豊臣仙千代丸
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瑞泉寺所蔵 | |
時代 | 安土桃山時代 |
生誕 | 天正18年(1590年) |
死没 | 文禄4年8月2日(1595年9月5日) |
改名 | 仙千代丸(幼名) |
別名 | 妙泉[1](法名) |
戒名 | 暁覚院殿誓雲大童子 |
主君 | 豊臣秀次 |
氏族 | 豊臣氏 |
父母 |
父:豊臣秀次 母:於和子(日比野下野守の娘) |
兄弟 | 仙千代丸、百丸、十丸、土丸、露月院 |
豊臣 仙千代丸(とよとみ の せんちよまる/とよとみ せんちよまる)は、安土桃山時代の公達。豊臣氏の2代関白・豊臣秀次の長男。母は尾張衆(または美濃衆)日比野下野守[2]の娘・於和子(おわこ)で、彼女は秀次の側室であって庶長子であろう[3]。
生涯
[編集]天正18年(1590年)、豊臣秀次の長男として生まれる[4]。
文禄2年(1593年)、秀次の養父である秀吉に次男・秀頼が誕生した。この頃より、秀次は秀吉から次第に疎まれるようになっていき、文禄4年(1595年)、遂に秀次は謀反の疑いをかけられ失脚し、高野山に追放された。その後、7月15日に秀次は青巌寺・柳の間で自害した。
秀吉は係累の根絶を命じて、8月2日、仙千代丸も他の秀次の一族とともに三条河原で処刑された[3]。享年6[6]。
浄土宗慈舟山瑞泉寺にある秀次公一族の法名を記した名簿によると、戒名は暁覚院殿誓雲大童子。日蓮宗(本圀寺の末寺である)瑞龍寺の過去帳によると法名は妙泉[1]。
脚注
[編集]- ^ a b 黒川道祐 著、上村觀光 編『黒川道祐近畿游覧誌稿』淳風房、1910年、98頁。
- ^ 美濃斎藤氏旧臣で斎藤義龍の側近「日比野清実」と推測される。
- ^ a b 『大かうさまくんきのうち』では於和子に子がいたとは書かれておらず、処刑された3人の若君に含まれていない[5]。仙千代丸について言及があるのは『 聚楽物語』である。
- ^ 享年より逆算。
- ^ 小林千草『太閤秀吉と秀次謀反』筑摩書房、1996年。ISBN 4480082999。
- ^ 子なしとする『大かうさまくんきのうち』では於和子を22歳としているが、『聚楽物語』では18歳としているために於和子が13歳のときに産んだ子供ということになる。
参考文献
[編集]- 国民文庫刊行会 編「国立国会図書館デジタルコレクション 聚楽物語」『雑史集』国民文庫刊行会、1912年 。