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{{by|1976年}}の[[ドラフト会議 (MLB)|MLBドラフト]]11巡目で[[ヒューストン・アストロズ]]に指名され契約。1981年に[[ニューヨーク・メッツ]]に[[トレード]]移籍し、{{by|1982年}}4月9日に[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]デビュー。メッツ時代には[[デービー・ジョンソン]]監督からは「[[キース・ヘルナンデス]]がいるから出番はないが優秀」と実力は評価されていた<ref>[[ロバート・ホワイティング]]/[[松井みどり_(翻訳家)|松井みどり]]『ニッポン野球は永久に不滅です』157頁、[[ちくま文庫]]、1987年</ref>ものの結局メジャー定着はならず、以後、{{by|1984年}}に[[セントルイス・カージナルス]]、{{by|1985年}}に[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]と渡り歩く。
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{{by|1986年}}に[[中日ドラゴンズ]]に入団し、来日。来日1年目から[[クリーンナップ]]に定着し、1986年5月4日の[[広島東洋カープ]]戦で[[津田恒実]]、9月16日の[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦で[[尾花髙夫|尾花高夫]]から[[サヨナラゲーム|サヨナラ]][[本塁打]]を放つなど、同年36本塁打を放った。2年目の{{by|1987年}}には出場辞退した[[ボブ・ホーナー]]に代わって[[1987年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に出場した。


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{{by|1988年}}には開幕戦敗戦で迎えた2戦目の4月9日の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]戦では9回0-0の場面で[[新浦壽夫]]からサヨナラ本塁打を放ち、6月1日から8月2日までは不振の[[落合博満]]に代わり4番打者としてチームのリーグ優勝に貢献。同年に中日に入団した[[ラルフ・ブライアント]]は、中日の[[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人枠]]が、当時の制度でゲーリーと[[郭源治]]で埋まっていることとなって、同年シーズン中に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]からの申し入れによってトレードされるまで、[[一軍]]で出場できなかった<ref>{{cite web|url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170728-11|title=“途中移籍”助っ人の衝撃。ブライアントの場合|publisher=[[ベースボールマガジン社]]|date=2017年7月28日|accessdate=2018-06-19}}[[ラルフ・ブライアント]]参照</ref>。一方のゲーリーは右脇腹痛もあり同年限りで中日を退団し、帰国した。

2020年12月23日 (水) 05:04時点における版

ゲーリー・レーシッチ
Gary Rajsich
ニューヨーク・メッツ時代
(1982年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州ヤングスタウン
生年月日 (1954-10-28) 1954年10月28日(69歳)
身長
体重
184 cm
95 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1976年 MLBドラフト11巡目
初出場 MLB / 1982年4月9日
NPB / 1986年4月4日
最終出場 MLB / 1985年7月1日
NPB / 1988年10月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ゲーリー・ルイス・レーシッチ(Gary Louis Rajsich、1954年10月28日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手内野手)。左投左打。中日ドラゴンズでの登録名ゲーリー広島東洋カープでプレーしたデーブ・レーシッチは実兄。

経歴

1976年MLBドラフト11巡目でヒューストン・アストロズに指名され契約。1981年にニューヨーク・メッツトレード移籍し、1982年4月9日にメジャーデビュー。メッツ時代にはデービー・ジョンソン監督からは「キース・ヘルナンデスがいるから出番はないが優秀」と実力は評価されていた[1]ものの結局メジャー定着はならず、以後、1984年セントルイス・カージナルス1985年サンフランシスコ・ジャイアンツと渡り歩く。

1986年中日ドラゴンズに入団し、来日。来日1年目からクリーンナップに定着し、1986年5月4日の広島東洋カープ戦で津田恒実、9月16日のヤクルトスワローズ戦で尾花高夫からサヨナラ本塁打を放つなど、同年36本塁打を放った。2年目の1987年には出場辞退したボブ・ホーナーに代わってオールスターゲームに出場した。

1988年には開幕戦敗戦で迎えた2戦目の4月9日の横浜大洋ホエールズ戦では9回0-0の場面で新浦壽夫からサヨナラ本塁打を放ち、6月1日から8月2日までは不振の落合博満に代わり4番打者としてチームのリーグ優勝に貢献。同年に中日に入団したラルフ・ブライアントは、中日の外国人枠が、当時の制度でゲーリーと郭源治で埋まっていることとなって、同年シーズン中に近鉄バファローズからの申し入れによってトレードされるまで、一軍で出場できなかった[2]。一方のゲーリーは右脇腹痛もあり同年限りで中日を退団し、帰国した。

引退後はボストン・レッドソックステキサス・レンジャーストロント・ブルージェイズのスカウトを経て、2011年のシーズンオフからボルチモア・オリオールズのスカウティングディレクターに就任。

人物

中日時代に通訳を務めた足木敏郎とは今でも交流があり、電話などで連絡を取り合っている模様。現在は相当太ったとの事。[要出典]

ゲーリーの応援歌山本リンダの「狙いうち」が原曲であり、その後、ジョージ・ヒンショーベニー・ディステファーノマーク・ライアルアロンゾ・パウエルの応援歌として流用され、中日のチャンステーマに使われていたほか(主に7回以降の場面)、高校野球や社会人野球でも応援歌の定番としてよく使われている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1982 NYM 80 182 162 17 42 8 3 2 62 12 1 3 2 0 17 3 1 40 2 .259 .333 .383 .716
1983 11 40 36 5 12 3 0 1 18 3 0 0 0 0 3 1 1 1 1 .333 .400 .500 .900
1984 STL 7 10 7 1 1 0 0 0 1 2 0 0 0 1 2 0 0 1 0 .143 .300 .143 .443
1985 SF 51 110 91 5 15 6 0 0 21 10 0 1 2 0 17 4 0 22 0 .165 .296 .231 .527
1986 中日 129 525 486 58 122 12 2 36 246 82 2 5 0 3 30 2 6 105 7 .251 .301 .506 .807
1987 87 359 331 60 105 11 4 24 196 54 2 1 1 3 22 1 2 51 7 .317 .360 .592 .952
1988 101 404 358 56 105 25 3 16 184 53 2 2 0 6 34 8 6 51 7 .293 .359 .514 .873
MLB:4年 149 342 296 28 70 17 3 3 102 27 1 4 4 1 39 8 2 64 3 .236 .328 .345 .673
NPB:3年 317 1288 1175 174 332 48 9 76 626 189 6 8 1 12 86 11 14 207 21 .283 .336 .533 .868
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

NPB初記録
NPBその他の記録

背番号

  • 21 (1982年 - 1983年)
  • 33 (1984年)
  • 26 (1985年 - 同年途中)
  • 43 (1985年途中 - 同年終了)
  • 4 (1986年 - 1988年)

脚注

  1. ^ ロバート・ホワイティング松井みどり『ニッポン野球は永久に不滅です』157頁、ちくま文庫、1987年
  2. ^ “途中移籍”助っ人の衝撃。ブライアントの場合”. ベースボールマガジン社 (2017年7月28日). 2018年6月19日閲覧。ラルフ・ブライアント参照

関連項目

外部リンク