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*: 1878年12月24日、浙江省蘭渓市生まれ。[[法政大学]]に留学し、[[法学]]の学士号を取得。その後、[[孫文]]を慕って<ref>[http://big5.chinataiwan.org/wh/dswh/lsyw/200709/t20070910_451645.htm 鄭蘋如父親鄭越原,又名英伯]{{zh icon}}</ref>[[中国同盟会]]に参加。[[復旦大学]]教授を経て、[[南京]]の[[江蘇省]]高等法院第二分院主席検察官([[日本]]の[[検事]]に相当)に着任。しかし、蘋茹と真如(蘋茹の姉)に相次いで先立たれた事により、[[癌]]を発症。1943年4月8日に64歳で死去。 |
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* 母・'''鄭華君'''([[1886年]] - [[1966年]][[1月5日]]) |
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*: [[日本人]]。日本名:'''木村花子(はな)'''。名門[[士族]]の令嬢で、越原の日本留学中に知り合い結婚した。結婚後は中国に移住したが、日中戦争および直後の国共内戦の激化と共に[[中国国民党]]に追従する形で、[[台湾]]へ移住。同地で1966年1月5日に死去した。亡くなった際に、[[ |
*: [[日本人]]。日本名:'''木村花子(はな)'''。名門[[士族]]の令嬢で、越原の日本留学中に知り合い結婚した。結婚後は中国に移住したが、日中戦争および直後の国共内戦の激化と共に[[中国国民党]]に追従する形で、[[台湾]]へ移住。同地で1966年1月5日に死去した。亡くなった際に、[[蔣介石]]より「教忠有方」(教えが忠実で正しい)という書の入った額を贈呈されている。 |
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* 姉・'''鄭真如'''([[1912年]] - [[1934年]]) |
* 姉・'''鄭真如'''([[1912年]] - [[1934年]]) |
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*: 病弱で、結婚して子供を授かるも、1934年に22歳で死去した。 |
*: 病弱で、結婚して子供を授かるも、1934年に22歳で死去した。 |
2020年9月15日 (火) 14:41時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2b/Zheng_Pingru_02.jpg/220px-Zheng_Pingru_02.jpg)
鄭蘋茹 | |
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プロフィール | |
出生: | 1918年(民国7年)[1] |
死去: |
1940年(民国29年)2月(満22歳没)[2]![]() |
出身地: |
![]() |
職業: | 特務・スパイ |
各種表記 | |
繁体字: | 鄭蘋茹 |
簡体字: | 郑苹如 |
ラテン字: | Zheng Pingru |
和名表記: | てい ひんじょ |
発音転記: | テン ピンルー |
鄭 蘋茹(てい ひんじょ、中国語: 鄭蘋如。1918年 - 1940年2月)は中華民国の特務・スパイ。
事跡
1918年(民国7年)、浙江省蘭渓市に生まれた。父・鄭越原は孫文を慕って中国同盟会に参加した事があり、母は日本人だったこともあって、早くから日本に対して、親近感を抱いていた。1932年~1934年にかけて上海の明光中学(民光中学とする説もある)高等部に在籍。後に自身の運命を決定づける丁黙邨は同校の代表理事であった時期があり、このときに二人は出会っていた可能性がある。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b2/Liangyou_130_cover_-_Zheng_Pingru.jpg/220px-Liangyou_130_cover_-_Zheng_Pingru.jpg)
美貌でしなやかな肢体を持っていたと言われ、上海のグラビア雑誌『良友画報』の表紙を飾った事もあった。やがて自身の容貌を活かして、抗日運動に身を投じ、その過程で近衛文隆(近衛文麿元首相の長男)と知り合った。しかし、1939年6月4日に近衛暗殺未遂事件があり、危険を察知した大日本帝国陸軍幹部は近衛を日本に送還(その後、満州へ召集令状が出された)し、二人の関係は終わった。
その後、重慶国民政府の特務機関・中央統計局から重大な命令が下る。それは、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者となっていた丁黙邨を暗殺せよというものであった。鄭は丁に近づき、1939年12月21日、丁の暗殺計画を実行するも失敗に終わった。そして特工総部に出頭し、そこで構成員の林之江らに捕らえられ、監禁された。
1940年2月の春節前、林らによって上海郊外の滬西区中山路に連行され、銃殺された。享年22。
没後、中央統計局の後身である中華民国法務部調査局より殉職烈士に認定され[3]、また彼女の悲劇と数々のロマンスは、多くの小説・映画のモデルとなっている。
家族
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e2/Zheng_Pingru_03.jpg/220px-Zheng_Pingru_03.jpg)
- 父・鄭越原(字・英伯。1878年12月24日 - 1943年4月8日)
- 母・鄭華君(1886年 - 1966年1月5日)
- 姉・鄭真如(1912年 - 1934年)
- 病弱で、結婚して子供を授かるも、1934年に22歳で死去した。
- 兄・鄭海澄(1916年10月28日 - 1944年1月19日)
- 弟・鄭南陽(1919年1月3日 - 2003年)
- 妹・鄭天如(1923年 - )
鄭蘋茹をモデルとした作品
以下に鄭蘋茹をモデルとした作品を挙げる。女スパイとしての描写もあるが、美貌とセクシーを活かしたお色気キャラとして描かれる事も多い。
小説
- 『色・戒』
- 張愛玲(アイリーン・チャン)の短編小説。小説集『惘然記』に収録。鄭蘋茹を取り上げた最初の作品。
- 『夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯』
- 『上海エイレーネー』 ISBN 978-4434187698
映画
テレビドラマ
ゲーム
脚注
- ^ 1914年5月15日説もある。
- ^ 春節前に死去したと伝わる。
- ^ “色,戒真有其事-鄭蘋如刺殺丁默邨”. 自由時報. (2007年9月11日) 2016年11月10日閲覧。
- ^ 鄭蘋如父親鄭越原,又名英伯(中国語)
- ^ “重庆空战中的郑海澄”. 中国論文網. (2012年4月30日) 2016年11月10日閲覧。
- ^ 夢顔さんによろしくAmazon.co.jp
- ^ J-CASTニュース『上海の美人スパイめぐる"新解釈" 日中両国の平和希求する"素顔"描く』
- ^ 史実でも、父(中国人)が江蘇省高等法院第二分院主席検察官を務めており、母は日本人である。
関連項目
- ジェスフィールド76号(特工総部)