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「エドワード・エヴァンズ (初代マウントエヴァンズ男爵)」の版間の差分

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海軍大尉の頃の[[1910年]]、[[ロバート・スコット]]率いる[[南極]]探検隊の副隊長に就任し、[[テラノバ遠征]]に参加した{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=6}}。テラノバ号は[[1911年]][[1月4日]]に[[ロス島]]とマクワード湾に面した南極の岬に上陸したが、この岬は彼の名を取って[[エバンス岬|エヴァンズ岬]]と名付けられた{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=23}}。10月24日にスコット率いる本隊と別行動で先発し、3名の隊員(バーナード・デイ、ウィリアム・ラッシュリー、FJフーパー)と2台の動力ソリを連れて[[南極点]]に向けて出発した。11月上旬に2台の動力ソリは雪原の中で立ち往生したために道中に放棄することになり、以降エヴァンズ隊は人力ソリ隊と化した{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=28-29}}。後発のスコットの本隊を待って11月21日に合流し、南極点への旅を続行した{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=270}}。しかし人力でソリを引いてきたエヴァンズ隊の疲労は大きかったので、11月25日にまずデイとフーパーが帰路に就くことになり、ついで1912年1月4日に南緯87度32分まで到達したところで隊長スコットの判断でエヴァンズとラッシュリーと他1人も帰路に就くことになった。その帰路も命がけだったが、なんとか生きて帰還できた{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=105/270-271}}。一方スコットは4人の隊員を引き連れて南極点への続行し、ついに南極点に到達したが、帰路に遭難して命を落としている{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=271}}。
海軍大尉の頃の[[1910年]]、[[ロバート・スコット]]率いる[[南極]]探検隊の副隊長に就任し、[[テラノバ遠征]]に参加した{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=6}}。テラノバ号は[[1911年]][[1月4日]]に[[ロス島]]とマクワード湾に面した南極の岬に上陸したが、この岬は彼の名を取って[[エバンス岬|エヴァンズ岬]]と名付けられた{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=23}}。10月24日にスコット率いる本隊と別行動で先発し、3名の隊員(バーナード・デイ、ウィリアム・ラッシュリー、FJフーパー)と2台の動力ソリを連れて[[南極点]]に向けて出発した。11月上旬に2台の動力ソリは雪原の中で立ち往生したために道中に放棄することになり、以降エヴァンズ隊は人力ソリ隊と化した{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=28-29}}。後発のスコットの本隊を待って11月21日に合流し、南極点への旅を続行した{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=270}}。しかし人力でソリを引いてきたエヴァンズ隊の疲労は大きかったので、11月25日にまずデイとフーパーが帰路に就くことになり、ついで1912年1月4日に南緯87度32分まで到達したところで隊長スコットの判断でエヴァンズとラッシュリーと他1人も帰路に就くことになった。その帰路も命がけだったが、なんとか生きて帰還できた{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=105/270-271}}。一方スコットは4人の隊員を引き連れて南極点への続行し、ついに南極点に到達したが、帰路に遭難して命を落としている{{sfn|チェリー=ガラード|1994|p=271}}。
[[File:Edward Evans UK2117.JPG|150px|thumb|1944年11月7日のエヴァンズ海軍大将]]
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2020年12月4日 (金) 05:50時点における版

テラノバ遠征の際のエヴァンズの写真

初代マウントエヴァンズ男爵エドワード・ラットクリフ・ガース・ラッセル・エヴァンズ英語: Edward Ratcliffe Garth Russell Evans, 1st Baron Mountevans, KCB, DSO, SGM1880年10月28日-1957年8月20日)は、イギリス海軍軍人、貴族。ロバート・スコット率いる南極探検隊(テラノバ遠征)の副隊長として知られる。

経歴

1880年10月28日法廷弁護士フランク・エヴァンズの息子としてロンドンに生まれる[1]

マーチャント・テイラーズ・スクールを経て、テムズ船訓練学校英語版を卒業[2]王立海軍に入隊。1902年から1904年にかけてのスコットランド国営南極遠征で救援船モーニング英語版の二等航海士を務めた[2]

1911年10月南極。エヴァンズとトランシット

海軍大尉の頃の1910年ロバート・スコット率いる南極探検隊の副隊長に就任し、テラノバ遠征に参加した[3]。テラノバ号は1911年1月4日ロス島とマクワード湾に面した南極の岬に上陸したが、この岬は彼の名を取ってエヴァンズ岬と名付けられた[4]。10月24日にスコット率いる本隊と別行動で先発し、3名の隊員(バーナード・デイ、ウィリアム・ラッシュリー、FJフーパー)と2台の動力ソリを連れて南極点に向けて出発した。11月上旬に2台の動力ソリは雪原の中で立ち往生したために道中に放棄することになり、以降エヴァンズ隊は人力ソリ隊と化した[5]。後発のスコットの本隊を待って11月21日に合流し、南極点への旅を続行した[6]。しかし人力でソリを引いてきたエヴァンズ隊の疲労は大きかったので、11月25日にまずデイとフーパーが帰路に就くことになり、ついで1912年1月4日に南緯87度32分まで到達したところで隊長スコットの判断でエヴァンズとラッシュリーと他1人も帰路に就くことになった。その帰路も命がけだったが、なんとか生きて帰還できた[7]。一方スコットは4人の隊員を引き連れて南極点への続行し、ついに南極点に到達したが、帰路に遭難して命を落としている[8]

1944年11月7日のエヴァンズ海軍大将

1914年から1918年第一次世界大戦に出征し、殊勲者公式報告書に名前が載った[2]1928年には海軍少将(Rear-Admiral)に昇進するとともに国王ジョージ5世の国王海軍副官に就任[2]。1929年から1931年までオーストラリア艦隊司令官英語版を務めた。1932年に海軍中将(Vice-Admiral)に昇進。1933年から1935年までアフリカ基地司令官英語版に就任。1935年から1939年にかけてはノア管区司令官を務めた。その間の1936年に海軍大将(Admiral)に昇進[2]第二次世界大戦中はロンドン防衛地域の地域コミッショナーの地位にあった[9]

1945年11月12日連合王国貴族爵位カウンティ・オブ・ロンドンにおけるチェルシーのマウントエヴァンズ男爵(Baron Mountevans, of Chelsea in the County of London)に叙せられ[9][2]貴族院議員に列した[10]1958年8月20日に死去した。爵位は長男リチャードが継承した[9][2]

栄典

爵位

1945年11月12日に以下の爵位を新規に叙された[9][2]

勲章

英国勲章

外国勲章

家族

1904年4月13日にニュージーランドのトマス・グレゴリー・ラッセルの娘ヒルダ・ベアトリスと結婚したが、1913年4月18日に死別し、1916年1月22日にノルウェーのリチャード・アンドボードの娘エルザ・アンドボードと再婚し、彼女との間に以下の2子を儲けた[2][9]

  • 長男リチャード・アンドボード・エヴァンズ (Richard Andvord Evans, 1918-1974), 2代マウントエヴァンズ男爵を継承
  • 次男エドワード・ブローク・エヴァンズ (Edward Broke Evans, 1924-)

脚注

出典

参考文献

  • チェリー=ガラード, アプスリー 著、戸井十月 訳『世界最悪の旅』小学館〈地球人ライブラリー〉、1994年(平成6年)。ISBN 978-4092510074 
  • Pound, Reginald (1963). Evans of the Broke: a biography of Admiral Lord Mountevans KCB, DSO, LLD. London: Oxford University Press 

外部リンク

軍職
先代
ジョージ・ハイド英語版
オーストラリア艦隊司令官英語版
(Rear Admiral Commanding HM Australian Squadron)

1929年–1931年
次代
レナード・ホルブルック英語版
先代
サー・ヒュー・トゥイーディー英語版
アフリカ基地司令官英語版
(Commander-in-Chief, Africa Station)

1933–1935
次代
サー・フランシス・トッテナム英語版
先代
サー・ヒュー・トゥイーディー英語版
ノア管区司令官英語版
(Commander-in-Chief, The Nore)

1935年–1939年
次代
サー・スタッドホルム・ブラウンリッグ英語版
学職
先代
ウォルター・エリオット英語版
アバディーン大学学長英語版
1936年–1942年
次代
スタッフォード・クリップス
イギリスの爵位
新設 初代マウントエヴァンズ男爵
1945年 – 1957年
次代
リチャード・エヴァンズ