金樹仁]]と交戦した。しかし、[[クムル市|クムル]](哈密)を攻略できず、河西へ退却した。
[[1931年]](民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の[[馬歩芳]]の攻撃を受け、[[酒泉市|酒泉]]へ逃れた。同年中に、今度は[[新疆省]]へ軍を率いて進入し、同省政府主席[[金樹仁]]と交戦した。しかし、[[クムル市|クムル]](哈密)を攻略できず、河西へ退却した。


[[1932年]](民国21年)、馬仲英は、介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌[[1933年]](民国22年)5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席[[盛世才]]と交戦した。馬は、[[トルファン市|トルファン]]など13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、[[1934年]](民国23年)、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、[[東トルキスタン共和国]](第1次)と[[ホータン市|ホータン]]のイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、[[ソビエト連邦]]へ向かい、空軍に加入した。
[[1932年]](民国21年)、馬仲英は、介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌[[1933年]](民国22年)5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席[[盛世才]]と交戦した。馬は、[[トルファン市|トルファン]]など13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、[[1934年]](民国23年)、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、[[東トルキスタン共和国]](第1次)と[[ホータン市|ホータン]]のイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、[[ソビエト連邦]]へ向かい、空軍に加入した。


[[1937年]](民国26年)、飛行機事故により死亡。
[[1937年]](民国26年)、飛行機事故により死亡。

2020年9月15日 (火) 14:04時点における版

馬仲英
プロフィール
出生: 1912年(1908年または1910年説有り)
死去: 1937年(1936年または1935年説有り)
ソビエト連邦
出身地: 清の旗 甘粛省蘭州府河州城
職業: 軍人
各種表記
繁体字 馬仲英
簡体字 马仲英
拼音 Mǎ Zhòngyīng
ラテン字 Ma Chung-ying
和名表記: ば ちゅうえい
発音転記: マー ジョンイン
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馬 仲英(ば ちゅうえい、?——1937年[1])は中華民国の軍人。馬麟の甥で、馬家軍の有力頭領である。旧名は歩英子才回族出身。生没年不詳。[2]

事跡

青海軍事学校に入学する。1925年民国14年)、寧海軍騎兵第11営の幇帯となった。1928年(民国17年)、馮玉祥に反旗を翻した。しかし国民軍劉郁芬に敗北して、河西に逃れた。

1929年(民国18年)、蔣介石から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令に任命され、反蔣軍と戦う。1930年(民国19年)、山東省に赴いて馬鴻逵の参議となった。同年中に寧夏省に引き返し、引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長をつとめている。

1931年(民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の馬歩芳の攻撃を受け、酒泉へ逃れた。同年中に、今度は新疆省へ軍を率いて進入し、同省政府主席金樹仁と交戦した。しかし、クムル(哈密)を攻略できず、河西へ退却した。

1932年(民国21年)、馬仲英は、蔣介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌1933年(民国22年)5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席盛世才と交戦した。馬は、トルファンなど13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、1934年(民国23年)、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、東トルキスタン共和国(第1次)とホータンのイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、ソビエト連邦へ向かい、空軍に加入した。

1937年(民国26年)、飛行機事故により死亡。

逸話

新疆での馬仲英の戦いには、スヴェン・ヘディンも巻き込まれ、彼自身は馬に面会したことがないが、この件に関する詳細な記録を残している。この記録の邦訳に、小野忍訳『馬仲英の逃亡』(初版;改造社、1938年。新版:中公文庫、2002年)がある。

脚注

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • スヴェン・ヘディン、小野忍訳『馬仲英の逃亡』中央公論新社中公文庫BIBLIO)、2002年。ISBN 978-4122040151 
  • スヴェン・ヘディン、宮原朗訳『戦乱の西域を行く (スウェン・ヘディン探検記)』白水社、1988年。ISBN 978-4560031315 ほかもある。