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「王昌 (高麗王)」の版間の差分

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'''王昌'''(おう しょう、[[1380年]][[9月6日]] - [[1389年]][[12月31日]])は第33代[[高麗]]王(在位:[[1388年]] - [[1389年]])。前王[[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|王禑}}]]の子。昌王、允王。[[恭愍王]]の孫にあたる。
'''王昌'''(おう しょう、[[1380年]][[9月6日]] - [[1389年]][[12月31日]])は第33代[[高麗]]王(在位:[[1388年]] - [[1389年]])。前王[[王禑]]の子。昌王、允王。[[恭愍王]]の孫にあたる。


1388年に[[李成桂]]により王位に就けられ、翌1389年直ちに廃位、父とともに殺された。享年10。2人の死により、祖父である恭愍王直系の血筋は途絶えた。
1388年に[[李成桂]]により王位に就けられ、翌1389年直ちに廃位、父とともに殺された。享年10。2人の死により、祖父である恭愍王直系の血筋は途絶えた。


『高麗史』(1451年成立)では父・[[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|王禑}}]]が寵臣[[辛ドン|{{lang|ko|辛旽}}]]の子であり、王昌も正統な王位継承者ではなく、王位を[[禅譲]]された李氏朝鮮の太祖[[李成桂]]が妥当な王位継承者とされているが、この記述は疑わしいこととされている。
『高麗史』(1451年成立)では父・[[王禑]]が寵臣[[辛ドン|{{lang|ko|辛旽}}]]の子であり、王昌も正統な王位継承者ではなく、王位を[[禅譲]]された李氏朝鮮の太祖[[李成桂]]が妥当な王位継承者とされているが、この記述は疑わしいこととされている。


なお、父とともに[[辛ドン|{{lang|ko|辛旽}}]]の血を引く偽の王族として王位継承権を否定されたために'''辛昌'''とも呼ばれている。
なお、父とともに[[辛ドン|{{lang|ko|辛旽}}]]の血を引く偽の王族として王位継承権を否定されたために'''辛昌'''とも呼ばれている。

2021年3月24日 (水) 22:26時点における版

王昌
高麗
第33代国王
王朝 高麗
在位期間 1388年7月12日 - 1389年12月2日
生年 洪武13年8月7日
1380年9月6日
没年 洪武22年12月14日
1389年12月31日
禑王
謹妃李氏
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王昌(おう しょう、1380年9月6日 - 1389年12月31日)は第33代高麗王(在位:1388年 - 1389年)。前王王禑の子。昌王、允王。恭愍王の孫にあたる。

1388年に李成桂により王位に就けられ、翌1389年直ちに廃位、父とともに殺された。享年10。2人の死により、祖父である恭愍王直系の血筋は途絶えた。

『高麗史』(1451年成立)では父・王禑が寵臣辛旽の子であり、王昌も正統な王位継承者ではなく、王位を禅譲された李氏朝鮮の太祖李成桂が妥当な王位継承者とされているが、この記述は疑わしいこととされている。

なお、父とともに辛旽の血を引く偽の王族として王位継承権を否定されたために辛昌とも呼ばれている。