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1950年12月15日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の[[ウラジオストク]]に誕生する。4歳の時にレニングラード(現在の[[サンクトペテルブルク]])に移る。レニングラード物理数学学校を経て[[1973年]]にレニングラード電気技術大学を卒業する。大学時代はコムソモール(共産主義青年同盟)の活動に積極的であった。
1950年12月15日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の[[ウラジオストク]]に誕生する。4歳の時にレニングラード(現在の[[サンクトペテルブルク]])に移る。レニングラード物理数学学校を経て[[1973年]]にレニングラード電気技術大学を卒業する。大学時代はコムソモール(共産主義青年同盟)の活動に積極的であった。


大学を卒業後に科学生産合同「[[コミンテルン]]」に勤務。次いで[[1977年]]からレニングラード生産合同「エレクトロンプリボル」に移る。この頃[[ロシア連邦保安庁]]長官となる[[ニコライ・パトルシェフ]]と共にレニングラードの「最も有用な人物」と呼ばれた。[[1991年]]8月までソビエト連邦共産党に所属。1991年12月の[[ソ連崩壊]]後も活発に活動し、[[1997年]]からバルト技術大学で教鞭を執る。[[1999年]]には国際事業協力基金である「地域の発展」の会長となった。
大学を卒業後に科学生産合同「[[コミンテルン]]」に勤務。次いで[[1977年]]からレニングラード生産合同「エレクトロンプリボル」に移る。この頃[[ロシア連邦保安庁]]長官となる[[ニコライ・パトルシェフ]]と共にレニングラードの「最も有用な人物」と呼ばれた。[[1991年]]8月までソビエト連邦共産党に所属。1991年12月の[[ソビエト邦の崩壊]]後も活発に活動し、[[1997年]]からバルト技術大学で教鞭を執る。[[1999年]]には国際事業協力基金である「地域の発展」の会長となった。


グルィズロフの政界入りは1999年12月の[[1999年ロシア下院選挙|1999年ロシア連邦下院選挙]]である。この選挙に新たに結成された'''「統一」'''から[[比例代表制|比例代表]]で立候補し、当選する。[[2000年]]1月に院内会派である「統一」の代表に選出される。同年3月にロシア連邦内相に任命される。同年12月に「統一」が「[[祖国・全ロシア]]」と合併し、与党の「統一ロシア」が誕生すると同党の最高会議議員に選出され、ロシア連邦内相を辞任する。[[2002年]]には統一ロシアの最高会議ビューロー(執行部)議長(党首)に選出された。[[2003年]]12月の[[2003年ロシア下院選挙|ロシア連邦下院選挙]]で統一ロシアは比例区で120議席・小選挙区で126議席を獲得して圧勝し、グルィズロフも再選される。選挙後に召集された国家院で議長に選出された。[[2004年]]11月27日に第5回統一ロシア党大会で党首である党最高会議ビューロー議長に再選された。その後統一ロシアは[[2007年]]12月の[[2007年ロシア下院選挙|ロシア連邦下院選挙]]で議席数をさらに伸ばし、全議席の6割超を獲得した。[[2008年]]5月7日にウラジーミル・プーチン首相が党首に就任したのに伴い、党首を退任する。
グルィズロフの政界入りは1999年12月の[[1999年ロシア下院選挙|1999年ロシア連邦下院選挙]]である。この選挙に新たに結成された'''「統一」'''から[[比例代表制|比例代表]]で立候補し、当選する。[[2000年]]1月に院内会派である「統一」の代表に選出される。同年3月にロシア連邦内相に任命される。同年12月に「統一」が「[[祖国・全ロシア]]」と合併し、与党の「統一ロシア」が誕生すると同党の最高会議議員に選出され、ロシア連邦内相を辞任する。[[2002年]]には統一ロシアの最高会議ビューロー(執行部)議長(党首)に選出された。[[2003年]]12月の[[2003年ロシア下院選挙|ロシア連邦下院選挙]]で統一ロシアは比例区で120議席・小選挙区で126議席を獲得して圧勝し、グルィズロフも再選される。選挙後に召集された国家院で議長に選出された。[[2004年]]11月27日に第5回統一ロシア党大会で党首である党最高会議ビューロー議長に再選された。その後統一ロシアは[[2007年]]12月の[[2007年ロシア下院選挙|ロシア連邦下院選挙]]で議席数をさらに伸ばし、全議席の6割超を獲得した。[[2008年]]5月7日にウラジーミル・プーチン首相が党首に就任したのに伴い、党首を退任する。

2020年12月25日 (金) 23:32時点における版

ボリス・グルィズロフ
Борис Вячеславович Грызлов
ボリス・グルィズロフ
生年月日 (1950-12-15) 1950年12月15日(73歳)
出生地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国
ウラジオストク
出身校 レニングラード物理数学学校
レニングラード電気技術大学
前職 電気技術者
バルト工科大学学長
所属政党 ソビエト連邦共産党
統一ロシア
配偶者 アーダ・ヴィクトロヴナ・グルィズロヴァ

ロシアの旗 ロシア連邦
5代目内相
内閣 ミハイル・カシヤノフ内閣
在任期間 2001年3月28日 - 2003年12月24日
大統領 ウラジーミル・プーチン

在任期間 2003年12月29日 - 2011年12月21日
大統領 ウラジーミル・プーチン
ドミートリー・メドヴェージェフ

ロシアの旗 統一ロシア
2代目党首
在任期間 2005年4月15日 - 2007年12月31日
大統領 ウラジーミル・プーチン
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ボリス・ヴャチェスラヴォヴィチ・グルィズロフまたはグリズロフロシア語: Борис Вячеславович Грызлов, ラテン文字転写: Boris Vyacheslavovich Gryzlov, 1950年12月15日 - )は、ロシア連邦の政治家である。ウラジーミル・プーチン政権1期目で5代目ロシア連邦内相などを務めた。

経歴

1950年12月15日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のウラジオストクに誕生する。4歳の時にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に移る。レニングラード物理数学学校を経て1973年にレニングラード電気技術大学を卒業する。大学時代はコムソモール(共産主義青年同盟)の活動に積極的であった。

大学を卒業後に科学生産合同「コミンテルン」に勤務。次いで1977年からレニングラード生産合同「エレクトロンプリボル」に移る。この頃ロシア連邦保安庁長官となるニコライ・パトルシェフと共にレニングラードの「最も有用な人物」と呼ばれた。1991年8月までソビエト連邦共産党に所属。1991年12月のソビエト連邦の崩壊後も活発に活動し、1997年からバルト技術大学で教鞭を執る。1999年には国際事業協力基金である「地域の発展」の会長となった。

グルィズロフの政界入りは1999年12月の1999年ロシア連邦下院選挙である。この選挙に新たに結成された「統一」から比例代表で立候補し、当選する。2000年1月に院内会派である「統一」の代表に選出される。同年3月にロシア連邦内相に任命される。同年12月に「統一」が「祖国・全ロシア」と合併し、与党の「統一ロシア」が誕生すると同党の最高会議議員に選出され、ロシア連邦内相を辞任する。2002年には統一ロシアの最高会議ビューロー(執行部)議長(党首)に選出された。2003年12月のロシア連邦下院選挙で統一ロシアは比例区で120議席・小選挙区で126議席を獲得して圧勝し、グルィズロフも再選される。選挙後に召集された国家院で議長に選出された。2004年11月27日に第5回統一ロシア党大会で党首である党最高会議ビューロー議長に再選された。その後統一ロシアは2007年12月のロシア連邦下院選挙で議席数をさらに伸ばし、全議席の6割超を獲得した。2008年5月7日にウラジーミル・プーチン首相が党首に就任したのに伴い、党首を退任する。 さらに2011年12月14日に下院議長を辞任した[1]。これは12月4日の2011年ロシア連邦下院選挙で与党の「統一ロシア」が大きく議席を減らしたことを受けての引責辞任とも報道された[2]

脚注

外部リンク

先代
ゲンナジー・セレズニョフ
ロシア下院議長
2003年 - 2011年 
次代
セルゲイ・ナルイシキン
先代
統一ロシア党首
2002年-2008年
次代
ウラジーミル・プーチン
先代
ウラジーミル・ルシャイロ
ロシア内務大臣
2001年-2003年
次代
ラシド・ヌルガリエフ