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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[湖南省]]{{仮リンク|乾州直隷庁|zh|乾州直隶厅}}湘西乾城県樹耳寨(現:[[湘西トゥチャ族ミャオ族自治州]]・[[吉首市]]{{仮リンク|寨陽郷|zh|寨阳乡}}樹耳村)にて生まれる<ref>{{Cite web |url =http://jdmxxh.jsu.edu.cn/article/show/272.aspx |title = “断臂飞将军”石邦藩 |publisher = 武陵山苗族网 |language = 中国語 |accessdate = 2016-12-24 }}</ref><ref>{{Cite web | format=DOC |url = dsb.xxz.gov.cn/dscg/dssl/201504/P020150507583571304676.doc |title = 中国共产党吉首历史 |publisher =吉首市史志办公室编著 |language = 中国語 |accessdate = 2016-12-30 }}</ref>。乾城県立高等小学堂(現:吉首市第七小学)卒業後、1921年に軍官教導団<ref group="†">[[常徳市|常徳]]の第16混成旅軍官教導団(長:[[鹿鍾麟]])か</ref>を卒業して1924年2月、陸軍歩兵少校に任ぜられる<ref>{{Cite web | format=PDF |url = http://gpost.lib.nccu.edu.tw/GovIMG/3/13image/2850.pdf |title = 政府広報命令No.2850 十三年二月二十六日 |publisher = 中華民国政府官職資料庫 |language = 中国語 |accessdate = 2016-12-30 }}</ref>。同年4月ごろ、[[直隷派]]の支配下にある[[保定航空学校]]に入学。同期には後に[[韓国空軍]]創設者の一人となった[[崔用徳]]や、[[台湾総統府]]侍衛長をつとめた[[劉牧群]]がいる。また在学中に第2次[[奉直戦争]]に参加。教官達の努力により戦争前の1924年10月の時点で半数以上の生徒が単独で飛行できるようになっていた{{Sfn|李|1973|p=67}}。
[[湖南省]]{{仮リンク|乾州直隷庁|zh|乾州直隶厅}}湘西乾城県樹耳寨(現:[[湘西トゥチャ族ミャオ族自治州]]・[[吉首市]]{{仮リンク|寨陽郷|zh|寨阳乡}}樹耳村)にて生まれる<ref>{{Cite web |url =http://jdmxxh.jsu.edu.cn/article/show/272.aspx |title = “断臂飞将军”石邦藩 |publisher = 武陵山苗族网 |language = 中国語 |accessdate = 2016-12-24 }}</ref><ref>{{Cite web | format=DOC |url = dsb.xxz.gov.cn/dscg/dssl/201504/P020150507583571304676.doc |title = 中国共产党吉首历史 |publisher =吉首市史志办公室编著 |language = 中国語 |accessdate = 2016-12-30 }}</ref>。乾城県立高等小学堂(現:吉首市第七小学)卒業後、1921年に軍官教導団<ref group="†">[[常徳市|常徳]]の第16混成旅軍官教導団(長:[[鹿鍾麟]])か</ref>を卒業して1924年2月、陸軍歩兵少校に任ぜられる<ref>{{Cite web | format=PDF |url = http://gpost.lib.nccu.edu.tw/GovIMG/3/13image/2850.pdf |title = 政府広報命令No.2850 十三年二月二十六日 |publisher = 中華民国政府官職資料庫 |language = 中国語 |accessdate = 2016-12-30 }}</ref>。同年4月ごろ、[[直隷派]]の支配下にある[[保定航空学校]]に入学。同期には後に[[韓国空軍]]創設者の一人となった[[崔用徳]]や、[[台湾総統府]]侍衛長をつとめた[[劉牧群]]がいる。また在学中に第2次[[奉直戦争]]に参加。教官達の努力により戦争前の1924年10月の時点で半数以上の生徒が単独で飛行できるようになっていた{{Sfn|李|1973|p=67}}。
11月、保定航空学校は[[国民軍 (中華民国)|国民]]第3軍の[[孫岳]]により接収され、1925年1月、校長の[[沈徳燮]]が司令官を兼任する第3軍航空隊(副司令:[[逵]]、参謀長:陳思濂<ref group="†">南苑航空学校3期、元北京中央航空隊司令部第2隊隊員。国民革命軍帰順後は航空第二隊附。以降の経歴は不明</ref>、学監:王風翔)が成立<ref name="Xi&Woo"/>。3月、航空学校の人員や器材を洛陽に移動することになり、学生は臨時任務に派遣され、秘書室は衷立人と張慕超、軍需室は[[楊鶴霄]]と甄中和が担当し、石は副官長、董世賢は掩護隊長、その他の学生も副官や押運員に任命された{{Sfn|李|1973|p=74}}。
11月、保定航空学校は[[国民軍 (中華民国)|国民]]第3軍の[[孫岳]]により接収され、1925年1月、校長の[[沈徳燮]]が司令官を兼任する第3軍航空隊(副司令:[[逵]]、参謀長:陳思濂<ref group="†">南苑航空学校3期、元北京中央航空隊司令部第2隊隊員。国民革命軍帰順後は航空第二隊附。以降の経歴は不明</ref>、学監:王風翔)が成立<ref name="Xi&Woo"/>。3月、航空学校の人員や器材を洛陽に移動することになり、学生は臨時任務に派遣され、秘書室は衷立人と張慕超、軍需室は[[楊鶴霄]]と甄中和が担当し、石は副官長、董世賢は掩護隊長、その他の学生も副官や押運員に任命された{{Sfn|李|1973|p=74}}。


同年秋に卒業後は国民第3軍航空隊隊附。石は副官長として洛陽に留まり、学校の移動や輸送以外の業務を処理していた{{Sfn|李|1973|p=77}}。
同年秋に卒業後は国民第3軍航空隊隊附。石は副官長として洛陽に留まり、学校の移動や輸送以外の業務を処理していた{{Sfn|李|1973|p=77}}。
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[[1932年]][[1月28日]]、[[第一次上海事変]]が勃発すると、石は{{仮リンク|ユンカース K47|en|Junkers K 47}}で1個小隊を率い南京防衛の任を受ける。残りの6機は部下の邢剷非に率いられ第4隊、第6隊、そして広東空軍とともに筧橋に派遣されていた。
[[1932年]][[1月28日]]、[[第一次上海事変]]が勃発すると、石は{{仮リンク|ユンカース K47|en|Junkers K 47}}で1個小隊を率い南京防衛の任を受ける。残りの6機は部下の邢剷非に率いられ第4隊、第6隊、そして広東空軍とともに筧橋に派遣されていた。


[[2月25日]]、石は銃手の呉華樑とともに雨の中筧橋に到着し、[[黄秉衡]]航空署長に[[介石]]の書簡を届ける。書簡の内容は、公大飛行場から空母へと引き上げた日本軍航空隊による飛行場爆撃を危惧するものであった。石と黄は協議の結果、筧橋の全戦力を20キロ離れた蛙埠の喬司機場へと移動させる事にした{{Sfn|中山|2007|pp=86-88}}。また、整備主任の曾堯には夜明け前に起きてエンジンを始動し温める事、邢剷非には日の出とともに上空警戒の任をそれぞれ命じた{{Sfn|中山|2007|p=90}}。
[[2月25日]]、石は銃手の呉華樑とともに雨の中筧橋に到着し、[[黄秉衡]]航空署長に[[介石]]の書簡を届ける。書簡の内容は、公大飛行場から空母へと引き上げた日本軍航空隊による飛行場爆撃を危惧するものであった。石と黄は協議の結果、筧橋の全戦力を20キロ離れた蛙埠の喬司機場へと移動させる事にした{{Sfn|中山|2007|pp=86-88}}。また、整備主任の曾堯には夜明け前に起きてエンジンを始動し温める事、邢剷非には日の出とともに上空警戒の任をそれぞれ命じた{{Sfn|中山|2007|p=90}}。


翌日[[2月26日]]午前5時、[[加賀 (空母)|加賀]]から[[小田原俊郎]]大尉率いる爆撃隊の[[一三式艦上攻撃機|13艦攻]]9機、援護隊として[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]から[[所茂八郎]]大尉率いる[[三式艦上戦闘機|3式艦戦]]6機が飛び立ち<ref>{{Cite web |url = https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C14120185800?IS_KEY_S1=%E6%94%AF%E9%82%A3%E7%A9%BA%E8%BB%8D&IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD& |title = 公刊昭和6.7年支那事変史下(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿) 第8章 空中戦/7.2月26日杭州飛行場の空襲 |publisher =JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120185800、公刊昭和6.7年支那事変史下(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿)(防衛省防衛研究所) |accessdate = 2017-10-15 }}</ref>、暁闇の空を杭州へと向かった。しかし、邢剷非が上空警戒の任を怠ったため{{Sfn|中山|2007|p=331}}、石の出撃は杭州到達直後の7時の事であった。
翌日[[2月26日]]午前5時、[[加賀 (空母)|加賀]]から[[小田原俊郎]]大尉率いる爆撃隊の[[一三式艦上攻撃機|13艦攻]]9機、援護隊として[[鳳翔 (空母)|鳳翔]]から[[所茂八郎]]大尉率いる[[三式艦上戦闘機|3式艦戦]]6機が飛び立ち<ref>{{Cite web |url = https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C14120185800?IS_KEY_S1=%E6%94%AF%E9%82%A3%E7%A9%BA%E8%BB%8D&IS_KIND=detail&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InD& |title = 公刊昭和6.7年支那事変史下(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿) 第8章 空中戦/7.2月26日杭州飛行場の空襲 |publisher =JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120185800、公刊昭和6.7年支那事変史下(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿)(防衛省防衛研究所) |accessdate = 2017-10-15 }}</ref>、暁闇の空を杭州へと向かった。しかし、邢剷非が上空警戒の任を怠ったため{{Sfn|中山|2007|p=331}}、石の出撃は杭州到達直後の7時の事であった。
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11月、航空委員会は南京から[[漢口]]に撤退し、第一空軍区司令部も[[蘭州市|蘭州]]へ移る。同月に新設された空軍兵監部兵站総監(副監は汪豊、翌年2月改編では金家駟)に就任し、中国空軍の輜重の任を負う。
11月、航空委員会は南京から[[漢口]]に撤退し、第一空軍区司令部も[[蘭州市|蘭州]]へ移る。同月に新設された空軍兵監部兵站総監(副監は汪豊、翌年2月改編では金家駟)に就任し、中国空軍の輜重の任を負う。


1939年5月、航空委員会交通処処長<ref>{{Cite web |url = http://www.hoplite.cn/templates/jqzyhxwx0007.html |title = 宋美龄对我国空军的贡献 |publisher =中国黄埔军校网 |language = 中国語 |accessdate = 2017-06-22 }}</ref>。1943年、空軍第四路司令官。1944年退役<ref>{{Cite web |url = http://mhdb.mh.sinica.edu.tw/mhpeople/bookimage.php?book=11&chapter=%E5%85%AD%E5%8A%83 |title = 近現代人物資訊整合系統 上海時人誌(1947)第31頁 |publisher =中央研究院近代史研究所 |language = 中国語 |accessdate = 2017-06-22 }}</ref>。1945年4月30日、空軍上校<ref>{{Cite web | format=PDF |url = http://twinfo.ncl.edu.tw/tiqry/hypage.cgi?HYPAGE=search/merge_pdf.hpg&dtd_id=12&sysid=E1092019&jid=79001163&type=g&vol=34062300&page=%E9%A0%811-7 |title = 国民政府広報渝字第790号(民国34年6月23日) |publisher = 政府広報資訊網 |language = 中国語 |accessdate = 2017-10-01 }}</ref>。
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=== 戦後 ===
=== 戦後 ===

2020年9月15日 (火) 14:45時点における版

石 邦藩
Shi Bang-fan
渾名 「断臂飛将軍」
生誕 1901年8月12日
清の旗 湖南省、乾城県
死没 1984年
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ボストン
所属組織 中華民国空軍
軍歴 1921? - 1927(北洋軍閥)
1927 - 1944(中華民国空軍)
最終階級 空軍上校
除隊後 上海市参議員
台湾省物資局副局長
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石 邦藩(せき ほうはん / シー・パンファン、1901年(光緒二十七年)8月12日[1] - 1984年)は、中華民国空軍の軍人。ミャオ族。 字は東屏。最終階級は空軍上校(大佐に相当)。第一次上海事変に参加し、初めて日本機を撃墜したパイロットである。

生涯

湖南省乾州直隷庁中国語版湘西乾城県樹耳寨(現:湘西トゥチャ族ミャオ族自治州吉首市寨陽郷中国語版樹耳村)にて生まれる[2][3]。乾城県立高等小学堂(現:吉首市第七小学)卒業後、1921年に軍官教導団[† 1]を卒業して1924年2月、陸軍歩兵少校に任ぜられる[4]。同年4月ごろ、直隷派の支配下にある保定航空学校に入学。同期には後に韓国空軍創設者の一人となった崔用徳や、台湾総統府侍衛長をつとめた劉牧群がいる。また在学中に第2次奉直戦争に参加。教官達の努力により戦争前の1924年10月の時点で半数以上の生徒が単独で飛行できるようになっていた[5]。 11月、保定航空学校は国民第3軍の孫岳により接収され、1925年1月、校長の沈徳燮が司令官を兼任する第3軍航空隊(副司令:蔣逵、参謀長:陳思濂[† 2]、学監:王風翔)が成立[6]。3月、航空学校の人員や器材を洛陽に移動することになり、学生は臨時任務に派遣され、秘書室は衷立人と張慕超、軍需室は楊鶴霄と甄中和が担当し、石は副官長、董世賢は掩護隊長、その他の学生も副官や押運員に任命された[7]

同年秋に卒業後は国民第3軍航空隊隊附。石は副官長として洛陽に留まり、学校の移動や輸送以外の業務を処理していた[8]

1926年3月、馮玉祥が下野し孫岳が病に倒れると再度直隷派が盛り返し、航空隊は呉佩孚に接収される[6]。同年6月頃、保定に討賊聯軍航空司令部(司令:敖景文、参謀長:韋庭錕)が設立されると、航空第1隊(隊長:趙歩墀)の中隊長[9]。北伐で呉佩孚軍の航空隊が壊滅したのちは孫伝芳軍に身を寄せ、5月10日に成立した張宗昌の直魯連軍航空司令部(司令官:趙翔陸、副司令:袁振銘、参謀長:崔鈺)飛豹隊(隊長:盛建謨)飛行員[10]。1927年(民国十六年)3月24日の国民革命軍江右軍(軍長・程潜)の南京掌握時、国民党に帰順、同航空隊の帰順兵力を接収し成立した江右軍航空隊(隊長:張慕超)副隊長となる[6]

1928年2月、軍事委員会航空司令部設立に伴い、航空第二隊附(隊長:欧陽璋、副隊長:李文禄)[6]。翌年11月、第二隊副隊長に就任[11]。1930年10月20日、陸軍中校[12]

1931年5月中旬の早朝、済南の辛壯飛機場からユンカース W33英語版爆撃機にて副機長の陳思濂、爆撃手の孟憲武とともに蘭封爆撃、考城偵察の任にあたった帰路中、第4隊の楊国柱の操縦するV-65Cコルセア英語版に軍閥空軍と誤認され銃撃を受けるというアクシデントに遭う[13]。 また、1932年1月ごろには第4隊飛行員として中央空軍に来たばかりの高志航に飛行服を貸し、彼のテスト飛行に立ち会ったこともある[13]

中原大戦終結後、共匪に備えて航空第2隊の一部を率いて南昌に進出、後にこの任は航空第3隊(隊長:劉芳秀)が引き継いだ[14]

第一次上海事変

1932年1月28日第一次上海事変が勃発すると、石はユンカース K47英語版で1個小隊を率い南京防衛の任を受ける。残りの6機は部下の邢剷非に率いられ第4隊、第6隊、そして広東空軍とともに筧橋に派遣されていた。

2月25日、石は銃手の呉華樑とともに雨の中筧橋に到着し、黄秉衡航空署長に蔣介石の書簡を届ける。書簡の内容は、公大飛行場から空母へと引き上げた日本軍航空隊による飛行場爆撃を危惧するものであった。石と黄は協議の結果、筧橋の全戦力を20キロ離れた蛙埠の喬司機場へと移動させる事にした[15]。また、整備主任の曾堯には夜明け前に起きてエンジンを始動し温める事、邢剷非には日の出とともに上空警戒の任をそれぞれ命じた[16]

翌日2月26日午前5時、加賀から小田原俊郎大尉率いる爆撃隊の13艦攻9機、援護隊として鳳翔から所茂八郎大尉率いる3式艦戦6機が飛び立ち[17]、暁闇の空を杭州へと向かった。しかし、邢剷非が上空警戒の任を怠ったため[18]、石の出撃は杭州到達直後の7時の事であった。

石は第六隊分隊長・趙普明のV-92Cとともに飛び立ち、編隊の爆撃を妨害、続いて13艦攻第3小隊の2番機および第3小隊機それぞれ1機を撃墜[† 3]。しかし弾数の残りが少なくなったうえ銃手・沈延世[† 4]の後部機銃が故障。そこに渥美信一大尉率いる第5小隊3機の銃撃を受け、7.7ミリ機銃が石の左腕を貫通した[20]

石の乗機は次々と被弾し、エンジンから火が噴出した。石は片手で消火装置を作動し鎮火させたのち地上に不時着し、日本軍が飛び去るまで翼下に隠れやりすごした後、田相国より止血処置を受け、趙とともに杭州広済医院(現浙江大学医学院附属第二医院中国語版)に搬送される。しかし3月4日、敗血症で石の容態は悪化、弟の石邦正から輸血され上海から医師を呼ぶなどの措置が取られたが、結局左腕は切断せざるを得なかった。 回復後、傷跡を見た蔣介石はいたく感涙し、教官として空軍に留まるよう述べた[21]。また、民衆の間でも石邦藩は一躍英雄となり、「邦藩牌」というタバコが上海で売られるほどだったという[22]

なお、この戦闘当時第二隊隊長であったという文献が多くみられるが[23]、国民政府令によれば当時副隊長であった。この記録が正しければ、腕を失った後も同職に留まり、同年8月20日、第二隊隊長に就任したことになる[24]

1933年7月、飛行士を引退し筧橋中央航空学校の三期入伍生隊隊長を経て、1934年、南京大校場機場中国語版站長。1935年6月以降は南京総站に指定され、首都防空の補給拠点を担う。 1936年10月30日、明故宮機場にてカーチス・ホークⅢ献納式の整理指揮をとる[25]

日中戦争

日中戦争勃発後の1937年8月、南京第一空軍区(司令官:沈徳燮)参謀長兼任。また、1937年7月~38年2月に設置された空軍前敵総指揮部参謀長にも就任していた[26][27]との記述もみられるが、就任していたのは晏玉琮、もしくは張有谷であるともされる。

9月、捕虜収容所として利用されていた中央体育場中国語版に第5大隊24中隊副隊長の羅英徳とともに赴き、3名の日本海軍捕虜[† 5]の手当てを行う[28]

1937年9月7日、空軍中校[29]

11月、航空委員会は南京から漢口に撤退し、第一空軍区司令部も蘭州へ移る。同月に新設された空軍兵監部兵站総監(副監は汪豊、翌年2月改編では金家駟)に就任し、中国空軍の輜重の任を負う。

1939年5月、航空委員会交通処処長[30]。1943年、空軍第四路司令官。1944年退役[31]。1945年4月30日、空軍上校[32]

戦後

戦後、空軍総司令部物資動員委員会主任(副主任:王叔銘)。また、上海に渡り、航空建設協會上海市分會總幹事兼委員をつとめる。1945年12月には上海第十区公所代理区長[33]、1946年には上海市参議員に選任された。

遷台後、台湾省物資局にて台中弁事処主任や副局長を務めた[34][35]。 また、1962年1月27日には杭州での戦闘をたたえ、空軍司令官の陳嘉尚上将より一星星序獎章および負傷榮譽獎章が贈られた[36]1968年3月の定年退職後[37]、家族とともに渡米し、同地で死去した。

子の石家孝はボストン栄光連誼会理事長を務める[38]

勲章

脚注

  1. ^ 常徳の第16混成旅軍官教導団(長:鹿鍾麟)か
  2. ^ 南苑航空学校3期、元北京中央航空隊司令部第2隊隊員。国民革命軍帰順後は航空第二隊附。以降の経歴は不明
  3. ^ 2番機の乗員は、瀧本文明二空曹、鶴岡運平一空曹、森栄太郎一空兵[19]。第2小隊機は安延多計夫大尉(海兵51期)。乗員はいずれも銭塘江にて澤風に救助された。
  4. ^ 黄埔第6期、空軍第7大隊12中隊副中隊長を経て1943年、石の後任として航空委員会交通処処長。戦後は1945年9月空軍第4地区司令、1948年第5路軍副司令となり、昆明にて盧漢のもと共産党に投降した。
  5. ^ 9月26日に羅英徳に銃撃され不時着した96式の十三空分隊長山下七郎大尉(兵五七期)、8月15日に曹娥江中国語版にて撃墜された95式水偵観測員、9月上旬に靖江にて撃墜された能登呂の95式水偵飛行員の飛行兵曹。飛行兵曹はのちに移送時警備兵に暴行を加えたためやむなく羅によって射殺される。山下他一名は羅と王少康のはからいで中国に帰化し結婚、空軍監察大隊の人員になるもその後の行方は不明

出典

  1. ^ 軍事委員會銓敍廳. “陸海空軍軍官佐任官名簿 part5” (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 222. 2018年2月27日閲覧。
  2. ^ “断臂飞将军”石邦藩” (中国語). 武陵山苗族网. 2016年12月24日閲覧。
  3. ^ “[dsb.xxz.gov.cn/dscg/dssl/201504/P020150507583571304676.doc 中国共产党吉首历史]” (DOC) (中国語). 吉首市史志办公室编著. 2016年12月30日閲覧。
  4. ^ 政府広報命令No.2850 十三年二月二十六日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年12月30日閲覧。
  5. ^ 李 1973, p. 67.
  6. ^ a b c d 抗战前中国航空队史略(上)” (PDF) (中国語). 『军事历史研究』2003年第3期. 2016年12月15日閲覧。
  7. ^ 李 1973, p. 74.
  8. ^ 李 1973, p. 77.
  9. ^ 马毓福編著 (1994). 1908-1949中国军事航空. 航空工业出版社. pp. 183 
  10. ^ 马毓福編著 (1994). 1908-1949中国军事航空. 航空工业出版社. pp. 191 
  11. ^ 国民政府広報第330号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年12月30日閲覧。
  12. ^ 国民政府広報第605号(民国19年10月24日)” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年11月20日閲覧。
  13. ^ a b 中山 2007, p. 105.
  14. ^ 李 1973, p. 365.
  15. ^ 中山 2007, pp. 86–88.
  16. ^ 中山 2007, p. 90.
  17. ^ 公刊昭和6.7年支那事変史下(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿) 第8章 空中戦/7.2月26日杭州飛行場の空襲”. JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14120185800、公刊昭和6.7年支那事変史下(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿)(防衛省防衛研究所). 2017年10月15日閲覧。
  18. ^ 中山 2007, p. 331.
  19. ^ 春日靖軒『正義人道の師 上海戦闘史』研文書院、370頁。 
  20. ^ 中山 2007, pp. 92–93.
  21. ^ 中山 2007, pp. 98–99.
  22. ^ 烟标上的抗日英雄” (PDF) (中国語). 上海党史. 2017年12月2日閲覧。
  23. ^ 中山 2007, p. 86.
  24. ^ 国民政府広報洛字第17号” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2016年12月30日閲覧。
  25. ^ 中山 2007, p. 152.
  26. ^ 楊克林、曹紅編『中国抗日戦争図誌』、779頁。
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参考文献

  • 中山雅洋『中国的天空(上)沈黙の航空戦史』大日本絵画、2007年。ISBN 978-4-499-22944-9 
  • 李天民 (1973). 中國航空掌故. 中國的空軍出版社 

関連項目

外部リンク

軍職
先代
張廷孟
航空第2隊長
第4代:1932.8.20 - 1933.7.17
次代
晏玉琮
先代
なし
南京総站長
初代:1936.5 - 1937.11
次代
丁普明
先代
なし
航空委員会交通処処長
初代:1939.5 - 1943
次代
沈延世
先代
李瑞彬
空軍第四路司令官
第3代:1943 - 1944
次代
羅機