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[[中華民国]]の[[国父]]である[[孫文]](孫中山)の生誕100周年記念事業の一環として1965年10月に建設が開始され、1966年11月12日に完成した<ref>李松林著,《蔣介石的台灣時代》,台北,風雲時代出版,1993年,第229頁</ref><ref name = chungshanhall>[http://chungshanhall.ntl.edu.tw/cht/index.php?code=list&ids=101 陽明山中山樓 > 情報 > 中山樓の歴史] - 中山楼公式ホームページ、2020年3月7日閲覧。</ref>。設計は{{仮リンク|修澤蘭|zh|修澤蘭}}が担当した。
[[中華民国]]の[[国父]]である[[孫文]](孫中山)の生誕100周年記念事業の一環として1965年10月に建設が開始され、1966年11月12日に完成した<ref>李松林著,《蔣介石的台灣時代》,台北,風雲時代出版,1993年,第229頁</ref><ref name = chungshanhall>[http://chungshanhall.ntl.edu.tw/cht/index.php?code=list&ids=101 陽明山中山樓 > 情報 > 中山樓の歴史] - 中山楼公式ホームページ、2020年3月7日閲覧。</ref>。設計は{{仮リンク|修澤蘭|zh|修澤蘭}}が担当した。


約18,000平方メートルの面積をカバーし、外観は{{仮リンク|中国式建築|zh|中国建筑}}の宮殿風建築様式が採用された。内部は3階建てになっており、収容人数1,800人の中華文化堂(1階)や2,000人収容のレセプションルーム(3階)などを擁する。2階部分は[[介石]]・[[宋美齢]]が別荘として使用していたプライベートエリアや[[台湾海峡危機|台湾海峡有事]]を想定した軍事作戦を立案した作戦会議室などが含まれているため、非公開となっている。
約18,000平方メートルの面積をカバーし、外観は{{仮リンク|中国式建築|zh|中国建筑}}の宮殿風建築様式が採用された。内部は3階建てになっており、収容人数1,800人の中華文化堂(1階)や2,000人収容のレセプションルーム(3階)などを擁する。2階部分は[[介石]]・[[宋美齢]]が別荘として使用していたプライベートエリアや[[台湾海峡危機|台湾海峡有事]]を想定した軍事作戦を立案した作戦会議室などが含まれているため、非公開となっている。


現在は、[[国立台湾図書館]]の陽明山中山楼管理所(管理事務所)が管理している。
現在は、[[国立台湾図書館]]の陽明山中山楼管理所(管理事務所)が管理している。
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=== 建設 ===
=== 建設 ===
[[File:Chung-Shan Building face 20160320.jpg|250px|right|thumb|正面]]
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[[File:1966 Chung-Shan Building inscribed board with Chiang Kai-shek's calligraphy 20160320.jpg|250px|right|thumb|介石による扁額]]
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[[File:NT$100 reverse.jpg|250px|right|thumb|新台湾ドル(100ドル紙幣)に描かれた中山楼 ]]
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中山楼は孫文生誕100周年(1966年)記念の事業の一環として、[[中華民国総統]]・[[介石]]の発案で建設されることになった。その狙いは、盛大な祝賀式典の開催以外にも、深く人の心に入り込み、永久に伝えられていくような記念建築物を建造し、国父(孫文)の功跡を称えることにあった。
中山楼は孫文生誕100周年(1966年)記念の事業の一環として、[[中華民国総統]]・[[介石]]の発案で建設されることになった。その狙いは、盛大な祝賀式典の開催以外にも、深く人の心に入り込み、永久に伝えられていくような記念建築物を建造し、国父(孫文)の功跡を称えることにあった。


1964年9月1日、「中華民国各界国父生誕百年記念準備委員会」が設置され、[[国立国父紀念館]]の建設を決定した。そして、1965年2月初めの準備委員会第6回会議で介石は陽明山国防研究院図書館付近に小規模の記念建築物を建てることを決定し、「中山樓」と命名した。建設工事は[[国軍退除役官兵輔導委員会]]栄民工程処が請負った
1964年9月1日、「中華民国各界国父生誕百年記念準備委員会」が設置され、[[国立国父紀念館]]の建設を決定した。そして、1965年2月初めの準備委員会第6回会議で介石は陽明山国防研究院図書館付近に小規模の記念建築物を建てることを決定し、「中山樓」と命名した。建設工事は[[国軍退除役官兵輔導委員会]]栄民工程処が請負った
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2020年9月16日 (水) 05:38時点における版

中山楼
中山樓
中華民国の旗 中華民国 文化資産

等級直轄市定古跡
文化資産登録
公告時期
2005年(民国94年)6月14日
位置中華民国の旗 中華民国台湾台北市北投区陽明路二段15号
座標北緯25度09分19秒 東経121度33分09秒 / 北緯25.15538度 東経121.55258度 / 25.15538; 121.55258座標: 北緯25度09分19秒 東経121度33分09秒 / 北緯25.15538度 東経121.55258度 / 25.15538; 121.55258
建設年代民国55年(1966年)
詳細登録資料

中山楼繁体字中国語: 中山樓)は、中華民国台湾台北市郊外の陽明山にある多目的ホール国民大会の議場などとして使われた。

概要

中華民国国父である孫文(孫中山)の生誕100周年記念事業の一環として1965年10月に建設が開始され、1966年11月12日に完成した[1][2]。設計は修澤蘭中国語版が担当した。

約18,000平方メートルの面積をカバーし、外観は中国式建築中国語版の宮殿風建築様式が採用された。内部は3階建てになっており、収容人数1,800人の中華文化堂(1階)や2,000人収容のレセプションルーム(3階)などを擁する。2階部分は蔣介石宋美齢が別荘として使用していたプライベートエリアや台湾海峡有事を想定した軍事作戦を立案した作戦会議室などが含まれているため、非公開となっている。

現在は、国立台湾図書館の陽明山中山楼管理所(管理事務所)が管理している。

完成後は建物内の中華文化堂が国民大会の議場として用いられ、総統副総統直接選挙中国語版されるようになった1996年以前は国民大会代表(国大代表)による間接選挙1966年から1990年まで)が行われた。また、中華民国憲法の効力を事実上停止していた動員戡乱時期臨時条款の廃止と中華民国憲法増修条文の制定による万年国会終結を決定付けた第1期国民大会第2回臨時会議(1991年4月開催)の会場として、中華民国(台湾)民主化の舞台ともなった。

中山楼は政治の中心地としての役割だけでなく、諸外国の中華民国駐在大使ら外交官や国内外の賓客を接待する施設としても用いられたほか、新台湾ドルや郵便切手の図柄としても登場したため、中華民国を象徴する重要施設としての地位を確立した[3]

歴史

建設

正面
蔣介石による扁額
ファイル:NT$100 reverse.jpg
新台湾ドル(100ドル紙幣)に描かれた中山楼 

中山楼は孫文生誕100周年(1966年)記念の事業の一環として、中華民国総統蔣介石の発案で建設されることになった。その狙いは、盛大な祝賀式典の開催以外にも、深く人の心に入り込み、永久に伝えられていくような記念建築物を建造し、国父(孫文)の功跡を称えることにあった。

1964年9月1日、「中華民国各界国父生誕百年記念準備委員会」が設置され、国立国父紀念館の建設を決定した。そして、1965年2月初めの準備委員会第6回会議で蔣介石は陽明山国防研究院図書館付近に小規模の記念建築物を建てることを決定し、「中山樓」と命名した。建設工事は国軍退除役官兵輔導委員会栄民工程処が請負った [4]

国民大会議場として

中山楼が完成した後、楼内の中華文化堂は収容人数1,800人という規模を生かして国民大会の議場[2]となり、2005年に国民大会が活動を「凍結」するまで使われた。

なお、1949年の遷台中国語版英語版以前は、首都であった南京国民大会堂中国語版制憲国民大会第1期国民大会第1回会議中国語版が開催されていたが、遷台以降は中山楼が完成するまでは台北中山堂を国民大会の議場として使用していた。

脚注

  1. ^ 李松林著,《蔣介石的台灣時代》,台北,風雲時代出版,1993年,第229頁
  2. ^ a b 陽明山中山樓 > 情報 > 中山樓の歴史 - 中山楼公式ホームページ、2020年3月7日閲覧。
  3. ^ 中央銀行新台幣介紹 Archived 2016-08-24 at the Wayback Machine.
  4. ^ 曾一士總編輯 (2003). 中山樓之美. 臺北市: 國立國父紀念館. ISBN 9789570228366 

関連項目

外部リンク