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「ウラジーミル・シチェルビツキー」の版間の差分

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[[1964年]]ブレジネフがソ連共産党書記長に就任すると[[1965年]]シチェルビツキーはウクライナ首相に復帰し、[[1971年]]ソ連共産党政治局員となり、ブレジネフの親しい協力者として台頭した。ウクライナ第一書記としては、前任者の[[ペトロ・シェレスト]]が[[民族主義]]に対して比較的穏健な立場を取ったのに対して、徹底したロシア化政策を取り、ウクライナ[[民族主義]]には否定的な立場を取った。ブレジネフを中心とするドニエプルペトロフスク派(ドニエプル・マフィア)の一員として政治局内に大きな地歩を占め、特に経済面に置いてソ連国内における[[ウクライナ]]の位置は重要なものとなった。[[1982年]]のブレジネフ死後、[[ユーリ・アンドロポフ]]、[[コンスタンティン・チェルネンコ]]両書記長の時代を経て、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権においてもウクライナ共産党第一書記の地位を保ったが、[[1986年]][[チェルノブイリ原子力発電所事故|チェルノブイリ原発事故]]において、事故の情報を隠蔽し事故直後に[[キエフ]]における[[メーデー]]行進を行わせるなどしたため、事故犠牲者の拡大につながった。ゴルバチョフは[[チョルノーブィリ|チェルノブイリ]]の事故を重く見て[[情報公開]]([[グラスノスチ]])を推進することとなる。
[[1964年]]ブレジネフがソ連共産党書記長に就任すると[[1965年]]シチェルビツキーはウクライナ首相に復帰し、[[1971年]]ソ連共産党政治局員となり、ブレジネフの親しい協力者として台頭した。ウクライナ第一書記としては、前任者の[[ペトロ・シェレスト]]が[[民族主義]]に対して比較的穏健な立場を取ったのに対して、徹底したロシア化政策を取り、ウクライナ[[民族主義]]には否定的な立場を取った。ブレジネフを中心とするドニエプルペトロフスク派(ドニエプル・マフィア)の一員として政治局内に大きな地歩を占め、特に経済面に置いてソ連国内における[[ウクライナ]]の位置は重要なものとなった。[[1982年]]のブレジネフ死後、[[ユーリ・アンドロポフ]]、[[コンスタンティン・チェルネンコ]]両書記長の時代を経て、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]政権においてもウクライナ共産党第一書記の地位を保ったが、[[1986年]][[チェルノブイリ原子力発電所事故|チェルノブイリ原発事故]]において、事故の情報を隠蔽し事故直後に[[キエフ]]における[[メーデー]]行進を行わせるなどしたため、事故犠牲者の拡大につながった。ゴルバチョフは[[チョルノーブィリ|チェルノブイリ]]の事故を重く見て[[情報公開]]([[グラスノスチ]])を推進することとなる。


[[ソ連崩壊]]とウクライナの独立を見ることなく、1990年2月17日、72歳で死去。死因については公表されていないが、[[自殺]]説が囁かれており、原因はチェルノブイリ原発事故後の自身の対応があるとされる。
[[ソビエト邦の崩壊]]とウクライナの独立を見ることなく、1990年2月17日、72歳で死去。死因については公表されていないが、[[自殺]]説が囁かれており、原因はチェルノブイリ原発事故後の自身の対応があるとされる。


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2020年12月25日 (金) 23:50時点における版

ウラジーミル・ワシリエヴィッチ・シチェルビツキー(ヴラヂーミル・ヴァスィーリイェヴィチ・シチェルビーツキイ;ロシア語:Владимир Васильевич Щербицкийヴラヂーミル・ヴァスィーリイェヴィチュ・シルビーツキイウクライナ語では、ヴォロドィームィル・ヴァスィーリョヴィチ・シュチェルブィーツィクィイ、ヴォロディーミル・ヴァシーリョヴィチ・シュチェルビーチキー;Володимир Васильович Щербицькийヴォロドィームィル・ヴァスィーリョヴィチュ・シュチェルブィーツィクィイ;Volodymyr Vasylyovych Shcherbytsky、1918年2月17日 - 1990年2月17日)は、ソビエト連邦政治家ソ連共産党政治局員(在任期間、1971年から1989年まで)、ウクライナ共産党第一書記(在任期間、1972年から1989年まで)としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国の指導者として君臨した。ウクライナ人

来歴・人物

レオニード・ブレジネフアンドレイ・キリレンコに次いでドニエプロペトロフスク州第一書記に就任した。その後ウクライナ共和国共産党書記を経て、1961年ウクライナ共和国閣僚会議議長(首相)となるが、ニキータ・フルシチョフの忌避を受けて1963年に再度ドニエプロペトロフスク州第一書記に降格された。

1964年ブレジネフがソ連共産党書記長に就任すると1965年シチェルビツキーはウクライナ首相に復帰し、1971年ソ連共産党政治局員となり、ブレジネフの親しい協力者として台頭した。ウクライナ第一書記としては、前任者のペトロ・シェレスト民族主義に対して比較的穏健な立場を取ったのに対して、徹底したロシア化政策を取り、ウクライナ民族主義には否定的な立場を取った。ブレジネフを中心とするドニエプルペトロフスク派(ドニエプル・マフィア)の一員として政治局内に大きな地歩を占め、特に経済面に置いてソ連国内におけるウクライナの位置は重要なものとなった。1982年のブレジネフ死後、ユーリ・アンドロポフコンスタンティン・チェルネンコ両書記長の時代を経て、ミハイル・ゴルバチョフ政権においてもウクライナ共産党第一書記の地位を保ったが、1986年チェルノブイリ原発事故において、事故の情報を隠蔽し事故直後にキエフにおけるメーデー行進を行わせるなどしたため、事故犠牲者の拡大につながった。ゴルバチョフはチェルノブイリの事故を重く見て情報公開グラスノスチ)を推進することとなる。

ソビエト連邦の崩壊とウクライナの独立を見ることなく、1990年2月17日、72歳で死去。死因については公表されていないが、自殺説が囁かれており、原因はチェルノブイリ原発事故後の自身の対応があるとされる。

先代
ペトロ・シェレスト
ウクライナ共産党第一書記
1972年 - 1989年
次代
ウラジーミル・イワシコ