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「日本国との平和条約」の版間の差分

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戦時中は[[連合国]]・連合国民の有する[[著作権]]の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき、連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律(昭和27年8月8日法律第302号)が制定され、[[著作権法]]に規定されている保護期間に関する特例が設けられている。→「[[戦時加算 (著作権法)|戦時加算]]」を参照
戦時中は[[連合国]]・連合国民の有する[[著作権]]の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき、連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律(昭和27年8月8日法律第302号)が制定され、[[著作権法]]に規定されている保護期間に関する特例が設けられている。→「[[戦時加算 (著作権法)|戦時加算]]」を参照


===11条解釈===
===極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾===
''[[サンフランシスコ条約の11条解釈]]参照''
各国に承認された外務省訳(条約正文ではない)では第11条の"Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan"を"極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾"と訳した。外務省は、"Japan accepts the judgments"の箇所を「裁判を受諾」と訳したものの、通常"the judgments"は「諸判決」と訳すほうが自然ともいえるとして、その文意については議論がされてきた。「裁判を受諾」では、何を受諾したかについて、日本語文として意味が不明瞭なため、その内容が問題となる。以下に表で分類する。"the judgments"を「裁判」と訳すか「諸判決」と訳すかでまず大分類される。

"the judgments"を外務省訳の「裁判」と理解した場合に、その「裁判」の語意を「一連の訴訟手続きそのもの」つまり通常我々が「裁判」として使っている語意で受け取るべきという見解と、「裁判」という言葉は法律用語で「判決」を意味するから「判決」と受け取るべきという見解がある。通常の意味の「裁判」の意味で受け取るべきと言う見解では、書き下した場合には「裁判を受け入れる」との意となり、「裁判」を判決と受け取るべきと言う見解では書き下した場合には、「結果を受け入れる」との意となる。

"the judgments"をそもそも「諸判決」と訳すべきと理解する者にも、意味において、外務省訳と対立する場合と、そうでない場合がある。外務省訳の「裁判」を「諸判決」と受け取った場合でも、「結果を受け入れる」と解釈するか、「諸判決を受け入れる」と解釈するかに分かれる。

<table border= "1">
<caption>表1 the judgments 判決か裁判か?</caption>
<tr align = "center">
<td align = "left">正文</td>
<td colspan="4">accepts the '''judgments'''</td>
</tr>
<tr align = "center">
<td align = "left">外務省訳</td>
<td colspan="4">裁判</td>
</tr>
<tr align = "center">
<td align = "left">翻訳</td>
<td colspan="2">「裁判」で正しい</td>
<td colspan="2">あれはどう訳しても「諸判決」</td>
</tr>
<tr align = "center">
<td align = "left">解釈</td>
<td>「裁判」は一連の訴訟手続き全体</td>
<td>「裁判」は判決を指す</td>
<td colspan="2">「諸判決」は諸判決</td>
</tr>
<tr align = "center">
<td align = "left">真意</td>
<td>「裁判」を受け入れる</td>
<td>「結果」を受け入れる</td>
<td>「諸判決」を受け入れる</td>
<td>「結果」を受け入れる</td>
</tr>
</table>
====第11条の意味と政府答弁====
東京裁判における判決、ないしは、そこにおける事実等の認定をめぐっての解釈に関する争いの中で、この条約の第11条の規定の一部により日本が「東京裁判を受諾」したのだから、その判決ないしは事実認定、ときにはそこから導かれた現在の政治状況等について、日本自身が認めているものと解する主張と、それを否定する主張の対立が見られる。

近年の政府の答弁においては、ジャッジメントの訳語については裁判という訳語が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認されていることから、『これはそういうものとして受け止めるしかない』とした上で、「ジャッジメント」には、

*『ジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれている』  (第162回国会 外交防衛委員会 第13号 平成17年6月2日(木曜日))

としている。

これをもって、政府は事実認定等を含めた裁判全体を受諾したのであるから、裁判の対象となった事項について、東京裁判の事実認定等以外の解釈はできない、などの意味で「東京裁判を受諾」したとし、政府もそれを認めている、と解する見解がある。

<small>
(しかしこれは日本側の付けた訳文に依る解釈のようで、 通常の法律解釈として、契約とちがって一方的な宣告である裁判において、judgmentを受け入れて刑に服することが、自動的に裁判の基礎の総てに承認の誓いをすることになるか、などの法理論は未確認である。)</small>

別の解説としては、「1212頁にわたる多数意見の判決文の一部には東京裁判が正当なものであるということを宣言した箇所があり、日本はjudgmentsを具体的には判決文として受け入れたことで、自動的に東京裁判のあり方自体をその後も受け入れたことになる」とも語られる。<br />

<small>(当時の日本の理解や翻訳時の事情、その違いのもたらす意味があるかなどの詳細については未確認である。 またjudgmentsに判決文という意味が本来存在するかも同様である。)</small>


これらに対立する見解もある。例えば、当時の国会で、

*『戦犯に関しましては、平和條約に特別の規定を置かない限り、平和條約の効力発生と同時に、戦犯に対する判決は将来に向つて効力を失い、裁判がまだ終つていない瀞は釈放しなければならないというのが国際法の原則であります。従つて十一條はそういう当然の結果にならないために置かれたものでございまして、第一段におきまして、日本は極東軍事裁判所の判決その他各連合国の軍事裁判所によつてなした裁判を承諾いたすということになつております。後段は--(略)--恩赦、釈放、減刑などに関する事柄--(略)』  (昭和26年10月11日の国会答弁、(第012回国会 平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第2号))

とする政府答弁があることから、「独立するから国際法の原則が適用されて東京裁判は効力を失う、しかし戦犯を釈放しないで量刑を引き継ぐ約束をする、という理解と了解」 の元に、日本は条約を批准したのであり、それ以上の意味は発効しないという解釈である。  

また補足的なことがらだが、議論のおそらく精神的な部分について、

これらの議論で「独立条件、国際社会との約束」という言葉が使われることに対して、 国際法の原則にない約束が成立していても、後になって、本来の国際法上の独立の権利は損なわれない、とする意見もある。<br />

<small>
(2006年時点で、アメリカとの取引の可能性を匂わす報道傾向が一部にあるが根拠は不明である。)</small>

====中国・韓国との関係====
第25条によれば、「第21条の規定を留保して、この条約は、ここに定義された連合国の一国でないいずれの国に対しても、いかなる権利、権原又は利益を与えるものではない。」と定め、その第21条には、「この条約の第25条の規定にかかわらず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有し、朝鮮は、この条約の第2条、第4条、第9条及び第12条の利益を受ける権利を有する」とある。

そのため、ここでの「中国」と「朝鮮」が何を指すとしても、第11条が除外されており、また、両国と終結した平和条約にも特別の言及が見られない以上、中国(中華民国及び中華人民共和国)及び朝鮮(大韓民国及び朝鮮民主主義人民共和国)との関係で、中国・韓国が、東京裁判、そしてその裁判ないし判決の結果について干渉する権利はないとする主張がある。

なお、別に結ばれた日華(中華民国)平和条約において、戦争状態の結果生じた問題についてはサンフランシスコ平和条約に準ずるとされている。


== 講和会議 ==
== 講和会議 ==

2006年10月6日 (金) 14:33時点における版

日本国との平和条約(にほんこくとのへいわじょうやく、: Treaty of Peace with Japan)は、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約である。アメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ条約サンフランシスコ平和条約サンフランシスコ講和条約SF条約などとも呼ばれ、ほかにも対日平和条約・対日講和条約などとも呼ばれることがある。なお、条約の正文は英語・仏語・スペイン語であり、日本語の正文はない(ただし、日本の外務省がおこなった和訳が、正文に準ずるものとして締約国の間で承認され、国会承認・内閣批准を受けた公式なテキストとして日本国内では扱われている)。1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効した。日本国内では、昭和27年4月28日条約第5号として公布されている。

この条約によって、正式に、連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認した(第1条(b))。なお、国際法上では、この条約が発効されるまでは「戦争状態」が続いていたとされ(第1条(a))、ポツダム宣言の受諾を表明した1945年(昭和20年)8月15日や、降伏文書に署名をした1945年(昭和20年)9月2日以降にも戦争状態は継続していたものとされる。

内容・解釈等

要旨

  • 日本と連合国との戦争状態の終了(第1条(a))
  • 日本国民の主権の回復(第1条(b))
  • 日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権の放棄(第2条(a))
(英文では“Japan, recognizing the independence of Korea”なので、“独立を承認”ではなく“独立を認識”が妥当と考えられるという少数意見も存在する。しかしその独立はポツダム宣言の受諾日1945年8月9日では無い。詳細ラスク書簡
(所謂、東京裁判の判決結果を受諾した)
(英文では“Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan”なので、ここでいう「裁判を受諾」の裁判とは、一般に用いられる意味では“判決を受諾”の意味と解するのが妥当と考えられるという意見も存在する)

領土

日本には領土の範囲を決めた一般的な国内法が存在せず、本条約の第2条が領土に関する法規範の一部になると解されている。

いわゆる外地人の日本国籍喪失

条約に基づき領土の範囲が変更される場合は、当該条約中に国籍の変動に関する条項が入ることが多いが、本条約には明文がない。しかし、国籍や戸籍の処理に関する指針を明らかにした通達(昭和27年4月19日民事甲第438号法務府民事局長通達「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)により、本条約第2条(a)(b)の解釈として朝鮮人及び台湾人は日本国籍を失うとの解釈が示され、最高裁判所も同旨の解釈を採用した(最大判昭和36年4月5日民集15巻4号657頁)。もっとも、台湾人の国籍喪失時期については、本条約ではなく日華平和条約の発効時とするのが最高裁判例である(最大判昭和37年12月5日刑集16巻12号1661頁)。これに対し、千島列島・南樺太は、法体系上は内地であったため権原放棄に伴う国籍の喪失はないとされている。

著作権保護期間の戦時加算

戦時中は連合国・連合国民の有する著作権の日本国内における保護が十分ではなかったとの趣旨から、本条約第15条(c)の規定に基づき、連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律(昭和27年8月8日法律第302号)が制定され、著作権法に規定されている保護期間に関する特例が設けられている。→「戦時加算」を参照

11条解釈

サンフランシスコ条約の11条解釈参照

講和会議

1951年(昭和26年)7月20日共同で、日本を含む全50カ国に招請状を発送。「中国」に対しては、代表政権についての米英の意見(中華民国中華人民共和国か)が一致せず、日中間の講和については独立後の日本自身の選択に任せることにして、招請は見送られた(1952年(昭和27年)4月28日、中華民国(台湾)との間に日華平和条約を調印。1952年8月5日発効)。

8月22日フランスの要求を容れ、インドシナ三国(ベトナムラオスカンボジア)にも招請状を発送。

9月4日から8日にかけて、サンフランシスコ市の中心街にある戦没者追悼記念オペラハウスWar Memorial Opera House)において、全52カ国の代表が参加して講和会議が開催された。インドビルマユーゴスラビアは招請に応じなかった。

日本の全権団代表は、首席全権の吉田茂首相)、全権委員の池田勇人(蔵相)・苫米地義三国民民主党最高委員長)・星島二郎自由党常任総務)・徳川宗敬(参議院緑風会議員総会議長)・一万田尚登日銀総裁)の6名。

9月8日、条約に49カ国が署名し、講和会議は閉幕した。ソ連ポーランドチェコスロバキアの共産圏3国は、条約の内容に反対して欠席、署名しなかった。

署名した国

アルゼンチンオーストラリアベルギーボリビアブラジルカンボジアカナダ、セイロン(→スリランカ)、チリコロンビア(※)、コスタリカキューバドミニカ共和国エクアドルエジプトエルサルバドルエチオピアフランスギリシャグアテマラハイチホンジュラスインドネシア(※)、イランイラクラオスレバノンリベリアルクセンブルク(※)、メキシコオランダニュージーランドニカラグアノルウェーパキスタンパナマパラグアイペルーフィリピンサウジアラビアシリアトルコ、南アフリカ連邦(→南アフリカ共和国)、イギリスアメリカ合衆国ウルグアイベネズエラベトナム日本
  • 署名順【日本を除きABCD順に署名している】。
  • ※は、署名はしたが批准していない国。
  • →は署名後、国名が変わった国。

なお、講和会議に続いて、日本とアメリカ合衆国の代表は、サンフランシスコ郊外のプレシディオ陸軍基地に場所を移して、日米安全保障条約を締結した。この2つの条約をもって日本は自由主義陣営の一員として国際社会に復帰したと言える。 (吉田全権代表以外は署名せず。)

日本国内の経緯

会議前

日本国内では、主に左翼陣営が、ソビエト連邦などを含む全面講和を主張した。

会議後

  • 1951年10月26日 衆議院が締結を承認
  • 1951年11月18日 参議院が締結を承認、内閣が条約を批准

※両院共承認し、内閣が批准したのは『日本語正文』であるが、正文が存在するのは英語・フランス語・スペイン語であり、厳密には条約を批准して居ないと見るべきだと云う意見もある。これに従うと日本は未だ独立国家では無い事と成る。

この後、日本は、この条約を締結しなかった国々と個別の平和条約を締結したが、ソビエト連邦(現ロシア)とはいまだに平和条約を締結しておらず(法的には現在も関係不正常状態)、北方領土問題などを残している。

また、条約の発効を以って、占領軍に発行禁止されていたしんぶん赤旗が再刊された。

署名から50年後

2001年9月8日(日本時間では9日)、北カルフォルニア日本協会(the Japan Society of Northern California)の主催で、「サンフランシスコ平和条約署名50周年記念式典」が講和会議の会場であったオペラハウスにて開かれた。日本からは田中真紀子外務大臣が、米国からはコリン・パウエル国務長官が出席し、それぞれ演説を行ない、日米の同盟関係のさらなる強化の必要性を確認しあった。なお、この式典の前に、プレシディオ元陸軍基地において旧日米安全保障条約署名50周年記念式典も行われた。

関連項目

外部リンク