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「豊臣百丸」の版間の差分

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'''豊臣 百丸'''(とよとみ の ひゃくまる/とよとみ ひゃくまる)は、[[安土桃山時代]]の[[公達 (貴族)|公達]]。[[豊臣氏]]の2代[[関白]][[豊臣秀次]]の次男<ref>父である秀次の法名が道意であり、息子の中で百丸だけに誓道または道喜と、同じ「道」1字が用いられていて、他の3子は「妙」の字である。『[[大かうさまくんきのうち]]』では若君は3人しか登場せず、[[豊臣仙千代丸|仙千代丸]]は登場しないので、登場するなかで最年長の百丸が嫡男の扱いを受けているようである。</ref>。母は[[尾張国]][[星崎城]]主[[山口重勝|山口少雲]]の娘<ref>[[前野長康]]の養女となったとも云う。</ref>於辰の方<ref>{{Citation |和書|last=小林|first=千草|author-link=小林千草|year =1996|title =太閤秀吉と秀次謀反|publisher =筑摩書房|isbn=4480082999}}</ref>。
'''豊臣 百丸'''(とよとみ の ひゃくまる/とよとみ ひゃくまる)は、[[安土桃山時代]]の[[公達]]。[[豊臣氏]]の2代[[関白]][[豊臣秀次]]の次男<ref>父である秀次の法名が道意であり、息子の中で百丸だけに誓道または道喜と、同じ「道」1字が用いられていて、他の3子は「妙」の字である。『[[大かうさまくんきのうち]]』では若君は3人しか登場せず、[[豊臣仙千代丸|仙千代丸]]は登場しないので、登場するなかで最年長の百丸が嫡男の扱いを受けているようである。</ref>。母は[[尾張国]][[星崎城]]主[[山口重勝|山口少雲]]の娘<ref>[[前野長康]]の養女となったとも云う。</ref>於辰の方<ref>{{Citation |和書|last=小林|first=千草|author-link=小林千草|year =1996|title =太閤秀吉と秀次謀反|publisher =筑摩書房|isbn=4480082999}}</ref>。


== 略歴 ==
== 略歴 ==

2020年12月17日 (木) 22:34時点における版

 
豊臣百丸
時代 安土桃山時代
生誕 文禄元年(1592年
死没 文禄4年8月2日(1595年9月5日
改名 百丸(幼名
別名 道喜[1](法名)
戒名 無上院殿誓道大童子
氏族 豊臣氏
父母 父:豊臣秀次
母:於辰(山口少雲の娘)
兄弟 仙千代丸百丸十丸土丸露月院
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豊臣 百丸(とよとみ の ひゃくまる/とよとみ ひゃくまる)は、安土桃山時代公達豊臣氏の2代関白豊臣秀次の次男[2]。母は尾張国星崎城山口少雲の娘[3]於辰の方[4]

略歴

文禄4年(1595年)、秀次の一族が処刑された際、他の秀次の妻子とともに三条河原で処刑された。

浄土宗慈舟山瑞泉寺にある秀次公一族の法名を記した名簿によると、享年4で、戒名は無上院殿誓道大童子。日蓮宗本圀寺末寺である)瑞龍寺の過去帳によると道喜[1]

脚注

  1. ^ a b 黒川道祐 著、上村觀光 編『黒川道祐近畿游覧誌稿』淳風房、1910年、98頁。 
  2. ^ 父である秀次の法名が道意であり、息子の中で百丸だけに誓道または道喜と、同じ「道」1字が用いられていて、他の3子は「妙」の字である。『大かうさまくんきのうち』では若君は3人しか登場せず、仙千代丸は登場しないので、登場するなかで最年長の百丸が嫡男の扱いを受けているようである。
  3. ^ 前野長康の養女となったとも云う。
  4. ^ 小林千草『太閤秀吉と秀次謀反』筑摩書房、1996年。ISBN 4480082999 

参考文献