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[[1947年]](昭和22年)第六高等学校校長時代、進駐軍が撤収して空き家となった岡山の[[第17師団 (日本軍)|陸軍第17師団]]跡地22万坪を六高生250名を動員して確保した。これが現在の[[岡山大学]]津島キャンパスとなっている。その他にも多くの功績を残し岡山大学の基礎を築く<ref>{{Cite web|url=https://www.okayama-u.ac.jp/up_load_files/soumu-pdf/ityou_tokusyu51.pdf|title=岡山大学広報誌「いちょう並木」51号p.3~4|accessdate=2020/3/15|publisher=岡山大学}}</ref>。 |
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戦後、昭和高商から改称した大阪経済専門学校が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]占領下の[[学制改革]]で、[[旧制専門学校]]から[[新制大学]]への昇格が成るか否かの際に、黒正らが当時の[[ |
戦後、昭和高商から改称した大阪経済専門学校が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]占領下の[[学制改革]]で、[[旧制専門学校]]から[[新制大学]]への昇格が成るか否かの際に、黒正らが当時の[[文部大臣]]に願い昇格を果たし、現在の大阪経済大学となる([[1949年]])。同年、同大学初代学長に就任するも直後の9月に急逝した。55歳没<ref name="kotobank2" />。 |
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大阪経済大学、岡山大学、二つの新制大学の発足に力を尽くした。 |
大阪経済大学、岡山大学、二つの新制大学の発足に力を尽くした。 |
2020年12月30日 (水) 09:01時点における版
黒正 巌(こくしょう いわお、1895年(明治28年)1月2日[1][2] - 1949年(昭和24年)9月3日[1][2])は日本の経済学者、農業史家[3]、農村社会史学者[3]。専門は経済史、経済地理学。経済学博士[4]。岡山県出身。大阪経済大学初代学長。
来歴
1895年(明治28年)1月2日岡山県上道郡可知村(現在の岡山市東区)生まれ[1]。可知尋常小学校、上道高等小学校を経て15歳で岡山県立岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に入学し、二里の道を歩いて通い20歳で卒業した。
第六高等学校に入学、ドイツ語や英語などを習得し、他に歴史や経済史を研究した。22歳の時に黒正家の養子となる。翌1917年(大正6年)六高を卒業し、京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学。2年後、分科大学制の変更に伴い京都帝国大学経済学部に移る。翌1920年に同大学を卒業[5]し大学院に進学[6]、日本経済史を専攻する。また、一般経済史や経済地理学をも研究した。この頃に朝鮮や満州を視察している。
1922年、大学院を退学し、28歳で同大学の経済学部講師を嘱託された。岡山藩の経済史の研究に没頭し次第に他藩との比較研究を行うようになる。各藩の自然的・社会的・歴史的な特異性を知り、地理的な比較研究も必要であることを痛感し、経済史学とともに経済地理学を研究するようになる[7]。
1923年、29歳の時に『経済史論考』を刊行し、その中で経済史学と経済地理学とは密接・不可分の関係にあることを強調している。文部省在外研究員を命じられ、農史研究のためイギリス・ドイツ・フランス・アメリカに満2年間(1925年)留学する。ドイツのハイデルベルク大学でアルフレート・ヴェーバーの講義に啓発される。彼の考えは、1931年刊行の『日本経済地理学』に述べられている[8]。
人物
京都帝国大学教授、昭和高等商業学校校長、第六高等学校校長を経て大阪経済大学初代学長。農業経済史の研究で著名であり、百姓一揆の研究やマックス・ヴェーバーの社会経済史を紹介したことで知られる。 祇園から大学に通う豪傑でもあった。
1933年(昭和8年)京都帝国大学の隣接地に本庄栄治郎らと共に日本経済史研究所を設立した。当研究所は、現在は大阪経済大学の付属機関であり、日本で数少ない日本経済史の研究機関となっている。
大阪経済大学は前身の浪華高等商業学校時代に学園紛争が起こり、当時の文部省がこれを憂い、大阪の政界・財界・学界の強い要請を受け、当時京都帝国大学の教授であった黒正らが昭和高等商業学校として再建(1935年)し、同校の初代校長に就任した。
1947年(昭和22年)第六高等学校校長時代、進駐軍が撤収して空き家となった岡山の陸軍第17師団跡地22万坪を六高生250名を動員して確保した。これが現在の岡山大学津島キャンパスとなっている。その他にも多くの功績を残し岡山大学の基礎を築く[9]。
戦後、昭和高商から改称した大阪経済専門学校がGHQ占領下の学制改革で、旧制専門学校から新制大学への昇格が成るか否かの際に、黒正らが当時の文部大臣に願い昇格を果たし、現在の大阪経済大学となる(1949年)。同年、同大学初代学長に就任するも直後の9月に急逝した。55歳没[2]。
大阪経済大学、岡山大学、二つの新制大学の発足に力を尽くした。
朝鮮の地方経済は2000年間進歩の形跡が見られないという植民史観を唱えて、日本の侵略を正当化した論者として現代の韓国の研究者から指弾されている[10]。
また、大阪朝日新聞に寄稿した記事では、「ナチスが国民要求を直接に充足することを国民経済の根本原則とし、国民を利子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ない」[11]と述べている。
作家・近松秋江は妹の夫の叔父に当たり、おじさんと呼んで親しかった[12]。
顕彰
大阪経済大学日本経済史研究所が主催する黒正の名前を冠した公開講座『黒正塾』が多彩なテーマに亘って開講されており[13] 、同大学の大隅キャンパス内に黒正の銅像も設置されている。岡山大学でも毎年卒業する学生の中から、学業および人物の優れた者に授与される『黒正賞』が設けられている[14]。
著書
- 『経済史論考』(岩波書店/1923年)
- 『封建社会の統制と闘争』(改造社/1928年)
- 『百姓一揆の研究』[15](岩波書店/1928年)
- 『百姓一揆史談』(日本評論社/1929年)
- 『日本経済地理学』(岩波書店/1931年)
- 『日本経済史』(国史講座刊行会/1933年)
- 『日本経済史』(日本評論社・新経済学全集・第9巻/1940年)
- 『経済地理学原論』(日本評論社/1941年)など
脚注
- ^ a b c 20世紀日本人名事典『黒正 巌』 - コトバンク
- ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『黒正巌』 - コトバンク
- ^ a b 世界大百科事典 第2版『黒正巌』 - コトバンク
- ^ “学位大系博士録. 昭和14年版 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2019年12月16日閲覧。
- ^ 『京都帝国大学一覧 自大正9年 至大正11年』京都帝国大学、1921年、p.492
- ^ 『官報』第2399号、大正9年7月31日、p.708
- ^ 岡田俊裕 2013, p. 15
- ^ 岡田俊裕 2013, p. 16
- ^ “岡山大学広報誌「いちょう並木」51号p.3~4”. 岡山大学. 2020年3月15日閲覧。
- ^ 李 2005, p. 251
- ^ “京都帝大教授経済学博士 黒正巌労働に歓喜する"復興ドイツ"の青年/労働に歓喜するドイツ青年 (1~[4)、 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 雑(5-092) 大阪朝日新聞 1936.6.7-1936.6.11 (昭和11)]”. 神戸大学附属図書館. 2020年8月24日閲覧。
- ^ 『近松秋江全集』第二巻、解説10p
- ^ “大阪経済大学 公開講座(黒正塾)”. www.osaka-ue.ac.jp. 2019年12月9日閲覧。
- ^ 岡山大学. “「黒正 巌」先生と黒正賞”. 国立大学法人 岡山大学. 2019年12月5日閲覧。
- ^ 黒正, 1895-1949, 巌 (1929). 百姓一揆の研究 .
参考文献
- 岡田俊裕『日本地理学人物事典[近代編2]』原書房、2013年。ISBN 978-4-562-04711-6。
- 李萬烈『近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―』日韓歴史共同研究報告書(第1期)、2005年6月 。
関連項目
- 日本の地理学者の一覧