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2003年11月12日に古巣のダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。 |
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{{by|2004年}}はAAA級ツーソンで開幕を迎えたが、6月8日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ。昇格後は主に代打として10試合に出場していたが、6月21日に左足の故障で15日間の故障者リスト入りした。6月29日に60日間の故障者リストへ異動し、8月20日に復帰。この年は28試合に出場して打率.206、1本塁打、6打点を記録した。オフの10月11日に[[ロースター (MLB)# |
{{by|2004年}}はAAA級ツーソンで開幕を迎えたが、6月8日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ。昇格後は主に代打として10試合に出場していたが、6月21日に左足の故障で15日間の故障者リスト入りした。6月29日に60日間の故障者リストへ異動し、8月20日に復帰。この年は28試合に出場して打率.206、1本塁打、6打点を記録した。オフの10月11日に[[ロースター (MLB)#26人枠と40人枠|40人枠]]を外れ、AAA級ツーソンへ降格した<ref>{{cite web|url=http://arizona.diamondbacks.mlb.com/news/press_releases/press_release.jsp?ymd=20041011&content_id=891102&vkey=pr_ari&fext=.jsp&c_id=ari|title=Diamondbacks outright three off 40-man roster|work=MLB.com D-backs Press Release|author=|date=2004年10月14日|accessdate=2015年1月1日}}</ref>。 |
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{{by|2005年}}はAAA級ツーソンでプレーし、47試合に出場して打率.216、2本塁打、14打点を記録した。オフの10月28日にFAとなった。 |
{{by|2005年}}はAAA級ツーソンでプレーし、47試合に出場して打率.216、2本塁打、14打点を記録した。オフの10月28日にFAとなった。 |
2021年4月13日 (火) 08:47時点における版
シンシナティ・レッズ コーチ | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州エルパソ |
生年月日 | 1968年5月19日(56歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 200 lb =約90.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投両打 |
ポジション | 一塁手、捕手 |
プロ入り | 1989年 MLBドラフト1巡目 |
初出場 |
MLB / 2002年6月18日 NPB / 1999年5月14日 |
最終出場 |
MLB / 2004年10月3日 NPB / 1999年8月28日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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アラン・マイケル・ジンター(Alan Michael Zinter, 1968年5月19日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州エルパソ出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。右投両打。2020年シーズンよりMLBのシンシナティ・レッズの打撃コーチを務める。
経歴
プロ入り前
1986年のMLBドラフト23巡目(全体584位)でサンディエゴ・パドレスから指名されたが、アリゾナ大学へ進学した。
プロ入りとメッツ傘下時代
1989年のMLBドラフト1巡目(全体24位)でニューヨーク・メッツから指名され、6月20日に契約。契約後、傘下のA-級ピッツフィールド・メッツとA級セントルーシー・メッツでプレー。A級セントルーシーでは48試合に出場して打率.239、3本塁打、32打点を記録した。
1990年はA+級セントルーシー[1]とAA級ジャクソン・メッツでプレー。A+級セントルーシーでは98試合に出場して打率.291、7本塁打、63打点、8盗塁を記録した。
1991年はAA級ウィリアムズポート・ビルズでプレーし、124試合に出場して打率.220、9本塁打、54打点、3盗塁を記録した。
1992年はAA級ビンガムトン・メッツ[2]でプレーし、128試合に出場して打率.223、16本塁打、50打点を記録した。
1993年もAA級ビンガムトンでプレーし、134試合に出場して打率.262、24本塁打、87打点、1盗塁を記録した。
タイガース傘下時代
1994年3月31日にリコ・ブローニャとのトレードで、デトロイト・タイガースへ移籍した。この年は傘下のAAA級トレド・マッドヘンズでプレーし、134試合に出場して打率.238、21本塁打、58打点、13盗塁を記録した。
1995年もAAA級トレドでプレーし、101試合に出場して打率.222、13本塁打、48打点、4盗塁を記録した。オフの10月16日にFAとなった。
レッドソックス傘下時代
1995年12月13日にボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。
1996年は傘下のAAA級ポータケット・レッドソックスでプレーし、108試合に出場して打率.269、26本塁打、69打点、5盗塁を記録した。オフの10月15日にFAとなった。
マリナーズ傘下時代
1996年11月29日にシアトル・マリナーズとマイナー契約を結んだ。
1997年は傘下のAAA級タコマ・レイニアーズでプレーし、110試合に出場して打率.287、20本塁打、70打点、3盗塁を記録した。オフの10月17日にFAとなった。
カブス傘下時代
1997年12月4日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。
1998年は傘下のAAA級アイオワ・カブスでプレーし、129試合に出場して打率.287、23本塁打、81打点、3盗塁を記録した。オフの10月16日にFAとなったが、11月12日にカブスとマイナー契約で再契約した。
1999年はAAA級アイオワでプレーし、14試合に出場して打率.255、3本塁打、8打点を記録した。
西武時代
1999年4月28日に西武ライオンズと契約。当時西武は、この年から入団していたグレッグ・ブロッサー、アーキー・シアンフロッコが全く打てないのが災いし、深刻な貧打に陥っていたことからジンターの獲得が決まった。ちなみにAAA級アイオワで同僚だった野茂英雄とバッテリーを組んだ経験もあり、野茂は「日本で活躍できる」と太鼓判を押していた。5月14日のオリックス・ブルーウェーブ戦で日本プロ野球史上6人目の「初試合満塁本塁打」を打つ(他には駒田徳広や井口資仁などが記録)など来日当初はそこそこに打っており一時期は4番も打っていたが、日本の投手に慣れられるには時間はかからなかった。なぜか日本ハムファイターズ戦には強く、7月初めの3連戦では3試合とも本塁打を打っているが、全体としてはジリジリと打率は下がっていき、2割割れが近付いてきた8月中旬に二軍に落ちると、そのまま一軍に上がることなく解雇された。
カブス復帰・ダイヤモンドバックス傘下時代
1999年11月7日に古巣のカブスとマイナー契約を結んだ。
2000年はAAA級アイオワでプレーし、90試合に出場して打率.227、14本塁打、35打点を記録した。8月23日にトレードで、アリゾナ・ダイヤモンドバックスへ移籍。傘下のAAA級ツーソン・サイドワインダーズでプレーし、11試合に出場して 打率.361、1本塁打、5打点を記録した。オフの10月15日にFAとなった。
アストロズ時代
2000年11月1日にヒューストン・アストロズとマイナー契約を結んだ。
2001年は傘下のAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズでプレーし、104試合に出場して打率.265、19本塁打、65打点、1盗塁を記録した。
2002年はAAA級ニューオーリンズで開幕を迎え、63試合に出場。打率.231、11本塁打、39打点、2盗塁を記録した。6月17日にアストロズとメジャー契約を結んだ[3]。プロ13年目・34歳でようやくメジャーの舞台に立ち、翌18日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でメジャーデビュー。7回表に代打として出場したが、一塁ゴロに終わった[4]。この年メジャーでは主に代打として39試合に出場して打率.136、2本塁打、3打点を記録した。オフの10月15日にFAとなったが、12月20日にアストロズとマイナー契約で再契約した[5]。
2003年はAAA級ニューオーリンズでプレーし、114試合に出場して打率.254、17本塁打、57打点、1盗塁を記録した。オフの10月15日にFAとなった。
ダイヤモンドバックス時代
2003年11月12日に古巣のダイヤモンドバックスとマイナー契約を結んだ。
2004年はAAA級ツーソンで開幕を迎えたが、6月8日にダイヤモンドバックスとメジャー契約を結んだ。昇格後は主に代打として10試合に出場していたが、6月21日に左足の故障で15日間の故障者リスト入りした。6月29日に60日間の故障者リストへ異動し、8月20日に復帰。この年は28試合に出場して打率.206、1本塁打、6打点を記録した。オフの10月11日に40人枠を外れ、AAA級ツーソンへ降格した[6]。
2005年はAAA級ツーソンでプレーし、47試合に出場して打率.216、2本塁打、14打点を記録した。オフの10月28日にFAとなった。
アストロズ傘下・独立リーグ時代
2006年1月9日に古巣のアストロズとマイナー契約を結んだ[7]。この年はAAA級ラウンドロック・エクスプレス[8]でプレーし、99試合に出場して打率.259、12本塁打、44打点、1盗塁を記録した。オフの11月1日にFAとなった。
2007年は独立リーグであるアトランティックリーグのサマセット・ペイトリオッツに加入。93試合に出場して打率.261、13本塁打、43打点を記録した。この年限りで現役を引退した。
現役引退後
2008年にダイヤモンドバックス傘下でパイオニアリーグのルーキー級ミズーラ・オスプレイの打撃コーチに就任。オフの12月3日にA+級バイセイリア・ローハイドの打撃コーチへ異動した[9]。
2010年12月3日にAA級モービル・ベイベアーズの打撃コーチへ異動した[10]。
2011年12月2日にクリーブランド・インディアンス・マイナー組織の打撃コーディネイターに就任[11]。3年間務めた。
2014年11月4日にアストロズの打撃コーチ補佐に就任した[12]。
2015年11月16日、2016年シーズンよりパドレスの打撃コーチに就任する事が発表された[13][14]。2017年9月1日に解任された[15]。
2018年から2年間はサンフランシスコ・ジャイアンツの育成副部長を務めた。2020年シーズンからはシンシナティ・レッズの打撃コーチを務める[16]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | 西武 | 61 | 210 | 173 | 20 | 35 | 8 | 0 | 8 | 67 | 28 | 2 | 1 | 0 | 1 | 35 | 2 | 1 | 59 | 3 | .202 | .338 | .387 | .725 |
2002 | HOU | 39 | 44 | 44 | 5 | 6 | 2 | 0 | 2 | 14 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 19 | 0 | .136 | .136 | .318 | .455 |
2004 | ARI | 28 | 40 | 34 | 2 | 7 | 2 | 0 | 1 | 12 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 15 | 0 | .206 | .300 | .353 | .653 |
NPB:1年 | 61 | 210 | 173 | 20 | 35 | 8 | 0 | 8 | 67 | 28 | 2 | 1 | 0 | 1 | 35 | 2 | 1 | 59 | 3 | .202 | .338 | .387 | .725 | |
MLB:2年 | 67 | 84 | 78 | 7 | 13 | 4 | 0 | 3 | 26 | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | 0 | 34 | 0 | .167 | .214 | .333 | .548 |
年度別守備成績
- 捕手守備
年 度 |
球 団 |
捕手(C) | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
捕 逸 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 | ||
2002 | HOU | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- |
MLB | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | . | 0 | 0 | 0 | 0 | . |
- 一塁守備
年 度 |
球 団 |
一塁(1B) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1999 | 西武 | 1 | 8 | 0 | 0 | 2 | 1.000 |
2002 | HOU | 8 | 24 | 2 | 0 | 3 | 1.000 |
2004 | ARI | 8 | 41 | 3 | 1 | 1 | .978 |
NPB | 1 | 8 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | |
MLB | 16 | 65 | 5 | 1 | 4 | .986 |
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:1999年5月14日、対オリックス・ブルーウェーブ7回戦(西武ドーム)、3番・指名打者として先発出場
- 初安打・初本塁打・初打点:同上、2回裏に小林宏から右越満塁本塁打
背番号
- 42(1999年)
- 43(2002年)
- 25(2004年)
- 55(2015年)
- 22(2016年 - 2017年)
脚注
- ^ 1990年よりクラスがA級からA+級に変更
- ^ 1992年より球団名変更
- ^ “Astros purchase contract of Alan Zinter”. MLB.com Astros Press Release (2002年6月17日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Scores for Jun 18, 2002”. ESPN MLB (2002年6月18日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Houston signs hurler Jared Fernandez”. MLB.com Astros Press Release (2002年12月20日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Diamondbacks outright three off 40-man roster”. MLB.com D-backs Press Release (2004年10月14日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Astros sign Miller to one-year contract”. MLB.com Astros Press Release (2006年1月9日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ 2005年から2010年までアストロズ傘下
- ^ “D-backs announce Minor League coaching staffs”. MLB.com D-backs Press Release (2008年12月3日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “D-backs announce Minor League coaching staffs”. MLB.com D-backs Press Release (2010年12月3日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Indians announce 2012 Player Development staff assignments”. MLB.com Indians Press Release (2011年12月2日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Astros name Alan Zinter assistant hitting coach”. MLB.com Astros Press Release (2014年11月4日). 2015年1月1日閲覧。
- ^ “Alan Zinter hired as Padres hitting coach - SanDiegoUnionTribune.com”. The San Diego Union-Tribune (2015年11月16日). 2015年11月18日閲覧。
- ^ “パドレス 新打撃コーチに元西武の助っ人が就任”. スポーツニッポン (2015年11月17日). 2015年11月18日閲覧。
- ^ Dennis Lin (2017年9月1日). “Seeking a 'different voice,' Padres fire hitting coach Alan Zinter” (英語). San Diego Union Tribune. 2017年9月28日閲覧。
- ^ “Reds announce new hitting department structure” (英語). MLB.com (2019年10月24日). 2019年11月4日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- Alan Zinter (@Alan__Zinter) - X(旧Twitter)