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「東則正」の版間の差分

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== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[京都府]][[愛宕郡]][[八瀬村]](現・[[京都市]][[左京区]][[八瀬 (京都市)|八瀬]])に生まれる。代々天皇家に奉仕する[[八瀬童子]]の出身。[[早稲田大学]]卒業後、大東汽船へ入社、[[中国]]に渡る。後に[[時事新報]]特派員となり、[[宋教仁]]、[[孫文]]、[[黄興]]、[[介石]]らと親交を結ぶ。大正5年に[[中野正剛]]らと東方会を設立、雑誌「東方時論」を発行。大正8年に東方会を離脱、以後は実業家として活躍。戦後は八瀬にて余生を送った。
[[京都府]][[愛宕郡]][[八瀬村]](現・[[京都市]][[左京区]][[八瀬 (京都市)|八瀬]])に生まれる。代々天皇家に奉仕する[[八瀬童子]]の出身。[[早稲田大学]]卒業後、大東汽船へ入社、[[中国]]に渡る。後に[[時事新報]]特派員となり、[[宋教仁]]、[[孫文]]、[[黄興]]、[[介石]]らと親交を結ぶ。大正5年に[[中野正剛]]らと東方会を設立、雑誌「東方時論」を発行。大正8年に東方会を離脱、以後は実業家として活躍。戦後は八瀬にて余生を送った。


== 著書 ==
== 著書 ==

2020年9月15日 (火) 14:15時点における版

東 則正(ひがし のりまさ、1886年1月11日 - 1976年4月27日)は、大正から昭和初期にかけてのジャーナリスト実業家。政治団体東方会の設立者のひとり。

経歴

京都府愛宕郡八瀬村(現・京都市左京区八瀬)に生まれる。代々天皇家に奉仕する八瀬童子の出身。早稲田大学卒業後、大東汽船へ入社、中国に渡る。後に時事新報特派員となり、宋教仁孫文黄興蔣介石らと親交を結ぶ。大正5年に中野正剛らと東方会を設立、雑誌「東方時論」を発行。大正8年に東方会を離脱、以後は実業家として活躍。戦後は八瀬にて余生を送った。

著書

  • 『中部支那経済調査』(1915年)
  • 『葦の一穂』(巧美堂、1973年)