「イギリス統治下のビルマ」の版間の差分
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{{See also|ミャンマーの歴史}} |
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{{翻訳中途|[[:en:British rule in Burma]]|date=2010年6月}} |
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|変遷年月日1 = 1824年3月5日 |
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|変遷4 = 英領インドから分離 |
|変遷4 = 英領インドから分離 |
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|変遷6 = イギリスより独立 |
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{{ビルマの歴史}} |
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'''イギリスによるビルマ支配'''('''British rule in Burma''')は、[[1824年]]から[[1948年]]まで続いた。三次にわたる[[英緬戦争]]によって[[イギリス領インド帝国]]の一部のビルマ州となり、その後インドから分離した単体の植民地となった後で、最終的に独立を果たした。イギリス統治下のビルマは英領ビルマ'''British Burma'''として知られている。 |
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{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}([[1824年]]-[[1826年]])におけるイギリスの勝利によって、[[アラカン]](現[[ラカイン州]])やテナセリム(現[[タニンダーリ地方域]])などいくつかの地域が併合された。[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}により[[下ビルマ]]が併合された。併合された地域は、1862年にイギリス領インドの小州(minor province){{Efn|英領インドの直轄領は知事Governor-in-Councilまたは副知事Lieutenant-Governorの治める主要州Major provincesと、政務長官Chief Commissionerの治めるMinor provinceに分けられる<ref name=igi-iv-p29/>。ただしこの区分は絶対的な物ではなく、主要州でも政務長官が治めるものもあった。}}となった<ref name=igi-iv-p29>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. IV|1908|p=29}}</ref>。 |
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'''イギリス統治下のビルマ'''(イギリスとうちかのビルマ)は、[[1824年]]から[[1948年]]まで、三次にわたる[[英緬戦争]]によって[[イギリス領インド帝国]]の一部のビルマ州となり、その後インドから分離した単体の植民地となった後で、最終的に独立を果たした。イギリス統治下のビルマは英領ビルマ'''British Burma'''として知られている。 |
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[[1885年]]の{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}の後には[[上ビルマ]]が併合された。[[1897年]]に、[[イギリス領インド帝国]]の州としてビルマ州({{lang|en|the province of Burma}})が創設され、他の主要州と同様、[[副知事]]により統治されることになった<ref name=igi-iv-p29/>。[[1935年]]の{{仮リンク|新インド統治法|en|Government of India Act 1935}}の成立により、この状態は[[1937年]]に終わり、以降は[[ビルマ統治法]]の下、イギリス本国の{{仮リンク|ビルマ省|en|Burma Office}}と[[インド大臣|インド・ビルマ大臣]]({{lang|en|Secretary of State for India and Burma}})により、インドとは別個に支配されることになった。イギリスによる支配は[[第二次世界大戦]]の勃発と[[日本占領時期のビルマ|日本軍がビルマの大部分を占領した]]ことによって中断された。1948年1月4日、ビルマはイギリス支配から独立を果たした。 |
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{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}([[1824年]]-[[1826年]])におけるイギリスの勝利によって、[[アラカン]](現[[ラカイン州]])やテナセリム(現[[タニンダーリ管区]])などいくつかの地域が併合された。[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}により[[下ビルマ]]が併合された。併合された地域は、1862年にイギリス領インドの小州(minor province)<ref group="注釈">英領インドの直轄領は知事Governor-in-Councilまたは副知事Lieutenant-Governorの治める主要州Major provincesと、政務長官Chief Commissionerの治めるMinor provinceに分けられる。ただしこの区分は絶対的な物ではなく、主要州でも政務長官が治めるものもあった。</ref>に指定された<ref name=igi-iv-p29>{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. IV|1908|p=29}}</ref>。 |
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ビルマは時に「[[スコットランド]]植民地」と呼ばれることがある。[[スコットランド人]]がビルマの植民地化と支配に重要な役割を果たしたからである。その中でも最も著名な一人が{{仮リンク|ジェームス・ジョージ・スコット|en|James George Scott|label=サー・ジェームス・スコット}}である。 |
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[[1885年]]の{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}の後には[[上ビルマ]]が併合された。[[1897年]]に、[[イギリス領インド帝国]]の一州として[[ビルマ州]]({{lang|en|the province of Burma}})が創設され、他の州と同様、[[副知事]]により統治されることになった<ref name=igi-iv-p29/>。[[1935年]]の{{仮リンク|新インド統治法|en|Government of India Act 1935}}の成立により、この状態は[[1937年]]に終わり、以降は[[ビルマ統治法]]の下、イギリス本国の{{仮リンク|ビルマ省|en|Burma Office}}と[[インド大臣|インド・ビルマ大臣]]({{lang|en|Secretary of State for India and Burma}})により、インドとは別個に支配されることになった。イギリスによる支配は[[第二次世界大戦]]の勃発と[[日本占領時期のビルマ|日本軍がビルマの大部分を占領した]]ことによって中断された。1948年1月4日、ビルマはイギリス支配からの独立を獲得した。 |
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== イギリス征服以前 == |
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ビルマは時に[[スコットランド]]の植民地であったと揶揄されることがある。これは多くの[[スコットランド人]]がビルマの植民地支配に重要な役割を果たしたからである。例えば{{仮リンク|ジェームス・ジョージ・スコット|en|James George Scott|label=サー・ジェームス・ジョージ・スコット}}や{{仮リンク|イラワディ・フロティラ社|en|Irrawaddy Flotilla Company}}を挙げることができる。 |
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その地理的位置ゆえに、中国と[[インド]]間の[[交易路]]がこの国を通っていた。ビルマは交易を通して富を得ていたが、一方では自給自足的な農業が依然として経済の基礎となっていた。インドの商人たちは沿岸と河川(イラワジ川([[エーヤワディー川]])が特筆される)を通ってビルマ人の住む土地の多くに足を運び、インド文化は国の隅々に持ち込まれ、その影響は今なお残っている{{Efn|「ビルマにとっては,陸路によって中国と交通するよりも,海路によってインドと連絡することのほうが遙かに容易であったのである。それはビルマ文化に対するインドの数百年にもわたる強い影響と,中国文化のごく僅かな影響をくらべてみればよくわかる」<ref>{{Cite book|和書|title=華僑の動向: 東南アジア華僑の実態と各国の華僑政策を中心として|publisher=外務省領事移住部査証室|year=1981|page=163|author=河部利夫|url=https://books.google.co.jp/books?id=_TrBf9lSw9QC&q=%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E6%96%87%E5%8C%96%E3%80%80%E5%BD%B1%E9%9F%BF&dq=%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E6%96%87%E5%8C%96%E3%80%80%E5%BD%B1%E9%9F%BF&hl=ja&newbks=1&newbks_redir=0&sa=X&ved=2ahUKEwjb38vzxbTwAhUX7WEKHRcdBho4ChDoATAAegQIABAC|accessdate=2021-05-06}}</ref>}}。ビルマは大々的に仏教を取り入れた東南アジアの最初の国のひとつであり、英国統治下でも人口の大半にとっての公的信仰だった{{Efn|ビルマおよび現在のミャンマーにおけるすべての主要宗教については{{仮リンク|ミャンマーの宗教|en|Religion in Myanmar}}を参照。}}。 |
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イギリスによる征服と植民地化の以前、[[コンバウン王朝]]が確立された中央集権化された支配を行っていた。王はすべての事柄についての最終的な決定権を持つが、新たな法律は作れず、勅令を出せるだけだった。国には法典{{仮リンク|ダムマタッ|en|Dhammasattha}}{{Efn|[[ダルマ・シャーストラ]]の流れをくむ民法典。「ビルマの代表的法源であるダムマタッの第1の特徴は,それが基本的に土着の慣習法を収録した世俗法である点にある」{{Sfn|奥平|1985|p=126}}}}と中央政府{{仮リンク|フルッタフ|en|Pyidaungsu_Hluttaw}}があり、政府は財政・司法・行政の三部門に分かれていた。 |
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理論上、王は政府の全権の源だったが、実際には王のいかなる命令も、それを政府が受け入れることではじめて実行された。つまり政府は王権のブレーキ役となっていた。国はさらに諸州に分かれており、それぞれ政府に任命された知事に治められていた。村々は王によって認められた世襲の領主達が治めていた<ref name="Encyclopædia Britannica"/>。 |
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== イギリスによる征服 == |
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[[ファイル:Battle_of_rangoon.jpg|左|サムネイル|[[ラングーン]]の浜辺に押し寄せるイギリス海軍部隊。1824年5月]] |
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ビルマとイギリスの紛争の発端はコンバウン朝が[[アッサム州]]のアラカンまでの拡大を決定したことで、イギリスのインドにおける拠点である[[チッタゴン]]に近づいたためだった。これが{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}(1824年~1826年)を招いた。1824年にイギリスは大規模な海上輸送による上陸作戦を行い、[[ヤンゴン|ラングーン]]を無血占領した。 |
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エーヤワディー川のデルタ地に位置する{{仮リンク|ダニュビュ|en|Danubyu}}で行われた戦いで、ビルマ軍の将軍{{仮リンク|マハ・バンドゥラ|en|Maha Bandula}}は戦死し、彼の軍も敗走した。ビルマはアッサムおよび他の北部諸州を割譲させられた<ref name="World Book Encyclopedia">World Book Encyclopedia</ref>。 |
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1826年、{{仮リンク|ヤンダボ条約|en|Treaty of Yandabo}}によって、第一次英緬戦争は公式に終了した。この戦争は[[英領インド]]の歴史でも、最も長く最も費用のかかった戦争だった。ヨーロッパ兵とインド兵合わせて1万5千人が亡くなっており、さらに、ビルマの兵士と民間人の犠牲者数は不明である<ref>{{cite book|title=The Making of Modern Burma|url=https://archive.org/details/makingmodernburm00myin|url-access=limited|pages=[https://archive.org/details/makingmodernburm00myin/page/n27 18]|author=Thant Myint-U|year=2001|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-79914-7}}</ref>。 |
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この戦役のイギリス側の費用は500万から1300万スターリングポンド(2020年の[[アメリカ合衆国ドル|米ドル]]換算で180億から480億ドルに相当)という巨額なものだった<ref name="rlf-113">{{cite book|title=The River of Lost Footsteps—Histories of Burma|pages=113, 125–127|author=Thant Myint-U|year=2006|publisher=Farrar, Straus and Giroux|isbn=978-0-374-16342-6}}</ref>。このため、英領インドでは1833年に経済危機が起きている<ref name="webster">{{cite book|title=Gentlemen Capitalists: British Imperialism in South East Asia, 1770–1890|first=Anthony|last=Webster|publisher=I.B.Tauris|year=1998|pages=142–145|isbn=978-1-86064-171-8}}</ref>。 |
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1852年、{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}がイギリスによって引き起こされた。イギリスが獲得したかった目標は大きくふたつ、[[コルカタ|カルカッタ]]と[[シンガポール]]の中間に位置する港と、[[下ビルマ]]に存在する[[チーク]]林だった。25年の平和は破られ、イギリスが下ビルマ全域を占領するまで戦争は続いた。イギリスは勝利し、新たに占領した領土に存在する{{仮リンク|ミャンマーの経済|en|Economy of Myanmar#British Burma (1885–1948)|label=経済的利益}}、チークや石油やルビーといった産物を手に入れた。 |
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{{仮リンク|ミンドン王|en|Mindon Min}}は占領されずに残った[[上ビルマ]]で、帝国主義に対応しようと努力していた。王は政治体制を改革するとともに、外国に便益を図ることで生き残りを図った。しかし、イギリスは1885年11月に{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}を開始し、2週間足らずで決着は付いた。イギリス政府は戦争を正当化するため、独立ビルマ最後の王となった[[ティーボー]]が暴君であり、[[フランス植民地帝国|フランス勢力]]をビルマに引き込む陰謀を企てていたと主張した。イギリス軍は1885年11月28日に[[マンダレー]]に入城した。こうして3回にわたる戦争で段階的に国の各地域を獲得したイギリスは、現在のミャンマーのすべての地域を占領して、1886年1月1日に[[イギリス領インド帝国]]の一州とした<ref name="Encyclopædia Britannica" /><ref name="DIB">{{cite book|title=Dictionary of Indian Biography|url=https://books.google.com/books?id=Y8AKI2nqPBQC|publisher=Ardent Media|year=1906|id=GGKEY:BDL52T227UN|page=82}}</ref>。 |
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[[ファイル:British_forces_arrival_mandalay1885.jpg|左|サムネイル|1885年11月28日、マンダレーに到着したイギリス軍。[[第三次英緬戦争]]の終わり。撮影:ウィロビー・ウォレス・フーパー(1837–1912)]] |
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== 初期のイギリス統治 == |
== 初期のイギリス統治 == |
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[[ファイル:Districtcourts_publicoffices_rangoon1868.jpg|左|サムネイル|地方裁判所と役場。ラングーンのストランド・ロード。1868年、J. Jackson撮影]] |
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[[ファイル:Kingthibawbeingsenttoexile.jpg|左|サムネイル|インドに追放される[[ティーボー|ティーボー王]]を蒸気船に乗せようとしているイギリス官吏。王は二度とビルマに戻れなかった。]] |
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{{仮リンク|ビルマの抵抗運動 (1885年-1995年)|en|Burmese resistance movement 1885–95|label=ビルマ人の武力による抵抗}}は何年間も散発的に続いた。戦争それ自体はわずか数週間で終わったにもかかわらず、ビルマ北部では1890年まで抵抗が続いた。ついにイギリスはゲリラを全面的に押さえ込む最後の手段として、村々を組織的に破壊するとともに、新しい役人を配置していった。 |
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伝統的なビルマ社会は、君主制の廃止とそれに続いた政教分離によって激変した。ヨーロッパ人とビルマ人の間の結婚は、植民地社会で支配的な地位を占めた{{仮リンク|アングロ・ビルマ|en|Anglo-Burmese people}}として知られる[[ユーラシアン|欧亜混血人]]のコミュニティを生み出した。彼らの階層は英国人の下、ビルマ人の上に位置した。 |
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イギリスはビルマ全土を占領したが、ビルマが中国の[[朝貢国]]だったことから、中国を刺激しないようにイギリスは北京への朝貢を続けた。しかしこれは、無意識に中国の増長を招くことになった<ref>{{cite book|url=https://archive.org/details/chinahermysterie00stearich|quote=burma was a tributary state of china british forward tribute peking.|title=China and her mysteries|author=Alfred Stead|year=1901|publisher=Hood, Douglas, & Howard|location=LONDON|page=[https://archive.org/details/chinahermysterie00stearich/page/100 100]|accessdate=2021-05-06|language=en}}(Original from the University of California)</ref>。1886年に英中間で行われたビルマ会議で、中国は英国による上ビルマの占領を認め、英国は10年ごとに北京への朝貢を続けることで合意した<ref>{{cite book|author=William Woodville Rockhill|url=https://archive.org/details/chinasintercour01rockgoog|title=China's intercourse with Korea from the XVth century to 1895|publisher=Luzac & Co.|year=1905|location=LONDON|page=[https://archive.org/details/chinasintercour01rockgoog/page/n11 5]|quote=tribute china.|accessdate=2021-05-06|language=en}}(Colonial period Korea ; WWC-5)(Original from the University of California)</ref>。 |
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=== 植民地統治体制 === |
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{{植民地時代のインド}} |
{{植民地時代のインド}} |
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イギリスは直接支配によって新しい州を支配し、以前の政府構造に多くの変更を加えた。君主制は廃止され、[[ティーボー]]王は追放され、政教分離がなされた。仏教の僧侶は君主制の支援に強く依存していたため、これは大きな痛手となった。同時に、君主制は僧侶たちによって正当性を与えられ、仏教の代表としての僧侶は国民に国政をより深く理解する機会を与えていた<ref name="Encyclopædia Britannica">Encyclopædia Britannica</ref>。 |
イギリスは直接支配によって新しい州を支配し、以前の政府構造に多くの変更を加えた。君主制は廃止され、[[ティーボー]]王は追放され、政教分離がなされた。仏教の僧侶は君主制の支援に強く依存していたため、これは大きな痛手となった。同時に、君主制は僧侶たちによって正当性を与えられ、仏教の代表としての僧侶は国民に国政をより深く理解する機会を与えていた<ref name="Encyclopædia Britannica">Encyclopædia Britannica</ref>。 |
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イギリスはまた世俗的な教育システムを施行した。 新しい植民地の支配権を与えられたインドの植民地政府は、英語とビルマ語の両方で教える世俗的な学校を設立し、同時にキリスト教の宣教師がビルマに来訪して学校を設立することも奨励した。どちらのタイプの学校も、仏教と伝統的なビルマ文化からは反発を招く物だった<ref name="Encyclopædia Britannica"/>。 |
イギリスはまた世俗的な教育システムを施行した。 新しい植民地の支配権を与えられたインドの植民地政府は、英語とビルマ語の両方で教える世俗的な学校を設立し、同時にキリスト教の宣教師がビルマに来訪して学校を設立することも奨励した。どちらのタイプの学校も、仏教と伝統的なビルマ文化からは反発を招く物だった<ref name="Encyclopædia Britannica"/>。 |
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== 行政区画 == |
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1885年以降、英領ビルマ州の行政区画は次のようなものだった。 |
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# ビルマ省(Ministerial Burma、ビルマ本土) |
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# [[タニンダーリ管区]] ([[:en:Taungoo District|Toungoo]]、[[:en:Thaton District|Thaton]]、[[チャイッカミ|Amherst]]、[[サルウィン川]]、[[:en:Dawei District|Tavoy]]、[[ミェイク|Mergui Districts]]) |
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# [[ラカイン州|アラカン管区]] ([[:en:Sittwe District|Akyab]], 北アラカンまたはアラカン丘陵地帯, [[:en:Kyaukpyu District|Kyaukpyu]] と [[:en:Thandwe District|Sandoway Districts]]) |
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# [[バゴー管区]] ([[ヤンゴン|ラングーン市]], Hanthawaddy, [[:en:Bago District|Pegu]]、[[:en:Tharrawaddy District|Tharrawaddy]] 、[[:en:Pyay District|Prome Districts]]) |
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# [[エーヤワディ管区]] ([[:en:Pathein District|Bassein]]、[[:en:Hinthada District|Henzada]]、[[:en:Thayet District|Thayetmyo]]、[[:en:Ma-ubin District|Maubin]]、[[:en:Myaungmya District|Myaungmya]] 、[[:en:Pyapon District|Pyapon Districts]]) |
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# [[:en:Scheduled Areas]] (辺境地域) |
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# [[シャン州]] |
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# Pakokku Chin Hills |
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# [[カチン州]] |
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「辺境地域 Frontier Areas」は「除外地域 Excluded Areas」または「付則地域 Scheduled Areas」としても知られ、現在の[[ミャンマーの行政区画]]のうちの「州」の大部分を構成している。それらは英領ビルマ辺境局(Burma Frontier Service)によって別途管理され、後になってビルマ本土に統合されて現在に至っている。辺境地域には、{{仮リンク|チン族|en|Chin people}}、[[シャン族]]、[[カチン族]](チンポー族)、[[カレン族]]などの少数民族が住んでいた。 |
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1931年のビルマには9管区(division)があり、それがさらに多数の県(district)に分かれていた<ref name="igi-xxvi">{{Harvnb|Imperial Gazetteer of India vol. XXVI|1931}}</ref>。 |
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# [[ラカイン州|アラカン管区]] ([[シットウェ|アキャブ]]、[[マウンドー|アラカン丘陵]]、[[チャウピュー]]と[[サンドウェ]]) |
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# [[マグウェ地方域|ミンブー管区]] ( [[マグウェ]]、[[ミンブー]]、 {{仮リンク|タイェッ|en|Thayet}} |
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# [[マンダレー管区]] (({{仮リンク|チェウセ|en|Kyaukse}}, [[マンダレー]]、[[メイッティーラ]]、{{仮リンク|ミンヂャン|en|Myingyan}}) |
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# [[タニンダーリ管区]] ([[タウングー|トングー]]、[[タトン]]、[[チャイッカミ|アムハースト]]、[[サルウィン川|サルウィン]]、[[ダウェイ|タヴォイ]]、[[ミェイク|メルギー]]) |
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# [[バゴー地方域|ペグー管区]] ([[ヤンゴン|ラングーン市]]、[[バゴー|ハンターワディー]]、[[バゴー|ペグー]]、{{仮リンク|ターラーワディー|en|Tharrawaddy, Myanmar}}、[[ピイ|プローム]]) |
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# [[エーヤワディ地方域|イラワジ管区]] ([[パテイン|バセイン]]、[[ヘンザダ]]、[[マウビン]]、[[ミャンミャ]]、[[ピャーポン]]) |
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# [[ザガイン管区]] ([[バモー]]、[[モンユワ|下チンドウィン]], {{仮リンク|モーライク|en|Mawlaik|label=上チンドウィン}}, {{仮リンク|カタ (ビルマ)|en|Katha, Burma|label=カタ}}, [[ミッチーナー|ミイトキーナ]]、[[サガイン]], the [[フーコン渓谷]]、三角[[チンポー族|原住民地区]]) |
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# [[シャン連合州]] (北シャン、東シャン、中央シャン、{{仮リンク|メイラト|en|Myelat}}、[[カレン族|カレン]]、[[チャイントン|ケントゥン]]、[[ニャウンシェ|ヤウンシェ]]) |
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# [[パコック|パコック丘陵地帯]] ([[チン州|チン丘陵]], [[マニプル州|マニプル]]、[[ミゾラム州|ルシャイ丘陵]] , [[パコック]] , {{仮リンク|カチャル|en|Cachar}}、{{仮リンク|ジャインティア丘陵地区|en|Jaintia Hills district|label=ジャインティア丘陵}} |
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[[ファイル:Burma_Province_1931.png|サムネイル|1948年の英領ビルマ州の行政地図]] |
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=== 経済 === |
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[[ファイル:Vegetable_stand_madraslancer_mandalay1886.jpg|右|サムネイル|300x300ピクセル| |
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1886年1月、[[マンダレー]]のMadras Lancer(マドラス騎兵?) Linesの道路横の野菜売りの屋台。撮影:ウィロビー・ウォレス・フーパー(1837–1912)]] |
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伝統的なビルマ経済では、一つの{{仮リンク|分配 (経済学)|en|Distribution (economics)|label=再分配}}として、最重要ないくつかの商品の価格が国によって定められていた。 人口の大多数にとって、交易は自給自足農業ほど重要ではなかった。しかし、インドから中国への主要な交易路上に位置していたことから、この国は外国貿易の促進によって相当な量の金銭を得ていた。イギリス支配によって、ビルマ経済は世界市場に結びつけられ、強制的に植民地的な輸出経済の一部とされた<ref name="Encyclopædia Britannica" />。 |
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ビルマの併合は、経済成長の新時代をもたらした。社会の経済的性質も劇的に変化した。イギリス人はイラワジ川デルタ周辺の肥沃な土地を利用し始め、その地域の密集した[[マングローブ]]林を一掃した。特に1869年に[[スエズ運河]]が建設された後、ヨーロッパで需要が高かったコメが主な輸出品となった。コメの生産を増やすために、多くのビルマ人が北部の中心部からデルタ地帯に移住したことで、人口の中心が移動し、富と権力の基盤をも変えた<ref name="Encyclopædia Britannica" />。 |
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ビルマの農民に対して、英系銀行は[[不動産ローン]]を与えなかった。そこで彼らは耕作のための新しい土地を準備するため、{{仮リンク|チェティア|en|chettiars}}と呼ばれるインド系金貸しから高金利で借り入れた。チェティアたちは、借り手が債務不履行に陥った場合はすぐに差し押さえを行った{{Efn|「英領期には年間14万人から42万人の範囲でインド系の人々が大量に移民としてビルマに流入した。それによって1931年までにラングーンの人口の過半数はインド系で占められるに至った。また、インド系の中には金融業を営むカースト集団チェティアがいて、彼らがビルマの農民に金を貸し、返済できない場合は担保の土地を取り上げ、不在地主化していった『事実』がある」<ref>{{Cite web|url=http://peacebuilding.asia/%E5%9B%BD%E7%B1%8D%E6%B3%95%E3%81%AB%E8%B1%A1%E5%BE%B4%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%EF%BC%88%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8E%92%E4%BB%96/|title=国籍法に象徴されるビルマ(ミャンマー)の排他的ナショナリズム|accessdate=2021-04-28|publisher=Asia Peacebuilding Initiatives|author=根本 敬|date=2014-01-24|language=ja}}</ref>}}。 |
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何千何万というインド人労働者がビルマに移動して({{仮リンク|ビルマ・インド人|en|Burmese Indians}})、より低賃金で働く意志を示し、ビルマ人農民をすぐに追い出した。ブリタニカ百科事典は次のように記述している: |
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<blockquote>「ビルマの村人は、生業を失い社会的な居場所を失ったことで、時には些細な窃盗や強盗行為に手を出すこともあった。これらの行為を見たイギリス人は、彼らの怠惰で無規律な性質の故だと性急に決めつけた。ビルマ社会の機能不全のレベルは、殺人発生件数の劇的な増加によって明らかになった<ref>{{Cite web|url=https://www.britannica.com/place/Myanmar|title=Myanmar - The initial impact of colonialism|website=Encyclopedia Britannica|language=en|access-date=2019-12-17}}</ref>。</blockquote> |
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経済の急速な成長とともに、イラワジ流域全体に鉄道が建設され、何百隻もの蒸気船が川を航行するようになり、ある程度の工業化が起きた。しかし、これらの輸送手段はすべてイギリス人が所有していた。貿易収支は英領ビルマに有利なものだったが、社会が根本的に変化したため、急速に成長する経済から利益を得ることができる人は多くなかった<ref name="Encyclopædia Britannica" />。 |
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ビルマの公務員は主に英国系ビルマ人とインド人によって占められた。ビルマ民族は軍からほぼ完全に除外された。軍は主にインド人、英国系ビルマ人、カレン族およびその他の少数民族グループらが勤務した。1887年にはイギリスによってビルマ総合病院がラングーンに設立された<ref>Service record held in Army Medical Service Museum, Aldershot, page 145, return no 5155.</ref>国は繁栄したが、ビルマの人々はそれに見合う報酬をほとんど得られなかった([[ジョージ・オーウェル]]は小説[[ビルマの日々]]で、当時のビルマの英国人をフィクションの形で詳述している)。あるイギリスの官吏による、1941年のビルマの人々の生活状況の記述は、ビルマの窮乏を記録している。 |
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<blockquote>国外の地主の支配と、国外の金融業者の仕業で、国の資源は多くが輸出に振り向けられるようになった。農業従事者たちと国全体は次第に貧困に追い込まれていった……。農民は事実としてより貧しくなり、失業者は増加した……。ビルマ社会の崩壊は、そこに属する人々の心をも荒廃させ、貧困と失業の拡大は犯罪の大幅な増加を引き起こしている<ref>{{Cite journal|last1=Chew|first1=Ernest|year=1969|title=The Withdrawal of the Last British Residency from Upper Burma in 1879|journal=Journal of Southeast Asian History|volume=10|issue=2|pages=253–278|doi=10.1017/S0217781100004403|jstor=20067745}}</ref>。</blockquote> |
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== 民族主義運動 == |
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[[ファイル:Yangon_Rangoon_and_Environ_map_1911.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|ラングーンと周辺の地図。1911年]] |
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世紀の変わり目までに、植民地当局によって宗教団体が許可されたため、[[キリスト教青年会]](YMCA)をモデルにした{{仮リンク|仏教青年会|en|Young Men's Buddhist Association (Burma)}}(YMBA)を拠り所として民族主義運動は形になり始めた。これは後に{{仮リンク|ビルマ諸団体総評議会|en|General Council of Burmese Associations}}(GCBA)<ref>{{Cite book|url=https://books.google.co.jp/books?id=VsAYEAAAQBAJ&lpg=PP21&ots=k9_HrcHaEO&dq=General%20Council%20of%20Burmese%20Associations%E3%80%80%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E&hl=ja&pg=PP21#v=onepage&q=General%20Council%20of%20Burmese%20Associations%E3%80%80%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E&f=false|title=ミャンマーの黎明: 国際関係と内発的変革の現代史|publisher=彩流社|accessdate=2021-04-25|author=津守 滋|year=2014|page=21|language=ja}}</ref>に取って代わられた。GCBAはビルマ本土各地の村々に出現した''Wunthanu athin''(民族諸団体)と関連していた<ref name="ms">{{cite book|author=Martin Smith|year=1991|title=Burma – Insurgency and the Politics of Ethnicity|publisher=Zed Books|location=London and New Jersey|pages=49, 91, 50, 53, 54, 56, 57, 58–59, 60, 61, 60, 66, 65, 68, 69, 77, 78, 64, 70, 103, 92, 120, 176, 168–169, 177, 178, 180, 186, 195–197, 193, 202, 204, 199, 200, 270, 269, 275–276, 292–3, 318–320, 25, 24, 1, 4–16, 365, 375–377, 414|language=en}}</ref> <ref>{{Cite book|title=Southeast Asia: A Historical Encyclopedia, from Angkor Wat to East Timor|publisher=ABC-CLIO|year=2004|page=1429|author=Keat Gin Ooi|url=https://books.google.co.jp/books?id=QKgraWbb7yoC&lpg=PA1429&vq=wunthanu&hl=ja&pg=PA1429#v=snippet&q=wunthanu&f=false|accessdate=2021-04-28|language=en|isbn=9781576077702|chapter=Wunthanu athin}}</ref>。 |
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1900年から1911年の間に、アイルランド出身の仏教徒の{{仮リンク|ダンマローカ|en|U Dhammaloka}}は、キリスト教とイギリスの支配権に公然と異を唱えたため、[[騒乱罪]]によって2回の裁判にかけられた。 |
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20世紀初頭、教育を受けられる階級の中から新世代のビルマの指導者が登場した。その中には、法律を学ぶためのロンドン留学を許された者たちもいた。彼らは、ビルマの状況は改革によって改善される可能性があるという信念とともに帰国した。1920年代初頭の進歩的な憲法改正により、限定的な権限を持つ議会、大学、そして英領インドの枠内のビルマ自治権が強化された。公機関でのビルマ人の代表を増やすための努力もなされた。一部の人々は、変化の速度が遅く、改革の範囲も不十分だと感じ始めた。 |
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1920年、新しい大学法に抗議する学生のストライキが勃発した。この法律が永続的な植民地支配とエリート層にのみ利益をもたらすものだという確信が学生たちにはあった。植民地の教育制度に抗議して、全国に「国民学校」が出現した。後にこのストライキの日は「{{仮リンク|国民の祝日 (ミャンマー)|my|အမျိုးသားနေ့|label=国民の祝日}}」となった<ref name="ms" /> <ref>{{Cite web|url=https://www.jetro.go.jp/world/asia/mm/holiday.html|title=祝祭日 {{!}} ミャンマー - アジア - 国・地域別に見る - ジェトロ|accessdate=2021-04-28|publisher=独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ)}}</ref>。 |
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1920年代後半には、''Wunthanu athin''が主導してさらなるストライキと反税抗議運動が起きた。 政治活動家の中で著名なのは、アラカンのウー・オッタマやウー・セインダなどの仏僧(''hpongyi'')であり、彼らはのちにはイギリスに対する武装蜂起に至った。また、独立後はビルマ政府とも戦うことになる。ウー・ウィサラはこの運動での最初の殉教者であり、獄中での長期のハンガーストライキの後に亡くなった<ref name="ms" />。 |
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1930年12月、[[サヤー・サン]]が指導したタラワディでの地方税への抗議運動は、最初は地域、次に政府に対する全国的な反乱へと急速に拡大した。2年間続いた[[サヤー・サンの乱]]は、神鳥[[ガルダ]]のビルマ名であるガロンを冠した結社が主導したことからガロンの乱([[:en:Galon Rebellion|Galon Rebellion]])とも呼ばれる。ガルダとは[[ナーガ]]の敵であり、つまりイギリスをナーガに見立てたものだった。鎮圧のために、イギリスは数千の兵を投入し、さらに政治改革を約束する必要があった。サヤー・サンは最終的に処刑されたが、その裁判には、後の民族運動の旗手となる[[バー・モウ]]や[[ウー・ソオ]]らが弁護人として参加しており、彼らの名を上げる契機となった<ref name="ms" />。 |
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1930年6月、{{仮リンク|タキン党|en|Thakins|label=ド・バマー・アスイーアヨウン}}(「われらビルマ人協会」の意)が設立された<ref>{{Kotobank|タキン党|日本大百科全書(ニッポニカ)}}</ref>。メンバーは互いに「タキン(主人)」と呼び合った。これはもともとはインドの「[[サーヒブ]]」と同じように植民地支配者(ヨーロッパ人)を意味する言葉だったが、「彼ら自身(ビルマ人)がこの国の真の主人である」との主張が込められていた<ref name="ms" />。1936年の二度目の大学生のストライキの原因は、大学の雑誌に掲載された記事の筆者名を公表せよとの要求を拒んで、大学幹部職員の一人を痛烈に批判したことで、{{仮リンク|ヤンゴン大学|en|University of Yangon|label=ラングーン大学}}学生自治会のリーダーである[[アウンサン]]と[[ウー・ヌ]]が放校処分にされたことがきっかけだった。それはマンダレーまで拡大し、{{仮リンク|全ビルマ学生連盟|en|All Burma Federation of Student Unions}}の結成につながった。その後、アウンサンとウー・ヌはタキン運動に加わり、学生から国政へと転身した<ref name="ms" />。 |
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== インドからの分離 == |
== インドからの分離 == |
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イギリスは1937年にイギリス領インドからビルマ州を分離し<ref>{{Cite web|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,788006,00.html|title=Sword For Pen|accessdate=2021-05-06|publisher=TIME Magazine|date=12 April 1937|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080117060229/https://time.com/time/magazine/article/0,9171,788006,00.html|archivedate=2008-01-17}} </ref>、ビルマ植民地には多くの権限をもった完全選挙制の議会を伴う政府を与えたが、一部のビルマ人はこれが、それ以上のインドの改革からビルマを排除するための策略ととらえた。初代植民地政府首相には[[バー・モウ]]が就いた。 |
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1938年にビルマ中部の{{仮リンク|チャウ|en|Chauk}}と{{仮リンク|イェーナンジャウン|en|Yenangyaung}}の油田から始まったストライキと抗議の波が広範囲に広がり、大きな民族主義運動に発展した<ref>{{Cite web|url=https://www.globalsecurity.org/military/world/myanmar/history-independence.htm|title=Myanmar - Independence|accessdate=2021-04-27|publisher=GlobalSecurity.org|language=en}}</ref>。ラングーンでは抗議に参加した学生たちが、植民地政府の所在地である{{仮リンク|ビルマ政庁|en|Ministers' Building}}を封鎖した。これに対してイギリス騎馬警察が棍棒でラングーン大学の学生を殺害した。 マンダレーでは、警察は仏僧が率いる抗議の群衆に銃撃を行い、17人が殺害された。この運動は、''Htaung thoun ya byei ayeidawbon''(ビルマ暦に由来する「1300年革命」の意)として知られるようになり<ref name="ms"/>、最初の犠牲者である大学生アウン・チョー(Aung Kyaw)が亡くなった12月20日は、学生たちによって{{仮リンク|ボー・アウン・チョーの日|en|Bo_Aung_Kyaw_Day}}として追悼記念日になった<ref>{{cite web|url=http://www.burmalibrary.org/reg.burma/archives/199912/msg00642.html|title=The Statement on the Commemoration of Bo Aung Kyaw|publisher=All Burma Students League|date=19 December 1999|access-date=2021-05-06|language=en}}</ref>。 |
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イギリスは1937年にイギリス領インドからビルマ州を分離し<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,788006,00.html Sword For Pen], ''TIME Magazine'', 12 April 1937</ref>、ビルマ植民地には多くの権限をもった完全な議会を伴う政府を与えたが、一部のビルマ人はこれが、それ以上のインドの改革から彼らを排除するための策略ととらえた。初代植民地政府首相には[[バー・モウ]]が就いたが、不信任決議でバー・モウを失脚させた[[ウー・ソオ]]が、1940年に植民地政府首相となった。しかしウー・ソオは、ビルマ独立を模索し、秘密裏に[[大日本帝国]]と接触していたことが発覚し、1942年に[[逮捕]]され、解任となる。 |
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バー・モウ政権は1939年に辞任に追い込まれた。その後、政変を主導した[[ウー・ソオ]]が、1940年に第3代植民地政府首相となった。しかしウー・ソオは、ビルマ独立を模索し、秘密裏に[[大日本帝国]]と接触していたことが発覚し、1942年に[[逮捕]]され、解任となる。 |
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== 第二次世界大戦 == |
== 第二次世界大戦 == |
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{{Main|日本占領時期のビルマ}} |
{{Main|日本占領時期のビルマ}} |
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{{See also|ビルマの戦い|{{ |
{{See also|ビルマの戦い|{{仮リンク|サハラート地区|en|Saharat Thai Doem|label=}}}} |
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1942年の{{仮リンク|日本軍のビルマ侵攻|en|Japanese invasion of Burma}}により、ビルマは[[日本軍]]の占領下に置かれた。占領状態は日本の支援で[[ビルマ国]]の独立がラングーンで宣言された[[1943年]]まで続く。 しかし、日本はビルマ植民地の全土を完全に征服することはできず、他の以前の植民地ほど問題ではなかったものの、反乱軍の活動が蔓延していた。[[1945年]]までに、主にイギリス領インド陸軍からなるイギリス主導の軍隊が、植民地の大部分の支配権を取り戻した。 |
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大日本帝国は1942年に{{仮リンク|日本軍のビルマ侵攻|en|Japanese invasion of Burma|label=ビルマに侵攻}}して占領下に置いた。これは、ビルマ国の独立がラングーンで宣言された1943年まで続いた。 しかし、日本はビルマ植民地の全土を完全に征服することはできず、他の以前の植民地ほど問題ではなかったものの、反乱軍の活動が蔓延していた。1945年までに、主にイギリス領インド陸軍からなるイギリス主導の軍隊が、植民地の大部分の支配権を取り戻した。 |
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=== 独立 === |
=== 独立 === |
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[[1943年]]、日本の支援を受け |
[[1943年]]、日本の支援を受けビルマ国([[1943年]] - [[1945年]])として[[独立]]。イギリスにより収監されていた[[バー・モウ]]が、日本軍により解放され、最初で最後の首相となった。 |
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=== 再度のイギリスによる統治 === |
=== 再度のイギリスによる統治 === |
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攻勢となった[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が日本軍を破り、ビルマを奪還。[[1945年]]、再びイギリス植民地となった。また、ビルマ国政府は日本に亡命した。 |
攻勢となった[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍が日本軍を破り、ビルマを奪還。[[1945年]]、再びイギリス植民地となった。また、ビルマ国政府は日本に亡命した。 |
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== 日本降伏からアウンサン暗殺まで == |
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=== 再度の独立 === |
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日本の降伏によって、ビルマは軍政下に置かれた。イギリス当局はアウンサンとその他の関係者を反逆罪および日本への協力の罪で裁こうとした<ref>{{cite book | title=The Political Theory of Tyranny in Singapore and Burma | url=https://archive.org/details/politicaltheoryt00mcca | url-access=limited | publisher=Routledge | author=Stephen Mccarthy | year=2006 | page=[https://archive.org/details/politicaltheoryt00mcca/page/n165 153]| isbn=0-415-70186-4|language=en}}</ref>。[[ルイス・マウントバッテン|マウントバッテン卿]]はアウンサンの大衆人気を考えれば裁判は不可能だと考えた<ref name="ms"/>。 |
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[[1948年]]、ビルマは[[イギリス連邦]]を離脱し、[[ビルマ連邦]]として[[独立]]をとげた。 |
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戦後、{{仮リンク|レジナルド・ドーマン=スミス|en|Reginald Dorman-Smith}}総督が帰還した。民政復帰後の植民地政府の政策は、物理的な国の復興の推進と、独立に関する議論の引き延ばしを主軸とした。反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)は、国の政情不安につながるとして政府に反対した。 |
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AFPFLの中でも、戦略をめぐって[[ビルマ共産党|共産主義者たち]]とアウンサンや社会主義者との間に亀裂が生じ、1946年7月にタントゥンが書記長を辞任し、つづく10月にはCPBがAFPFLから追放された<ref name="ms"/>。 |
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ドーマン=スミス総督にかわって新たに{{仮リンク|ヒューバート・ランス|en|Hubert Rance}}総督が着任した。ラングーン警察がストライキを行った。ストライキは1946年9月に始まり、警察から公務員に広がり、ゼネストに近い状況になった。ランスはアウンサンと会見し、AFPFLの他のメンバーとともに執行評議会(Governor's Executive Council)に参加するよう説得することで事態を沈静化した<ref name="ms"/>。新たな評議会は国内での信頼を勝ち取り、ビルマの独立のための交渉を開始した。交渉は成功し、1947年1月27日にアウンサン・[[クレメント・アトリー|アトリー]]協定としてロンドンで締結された<ref name="ms"/>。 |
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この合意に対して、AFPFL内の一部保守派および共産党は不満を抱いた。保守派は反対に回り、{{仮リンク|タキン・ソー|en|Thakin Soe}}率いる{{仮リンク|赤旗共産党|en|Communist Party (Burma)}}は地下運動化した。アウンサンはまた、2月12日の{{仮リンク|ピンロン会議|en|Panglong Conference}}で統一ビルマに関する少数民族との合意を締結することに成功し<ref>{{Cite web|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_002313.html|title=ミャンマーにおける「21世紀ピンロン連邦和平会議」の開催(外務報道官談話)|accessdate=2021-04-26|publisher=外務省|quote=アウン・サン将軍が少数民族代表との間で連邦制の下での植民地からの独立に合意したピンロン条約|language=ja}}</ref>、それ以来この日は「ユニオンデー」として国の祭日になった<ref name="ms"/><ref>{{cite web|url=https://www.burmalibrary.org/en/the-panglong-agreement-1947|accessdate=2021-04-26|title=The Panglong Agreement, 1947|publisher=Online Burma/Myanmar Library|language=en}}</ref>。 |
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その後まもなく、仏教僧出身のウセインダがアラカンで反乱を起こし、それは他の県にも広がり始めた<ref name="ms"/>。 |
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アウンサンと社会主義者が主導するAFPFLの人気は依然として高いことが、1947年4月の制憲議会選挙の圧勝によって確認された<ref name="ms"/>。 |
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その後、1947年7月19日に国を揺るがす重大な事件が起きた。保守派で戦前にビルマ首相だったウー・ソオは、アウンサンと彼の長兄にあたるバウィン{{Efn|[[ビルマ連邦国民連合政府]]の首相を務めた{{仮リンク|セイン・ウィン|en|Sein Win (Burmese government in exile)}}の父親。}}らの内閣メンバーをビルマ政庁での会議中に暗殺した<ref name="ms"/> <ref>{{cite web|url=http://www.irrawaddy.org/database/1997/vol5.4.5/aungsan.html|title=Who Killed Aung San? – an interview with Gen. Kyaw Zaw|date=August 1997|work=The Irrawaddy|access-date=2021-05-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20060819090402/http://www.irrawaddy.org/database/1997/vol5.4.5/aungsan.html |archivedate = 19 August 2006|language=en}}</ref>。以後、7月19日は「殉教者の日」として国の祭日になっている。 |
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社会主義者のリーダーであるタキン・ヌー([[ウー・ヌ]])が新たな内閣を組織し、{{仮リンク|ビルマ独立法|en|Burma Independence Act 1947}}に基づき、1948年1月4日に独立を果たした([[ビルマ連邦]])。ビルマは完全に独立した共和国となった。これは、インドやパキスタンがドミニオン([[自治領]])としての独立であったのと対照的だった。これは当時のビルマで反英感情が強かったことが理由になるだろう<ref name="ms"/>。 |
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== 関連項目 == |
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* {{仮リンク|英領ビルマ総督の一覧|en|List of colonial heads of Burma}} |
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* {{仮リンク|イラワジ舟艇会社|en|Irrawaddy Flotilla Company}} |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=注釈}} |
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=== 出典 === |
=== 出典 === |
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<references /> |
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== 参考資料 == |
== 参考資料 == |
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* |
* {{Cite book|title=History of the British Residency in Burma, 1826-1840|publisher=University of Rangoon|year=1939|author=Walter Sadgun Desai|url=https://books.google.co.jp/books?id=9SELAQAAIAAJ|accessdate=2021-05-06|language=en|isbn=0576031526}}. |
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* {{Cite book|title=British Rule in Burma, 1824-1942|publisher=Faber & Faber|year=1946|author=Godfrey Eric Harvey|url=https://books.google.co.jp/books?id=ZYImAQAAMAAJ|accessdate=2021-05-06|language=en|isbn=0404548342}}. |
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* Harvey, Godfrey (1992). ''British Rule in Burma 1824–1942''. London: Ams Pr. {{ISBN2|0404548342}}. |
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* {{Citation|chapter=The Government of India|url= https://dsal.uchicago.edu/reference/gazetteer/pager.html?objectid=DS405.1.I34_V04_058.gif|accessdate=2021-05-06 |
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* {{Citation |
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| author = Imperial Gazetteer of India vol. IV |
| author = Imperial Gazetteer of India vol. IV |
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| title = The Indian Empire, Administrative |
| title = The Indian Empire, Administrative |
||
| publisher = Published under the authority of His Majesty's Secretary of State for India in Council, Oxford at the Clarendon Press. Pp. xxx, 1 map, 552. |
| publisher = Published under the authority of His Majesty's Secretary of State for India in Council, Oxford at the Clarendon Press. Pp. xxx, 1 map, 552. |
||
| year = 1908 }} |
| year = 1908|format=gif|language=en }} |
||
* {{Cite book|title=Imperial Gazetteer of India. Vol. XXVI: Atlas|publisher=Clarendon Press, Oxford|year=1931|pages=94-98|ref={{SfnRef|Imperial Gazetteer of India vol. XXVI|1931}}|author=Imperial Gazetteer of India|url=https://dspace.gipe.ac.in/xmlui/handle/10973/27007|format=pdf|accessdate=2021-05-06|language=en|chapter=46 Burma, Northern Section; 47 Burma, Central Section; 48 Burma, Southern Section}} |
|||
* {{Cite book|title=Burma: Insurgency and the Politics of Ethnicity|publisher=Bloomsbury Academic|year=1991|author=Martin Smith|url=https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=s4NuAAAAMAAJ|accessdate=2021-05-06|language=en|isbn=9780862328689}} |
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== 関連項目 == |
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* {{Cite journal|和書|journal=東南アジア研究|author=奥平龍二|year=1985|title=19世紀 ビルマの英国植民地化過程における 伝統法体系の変容に関する一考察|volume=23|month=9|url=https://kyoto-seas.org/pdf/23/2/230201.pdf|issue=2|format=pdf|accessdate=2021-05-06|ref={{SfnRef|奥平|1985}}}} |
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* [[:en:List of colonial heads of Burma]] |
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* {{仮リンク|レジナルド・ドーマン=スミス|en|Reginald Dorman-Smith}} |
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{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
2021年6月12日 (土) 03:25時点における版
- ビルマ(イギリス領インド帝国)
- မြန်မာကိုလိုနီ
-
←
←
←1824年 - 1942年
1945年 - 1948年→
→
→(国旗) - 国歌: 女王陛下万歳
-
公用語 英語(公用)、ビルマ語 宗教 仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教 首都 ヤンゴン 通貨 ビルマ・ルピー、インド・ルピー、スターリング・ポンド
ミャンマーの歴史 |
---|
ピュー (–10世紀) |
モン王国 (825?–1057) |
パガン王朝 (849–1298) |
ペグー(ハンターワディー)王朝 (1287–1539) |
ピンヤ朝 (1313–1364) |
アヴァ王朝 (1364–1555) |
タウングー王朝 (1510–1752) |
ペグー王朝 (1740–1757) |
コンバウン王朝 (1752–1885) |
イギリス統治下 (1824–1948) |
英緬戦争 (1824-1852) |
ビルマ国 (1943–1945) |
現代 (1948–現在) |
ビルマ連邦 (1948–1962) |
ビルマ連邦社会主義共和国 (1962-1988) |
(ビルマ式社会主義) |
ミャンマー連邦 (1988–2010) |
ミャンマー連邦共和国 (2010–現在) |
イギリスによるビルマ支配(British rule in Burma)は、1824年から1948年まで続いた。三次にわたる英緬戦争によってイギリス領インド帝国の一部のビルマ州となり、その後インドから分離した単体の植民地となった後で、最終的に独立を果たした。イギリス統治下のビルマは英領ビルマBritish Burmaとして知られている。
第一次英緬戦争(1824年-1826年)におけるイギリスの勝利によって、アラカン(現ラカイン州)やテナセリム(現タニンダーリ地方域)などいくつかの地域が併合された。1852年の第二次英緬戦争により下ビルマが併合された。併合された地域は、1862年にイギリス領インドの小州(minor province)[注釈 1]となった[1]。
1885年の第三次英緬戦争の後には上ビルマが併合された。1897年に、イギリス領インド帝国の州としてビルマ州(the province of Burma)が創設され、他の主要州と同様、副知事により統治されることになった[1]。1935年の新インド統治法の成立により、この状態は1937年に終わり、以降はビルマ統治法の下、イギリス本国のビルマ省とインド・ビルマ大臣(Secretary of State for India and Burma)により、インドとは別個に支配されることになった。イギリスによる支配は第二次世界大戦の勃発と日本軍がビルマの大部分を占領したことによって中断された。1948年1月4日、ビルマはイギリス支配から独立を果たした。
ビルマは時に「スコットランド植民地」と呼ばれることがある。スコットランド人がビルマの植民地化と支配に重要な役割を果たしたからである。その中でも最も著名な一人がサー・ジェームス・スコットである。
イギリス征服以前
その地理的位置ゆえに、中国とインド間の交易路がこの国を通っていた。ビルマは交易を通して富を得ていたが、一方では自給自足的な農業が依然として経済の基礎となっていた。インドの商人たちは沿岸と河川(イラワジ川(エーヤワディー川)が特筆される)を通ってビルマ人の住む土地の多くに足を運び、インド文化は国の隅々に持ち込まれ、その影響は今なお残っている[注釈 2]。ビルマは大々的に仏教を取り入れた東南アジアの最初の国のひとつであり、英国統治下でも人口の大半にとっての公的信仰だった[注釈 3]。
イギリスによる征服と植民地化の以前、コンバウン王朝が確立された中央集権化された支配を行っていた。王はすべての事柄についての最終的な決定権を持つが、新たな法律は作れず、勅令を出せるだけだった。国には法典ダムマタッ[注釈 4]と中央政府フルッタフがあり、政府は財政・司法・行政の三部門に分かれていた。
理論上、王は政府の全権の源だったが、実際には王のいかなる命令も、それを政府が受け入れることではじめて実行された。つまり政府は王権のブレーキ役となっていた。国はさらに諸州に分かれており、それぞれ政府に任命された知事に治められていた。村々は王によって認められた世襲の領主達が治めていた[4]。
イギリスによる征服
ビルマとイギリスの紛争の発端はコンバウン朝がアッサム州のアラカンまでの拡大を決定したことで、イギリスのインドにおける拠点であるチッタゴンに近づいたためだった。これが第一次英緬戦争(1824年~1826年)を招いた。1824年にイギリスは大規模な海上輸送による上陸作戦を行い、ラングーンを無血占領した。
エーヤワディー川のデルタ地に位置するダニュビュで行われた戦いで、ビルマ軍の将軍マハ・バンドゥラは戦死し、彼の軍も敗走した。ビルマはアッサムおよび他の北部諸州を割譲させられた[5]。 1826年、ヤンダボ条約によって、第一次英緬戦争は公式に終了した。この戦争は英領インドの歴史でも、最も長く最も費用のかかった戦争だった。ヨーロッパ兵とインド兵合わせて1万5千人が亡くなっており、さらに、ビルマの兵士と民間人の犠牲者数は不明である[6]。
この戦役のイギリス側の費用は500万から1300万スターリングポンド(2020年の米ドル換算で180億から480億ドルに相当)という巨額なものだった[7]。このため、英領インドでは1833年に経済危機が起きている[8]。
1852年、第二次英緬戦争がイギリスによって引き起こされた。イギリスが獲得したかった目標は大きくふたつ、カルカッタとシンガポールの中間に位置する港と、下ビルマに存在するチーク林だった。25年の平和は破られ、イギリスが下ビルマ全域を占領するまで戦争は続いた。イギリスは勝利し、新たに占領した領土に存在する経済的利益、チークや石油やルビーといった産物を手に入れた。
ミンドン王は占領されずに残った上ビルマで、帝国主義に対応しようと努力していた。王は政治体制を改革するとともに、外国に便益を図ることで生き残りを図った。しかし、イギリスは1885年11月に第三次英緬戦争を開始し、2週間足らずで決着は付いた。イギリス政府は戦争を正当化するため、独立ビルマ最後の王となったティーボーが暴君であり、フランス勢力をビルマに引き込む陰謀を企てていたと主張した。イギリス軍は1885年11月28日にマンダレーに入城した。こうして3回にわたる戦争で段階的に国の各地域を獲得したイギリスは、現在のミャンマーのすべての地域を占領して、1886年1月1日にイギリス領インド帝国の一州とした[4][9]。
初期のイギリス統治
ビルマ人の武力による抵抗は何年間も散発的に続いた。戦争それ自体はわずか数週間で終わったにもかかわらず、ビルマ北部では1890年まで抵抗が続いた。ついにイギリスはゲリラを全面的に押さえ込む最後の手段として、村々を組織的に破壊するとともに、新しい役人を配置していった。
伝統的なビルマ社会は、君主制の廃止とそれに続いた政教分離によって激変した。ヨーロッパ人とビルマ人の間の結婚は、植民地社会で支配的な地位を占めたアングロ・ビルマとして知られる欧亜混血人のコミュニティを生み出した。彼らの階層は英国人の下、ビルマ人の上に位置した。
イギリスはビルマ全土を占領したが、ビルマが中国の朝貢国だったことから、中国を刺激しないようにイギリスは北京への朝貢を続けた。しかしこれは、無意識に中国の増長を招くことになった[10]。1886年に英中間で行われたビルマ会議で、中国は英国による上ビルマの占領を認め、英国は10年ごとに北京への朝貢を続けることで合意した[11]。
植民地統治体制
イギリス領インド帝国全図 | |
オランダ領インド | 1605年-1825年 |
---|---|
デンマーク領インド | 1620年-1869年 |
フランス領インド | 1668年-1954年 |
インド商務院 | 1434年-1833年 |
ポルトガル東インド会社 | 1628年-1633年 |
ゴア併合 | 1961年 |
イギリス東インド会社 | 1612年-1757年 |
東インド会社統治下のインド | 1757年-1858年 |
イギリス領インド帝国 | 1858年-1947年 |
イギリス統治下のビルマ | 1824年-1948年 |
藩王国 | 1721年-1949年 |
インド・パキスタン分離独立 | 1947年 |
|
イギリスは直接支配によって新しい州を支配し、以前の政府構造に多くの変更を加えた。君主制は廃止され、ティーボー王は追放され、政教分離がなされた。仏教の僧侶は君主制の支援に強く依存していたため、これは大きな痛手となった。同時に、君主制は僧侶たちによって正当性を与えられ、仏教の代表としての僧侶は国民に国政をより深く理解する機会を与えていた[4]。
イギリスはまた世俗的な教育システムを施行した。 新しい植民地の支配権を与えられたインドの植民地政府は、英語とビルマ語の両方で教える世俗的な学校を設立し、同時にキリスト教の宣教師がビルマに来訪して学校を設立することも奨励した。どちらのタイプの学校も、仏教と伝統的なビルマ文化からは反発を招く物だった[4]。
行政区画
1885年以降、英領ビルマ州の行政区画は次のようなものだった。
- ビルマ省(Ministerial Burma、ビルマ本土)
- タニンダーリ管区 (Toungoo、Thaton、Amherst、サルウィン川、Tavoy、Mergui Districts)
- アラカン管区 (Akyab, 北アラカンまたはアラカン丘陵地帯, Kyaukpyu と Sandoway Districts)
- バゴー管区 (ラングーン市, Hanthawaddy, Pegu、Tharrawaddy 、Prome Districts)
- エーヤワディ管区 (Bassein、Henzada、Thayetmyo、Maubin、Myaungmya 、Pyapon Districts)
- en:Scheduled Areas (辺境地域)
- シャン州
- Pakokku Chin Hills
- カチン州
「辺境地域 Frontier Areas」は「除外地域 Excluded Areas」または「付則地域 Scheduled Areas」としても知られ、現在のミャンマーの行政区画のうちの「州」の大部分を構成している。それらは英領ビルマ辺境局(Burma Frontier Service)によって別途管理され、後になってビルマ本土に統合されて現在に至っている。辺境地域には、チン族、シャン族、カチン族(チンポー族)、カレン族などの少数民族が住んでいた。
1931年のビルマには9管区(division)があり、それがさらに多数の県(district)に分かれていた[12]。
- アラカン管区 (アキャブ、アラカン丘陵、チャウピューとサンドウェ)
- ミンブー管区 ( マグウェ、ミンブー、 タイェッ
- マンダレー管区 ((チェウセ, マンダレー、メイッティーラ、ミンヂャン)
- タニンダーリ管区 (トングー、タトン、アムハースト、サルウィン、タヴォイ、メルギー)
- ペグー管区 (ラングーン市、ハンターワディー、ペグー、ターラーワディー、プローム)
- イラワジ管区 (バセイン、ヘンザダ、マウビン、ミャンミャ、ピャーポン)
- ザガイン管区 (バモー、下チンドウィン, 上チンドウィン, カタ, ミイトキーナ、サガイン, the フーコン渓谷、三角原住民地区)
- シャン連合州 (北シャン、東シャン、中央シャン、メイラト、カレン、ケントゥン、ヤウンシェ)
- パコック丘陵地帯 (チン丘陵, マニプル、ルシャイ丘陵 , パコック , カチャル、ジャインティア丘陵
経済
伝統的なビルマ経済では、一つの再分配として、最重要ないくつかの商品の価格が国によって定められていた。 人口の大多数にとって、交易は自給自足農業ほど重要ではなかった。しかし、インドから中国への主要な交易路上に位置していたことから、この国は外国貿易の促進によって相当な量の金銭を得ていた。イギリス支配によって、ビルマ経済は世界市場に結びつけられ、強制的に植民地的な輸出経済の一部とされた[4]。
ビルマの併合は、経済成長の新時代をもたらした。社会の経済的性質も劇的に変化した。イギリス人はイラワジ川デルタ周辺の肥沃な土地を利用し始め、その地域の密集したマングローブ林を一掃した。特に1869年にスエズ運河が建設された後、ヨーロッパで需要が高かったコメが主な輸出品となった。コメの生産を増やすために、多くのビルマ人が北部の中心部からデルタ地帯に移住したことで、人口の中心が移動し、富と権力の基盤をも変えた[4]。
ビルマの農民に対して、英系銀行は不動産ローンを与えなかった。そこで彼らは耕作のための新しい土地を準備するため、チェティアと呼ばれるインド系金貸しから高金利で借り入れた。チェティアたちは、借り手が債務不履行に陥った場合はすぐに差し押さえを行った[注釈 5]。
何千何万というインド人労働者がビルマに移動して(ビルマ・インド人)、より低賃金で働く意志を示し、ビルマ人農民をすぐに追い出した。ブリタニカ百科事典は次のように記述している:
「ビルマの村人は、生業を失い社会的な居場所を失ったことで、時には些細な窃盗や強盗行為に手を出すこともあった。これらの行為を見たイギリス人は、彼らの怠惰で無規律な性質の故だと性急に決めつけた。ビルマ社会の機能不全のレベルは、殺人発生件数の劇的な増加によって明らかになった[14]。
経済の急速な成長とともに、イラワジ流域全体に鉄道が建設され、何百隻もの蒸気船が川を航行するようになり、ある程度の工業化が起きた。しかし、これらの輸送手段はすべてイギリス人が所有していた。貿易収支は英領ビルマに有利なものだったが、社会が根本的に変化したため、急速に成長する経済から利益を得ることができる人は多くなかった[4]。
ビルマの公務員は主に英国系ビルマ人とインド人によって占められた。ビルマ民族は軍からほぼ完全に除外された。軍は主にインド人、英国系ビルマ人、カレン族およびその他の少数民族グループらが勤務した。1887年にはイギリスによってビルマ総合病院がラングーンに設立された[15]国は繁栄したが、ビルマの人々はそれに見合う報酬をほとんど得られなかった(ジョージ・オーウェルは小説ビルマの日々で、当時のビルマの英国人をフィクションの形で詳述している)。あるイギリスの官吏による、1941年のビルマの人々の生活状況の記述は、ビルマの窮乏を記録している。
国外の地主の支配と、国外の金融業者の仕業で、国の資源は多くが輸出に振り向けられるようになった。農業従事者たちと国全体は次第に貧困に追い込まれていった……。農民は事実としてより貧しくなり、失業者は増加した……。ビルマ社会の崩壊は、そこに属する人々の心をも荒廃させ、貧困と失業の拡大は犯罪の大幅な増加を引き起こしている[16]。
民族主義運動
世紀の変わり目までに、植民地当局によって宗教団体が許可されたため、キリスト教青年会(YMCA)をモデルにした仏教青年会(YMBA)を拠り所として民族主義運動は形になり始めた。これは後にビルマ諸団体総評議会(GCBA)[17]に取って代わられた。GCBAはビルマ本土各地の村々に出現したWunthanu athin(民族諸団体)と関連していた[18] [19]。
1900年から1911年の間に、アイルランド出身の仏教徒のダンマローカは、キリスト教とイギリスの支配権に公然と異を唱えたため、騒乱罪によって2回の裁判にかけられた。
20世紀初頭、教育を受けられる階級の中から新世代のビルマの指導者が登場した。その中には、法律を学ぶためのロンドン留学を許された者たちもいた。彼らは、ビルマの状況は改革によって改善される可能性があるという信念とともに帰国した。1920年代初頭の進歩的な憲法改正により、限定的な権限を持つ議会、大学、そして英領インドの枠内のビルマ自治権が強化された。公機関でのビルマ人の代表を増やすための努力もなされた。一部の人々は、変化の速度が遅く、改革の範囲も不十分だと感じ始めた。
1920年、新しい大学法に抗議する学生のストライキが勃発した。この法律が永続的な植民地支配とエリート層にのみ利益をもたらすものだという確信が学生たちにはあった。植民地の教育制度に抗議して、全国に「国民学校」が出現した。後にこのストライキの日は「国民の祝日」となった[18] [20]。
1920年代後半には、Wunthanu athinが主導してさらなるストライキと反税抗議運動が起きた。 政治活動家の中で著名なのは、アラカンのウー・オッタマやウー・セインダなどの仏僧(hpongyi)であり、彼らはのちにはイギリスに対する武装蜂起に至った。また、独立後はビルマ政府とも戦うことになる。ウー・ウィサラはこの運動での最初の殉教者であり、獄中での長期のハンガーストライキの後に亡くなった[18]。
1930年12月、サヤー・サンが指導したタラワディでの地方税への抗議運動は、最初は地域、次に政府に対する全国的な反乱へと急速に拡大した。2年間続いたサヤー・サンの乱は、神鳥ガルダのビルマ名であるガロンを冠した結社が主導したことからガロンの乱(Galon Rebellion)とも呼ばれる。ガルダとはナーガの敵であり、つまりイギリスをナーガに見立てたものだった。鎮圧のために、イギリスは数千の兵を投入し、さらに政治改革を約束する必要があった。サヤー・サンは最終的に処刑されたが、その裁判には、後の民族運動の旗手となるバー・モウやウー・ソオらが弁護人として参加しており、彼らの名を上げる契機となった[18]。
1930年6月、ド・バマー・アスイーアヨウン(「われらビルマ人協会」の意)が設立された[21]。メンバーは互いに「タキン(主人)」と呼び合った。これはもともとはインドの「サーヒブ」と同じように植民地支配者(ヨーロッパ人)を意味する言葉だったが、「彼ら自身(ビルマ人)がこの国の真の主人である」との主張が込められていた[18]。1936年の二度目の大学生のストライキの原因は、大学の雑誌に掲載された記事の筆者名を公表せよとの要求を拒んで、大学幹部職員の一人を痛烈に批判したことで、ラングーン大学学生自治会のリーダーであるアウンサンとウー・ヌが放校処分にされたことがきっかけだった。それはマンダレーまで拡大し、全ビルマ学生連盟の結成につながった。その後、アウンサンとウー・ヌはタキン運動に加わり、学生から国政へと転身した[18]。
インドからの分離
イギリスは1937年にイギリス領インドからビルマ州を分離し[22]、ビルマ植民地には多くの権限をもった完全選挙制の議会を伴う政府を与えたが、一部のビルマ人はこれが、それ以上のインドの改革からビルマを排除するための策略ととらえた。初代植民地政府首相にはバー・モウが就いた。
1938年にビルマ中部のチャウとイェーナンジャウンの油田から始まったストライキと抗議の波が広範囲に広がり、大きな民族主義運動に発展した[23]。ラングーンでは抗議に参加した学生たちが、植民地政府の所在地であるビルマ政庁を封鎖した。これに対してイギリス騎馬警察が棍棒でラングーン大学の学生を殺害した。 マンダレーでは、警察は仏僧が率いる抗議の群衆に銃撃を行い、17人が殺害された。この運動は、Htaung thoun ya byei ayeidawbon(ビルマ暦に由来する「1300年革命」の意)として知られるようになり[18]、最初の犠牲者である大学生アウン・チョー(Aung Kyaw)が亡くなった12月20日は、学生たちによってボー・アウン・チョーの日として追悼記念日になった[24]。
バー・モウ政権は1939年に辞任に追い込まれた。その後、政変を主導したウー・ソオが、1940年に第3代植民地政府首相となった。しかしウー・ソオは、ビルマ独立を模索し、秘密裏に大日本帝国と接触していたことが発覚し、1942年に逮捕され、解任となる。
第二次世界大戦
1942年の日本軍のビルマ侵攻により、ビルマは日本軍の占領下に置かれた。占領状態は日本の支援でビルマ国の独立がラングーンで宣言された1943年まで続く。 しかし、日本はビルマ植民地の全土を完全に征服することはできず、他の以前の植民地ほど問題ではなかったものの、反乱軍の活動が蔓延していた。1945年までに、主にイギリス領インド陸軍からなるイギリス主導の軍隊が、植民地の大部分の支配権を取り戻した。
独立
1943年、日本の支援を受けビルマ国(1943年 - 1945年)として独立。イギリスにより収監されていたバー・モウが、日本軍により解放され、最初で最後の首相となった。
再度のイギリスによる統治
攻勢となった連合国軍が日本軍を破り、ビルマを奪還。1945年、再びイギリス植民地となった。また、ビルマ国政府は日本に亡命した。
日本降伏からアウンサン暗殺まで
日本の降伏によって、ビルマは軍政下に置かれた。イギリス当局はアウンサンとその他の関係者を反逆罪および日本への協力の罪で裁こうとした[25]。マウントバッテン卿はアウンサンの大衆人気を考えれば裁判は不可能だと考えた[18]。
戦後、レジナルド・ドーマン=スミス総督が帰還した。民政復帰後の植民地政府の政策は、物理的な国の復興の推進と、独立に関する議論の引き延ばしを主軸とした。反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)は、国の政情不安につながるとして政府に反対した。
AFPFLの中でも、戦略をめぐって共産主義者たちとアウンサンや社会主義者との間に亀裂が生じ、1946年7月にタントゥンが書記長を辞任し、つづく10月にはCPBがAFPFLから追放された[18]。
ドーマン=スミス総督にかわって新たにヒューバート・ランス総督が着任した。ラングーン警察がストライキを行った。ストライキは1946年9月に始まり、警察から公務員に広がり、ゼネストに近い状況になった。ランスはアウンサンと会見し、AFPFLの他のメンバーとともに執行評議会(Governor's Executive Council)に参加するよう説得することで事態を沈静化した[18]。新たな評議会は国内での信頼を勝ち取り、ビルマの独立のための交渉を開始した。交渉は成功し、1947年1月27日にアウンサン・アトリー協定としてロンドンで締結された[18]。
この合意に対して、AFPFL内の一部保守派および共産党は不満を抱いた。保守派は反対に回り、タキン・ソー率いる赤旗共産党は地下運動化した。アウンサンはまた、2月12日のピンロン会議で統一ビルマに関する少数民族との合意を締結することに成功し[26]、それ以来この日は「ユニオンデー」として国の祭日になった[18][27]。
その後まもなく、仏教僧出身のウセインダがアラカンで反乱を起こし、それは他の県にも広がり始めた[18]。
アウンサンと社会主義者が主導するAFPFLの人気は依然として高いことが、1947年4月の制憲議会選挙の圧勝によって確認された[18]。
その後、1947年7月19日に国を揺るがす重大な事件が起きた。保守派で戦前にビルマ首相だったウー・ソオは、アウンサンと彼の長兄にあたるバウィン[注釈 6]らの内閣メンバーをビルマ政庁での会議中に暗殺した[18] [28]。以後、7月19日は「殉教者の日」として国の祭日になっている。
社会主義者のリーダーであるタキン・ヌー(ウー・ヌ)が新たな内閣を組織し、ビルマ独立法に基づき、1948年1月4日に独立を果たした(ビルマ連邦)。ビルマは完全に独立した共和国となった。これは、インドやパキスタンがドミニオン(自治領)としての独立であったのと対照的だった。これは当時のビルマで反英感情が強かったことが理由になるだろう[18]。
関連項目
脚注
注釈
- ^ 英領インドの直轄領は知事Governor-in-Councilまたは副知事Lieutenant-Governorの治める主要州Major provincesと、政務長官Chief Commissionerの治めるMinor provinceに分けられる[1]。ただしこの区分は絶対的な物ではなく、主要州でも政務長官が治めるものもあった。
- ^ 「ビルマにとっては,陸路によって中国と交通するよりも,海路によってインドと連絡することのほうが遙かに容易であったのである。それはビルマ文化に対するインドの数百年にもわたる強い影響と,中国文化のごく僅かな影響をくらべてみればよくわかる」[2]
- ^ ビルマおよび現在のミャンマーにおけるすべての主要宗教についてはミャンマーの宗教を参照。
- ^ ダルマ・シャーストラの流れをくむ民法典。「ビルマの代表的法源であるダムマタッの第1の特徴は,それが基本的に土着の慣習法を収録した世俗法である点にある」[3]
- ^ 「英領期には年間14万人から42万人の範囲でインド系の人々が大量に移民としてビルマに流入した。それによって1931年までにラングーンの人口の過半数はインド系で占められるに至った。また、インド系の中には金融業を営むカースト集団チェティアがいて、彼らがビルマの農民に金を貸し、返済できない場合は担保の土地を取り上げ、不在地主化していった『事実』がある」[13]
- ^ ビルマ連邦国民連合政府の首相を務めたセイン・ウィンの父親。
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