「最上英子」の版間の差分
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[[1920年]]に[[万朝報]]記者だった[[最上政三]]と結婚。その後夫・政三は[[立憲民政党]]から代議士に当選し政界でのキャリアを積んでいったものの、戦後[[公職追放]]に遭う。英子は夫の代わりとして[[第22回衆議院議員総選挙|1946年の衆院選]]に[[日本進歩党]]公認で立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となる。 |
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その後所属党派を[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]に移すものの3選を目指した[[第24回衆議院議員総選挙|1949年の衆院選]]で落選し、政界復帰を狙った[[第2回参議院議員通常選挙|1950年参院選]]でも落選([[国民民主党 (日本 1950 |
その後所属党派を[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]に移すものの3選を目指した[[第24回衆議院議員総選挙|1949年の衆院選]]で落選し、政界復帰を狙った[[第2回参議院議員通常選挙|1950年参院選]]でも落選([[国民民主党 (日本 1950)|国民民主党]]公認)。[[改進党]]公認で出馬した[[第3回参議院議員通常選挙|1953年参院選]]で当選し、ようやく国政復帰を果たす。以後参院議員を2期、この間[[第1次岸内閣 (改造)|第1次岸改造内閣]]では女性初の[[郵政省|郵政]][[政務次官]]を務めた。議員在職中は[[売春防止法]]制定や[[特定郵便局]]整備に積極的に関わり、また[[市川房枝]]や[[平塚らいてう|平塚雷鳥]]に私淑して金をかけない理想選挙を貫き通した。 |
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[[第7回参議院議員通常選挙|1965年の参院選]]で落選し、程なく死去。 |
2020年12月26日 (土) 10:34時点における版
最上英子 もがみ ひでこ | |
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生年月日 | 1902年12月19日 |
出生地 |
群馬県群馬郡榛名町(現・高崎市) (長野県更級郡稲荷山町の生まれとする説もある) |
没年月日 | 1966年10月16日(63歳没) |
所属政党 |
日本進歩党→ 民主党→ 国民民主党→ 改進党→ 日本民主党→ 自由民主党 |
内閣 | 第1次岸改造内閣 |
在任期間 | 1957年(昭和32年)7月10日 - 1958年(昭和33年)6月12日 |
選挙区 | 群馬県選挙区 |
当選回数 | 2 |
在任期間 | 1953年 - 1965年 |
選挙区 | 群馬県選挙区→群馬3区 |
当選回数 | 2 |
在任期間 | 1946年 - 1949年 |
最上 英子(もがみ ひでこ、1902年12月19日 - 1966年10月16日)は、昭和時代の日本の政治家。衆議院議員・参議院議員。
略歴
1920年に万朝報記者だった最上政三と結婚。その後夫・政三は立憲民政党から代議士に当選し政界でのキャリアを積んでいったものの、戦後公職追放に遭う。英子は夫の代わりとして1946年の衆院選に日本進歩党公認で立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となる。
その後所属党派を民主党に移すものの3選を目指した1949年の衆院選で落選し、政界復帰を狙った1950年参院選でも落選(国民民主党公認)。改進党公認で出馬した1953年参院選で当選し、ようやく国政復帰を果たす。以後参院議員を2期、この間第1次岸改造内閣では女性初の郵政政務次官を務めた。議員在職中は売春防止法制定や特定郵便局整備に積極的に関わり、また市川房枝や平塚雷鳥に私淑して金をかけない理想選挙を貫き通した。
1965年の参院選で落選し、程なく死去。
なお、夫・政三との間には実子が無く、自分の秘書を務めていた甥の進(妹・佐藤俊子の長男)を養子とした。進も政三・英子夫妻同様に政界に入り、参議院議員となる。また進の弟・佐藤國雄も群馬県議会議員を務めた。
参議院での主な所属委員会
- 逓信委員会委員
- 予算委員会委員
- 運輸委員会委員
- 文教委員会委員
- 社会労働委員会委員
- 議院運営委員会委員
関連文献
- 「日本の『創造力』(第14巻)」村松貞次郎