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[[741年]]に父のカール・マルテルが死去し、権力はピピンと兄の[[カールマン (アウストラシア宮宰)|カールマン]]の2人に継承された。[[庶子]]のグリフォにも割り当てがあった可能性はあるが、この異母弟はピピンとカールマンによってヌシャトー([[:en:Neufchâteau, Luxembourg Province|en]])<!--の修道院-->に軟禁された<ref>柴田、p. 156</ref>。また、[[743年]]にはピピンとカールマンは[[メロヴィング朝]]の[[キルデリク3世]]を国王に擁立した<ref name=I33>五十嵐、p. 33</ref>。[[747年]]に兄カールマンは自ら修道院での隠棲を望んでアウストラシア宮宰を辞したため<ref>瀬原、p. 16-17</ref>、ピピンは宮宰として[[フランク王国]]の実権を握った<ref name=I33 />。そして彼は[[ローマ教皇]][[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]に「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」と尋ね、実権を持つものが王となるべきという回答を得た<ref>五十嵐、p. 35</ref><ref>瀬原、p. 17</ref>。これを背景に[[751年]]11月、ピピンは[[ソワソン]]でフランク族の貴族たちによってフランク王に選出され<ref name=S157>柴田 他、p. 157</ref>、[[マインツ大司教]][[聖ボニファティウス|ボニファティウス]]によって塗油された<ref name=N69>成瀬 他、p. 69</ref><ref name=H18>瀬原、p. 18</ref>。キルデリク3世は髪を切り落とされサンベルタン修道院に<ref>五十嵐、p. 37</ref>、王子テウデリクはサン=ヴァンドリーユ修道院にそれぞれ幽閉され<ref name=S157 />、メロヴィング朝は断絶した。 |
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ピピンは多くの土地を征服し、その権威は[[クロヴィス1世]]以来最も高まっていたが、754年にローマ教皇[[ステファヌス |
ピピンは多くの土地を征服し、その権威は[[クロヴィス1世]]以来最も高まっていたが、754年にローマ教皇[[ステファヌス2世 (ローマ教皇)|ステファヌス2世]]が彼を[[ローマ貴族]]([[パトリキ]])に叙し<ref>五十嵐、p. 39</ref>、[[パリ]]の[[サン=ドニ大聖堂]]まで赴いて塗油した<ref name=S157 />ことで更に増した。このときピピンは王位の世襲を望み、ステファヌス3世は息子のカールとカールマンにも塗油を行なった<ref name=S157 /><ref name=N69 /><ref name=H18 />。 |
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=== ピピンの寄進 === |
=== ピピンの寄進 === |
2021年4月30日 (金) 21:55時点における版
ピピン3世 Pippin III | |
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フランク王 | |
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在位 | 751年 - 768年 |
出生 |
714年 フランク王国(現 ベルギー)ジュピユ=シュル=ムーズ |
死去 |
768年9月28日 フランク王国(現 フランス)サン=ドニ |
埋葬 | サン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | ランのベルトラダ |
子女 | カール、カールマン ほか |
家名 | カロリング家 |
王朝 | カロリング朝 |
父親 | カール・マルテル |
母親 | トリーアのクロドトルード |
宗教 | カトリック教会 |
ピピン3世(ドイツ語:Pippin III, 714年 - 768年9月24日)は、フランク王国の国王(在位:751年 - 768年)。アウストラシアの宮宰だったピピン1世(大ピピン)との対比で、「小ピピン(ドイツ語: Pippin der Jüngere)」とも呼ばれる。また、「ピピン短躯王(フランス語: Pépin le Bref、ペパン・ル・ブレフ)」とも呼ばれる。フランク王国宮宰カール・マルテルの子。はじめネウストリアの宮宰(在職:741年 - 751年)およびアウストラシアの宮宰(在職:747年 - 751年)であったが、メロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた[1]。
生涯
ピピンは、714年に現在のベルギー領ジュピユ=シュル=ムーズで全フランク宮宰カール・マルテルとその妻クロドトルード(690年 - 724年)の間に次男として生まれた[2]。父カール・マルテルはランゴバルドから軍事的な支援を得るために、次男ピピンをランゴバルド王リウトプランドの養子とした[3]。744年にピピンはラン伯の娘であったベルトラダ(ベルトラード)[4]と結婚し何人かの子供をもうけた[注釈 1]。そのうち息子はカール、カールマンの2人が成人した。
ピピンの宮廷革命
741年に父のカール・マルテルが死去し、権力はピピンと兄のカールマンの2人に継承された。庶子のグリフォにも割り当てがあった可能性はあるが、この異母弟はピピンとカールマンによってヌシャトー(en)に軟禁された[6]。また、743年にはピピンとカールマンはメロヴィング朝のキルデリク3世を国王に擁立した[7]。747年に兄カールマンは自ら修道院での隠棲を望んでアウストラシア宮宰を辞したため[8]、ピピンは宮宰としてフランク王国の実権を握った[7]。そして彼はローマ教皇ザカリアスに「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」と尋ね、実権を持つものが王となるべきという回答を得た[9][10]。これを背景に751年11月、ピピンはソワソンでフランク族の貴族たちによってフランク王に選出され[11]、マインツ大司教ボニファティウスによって塗油された[12][13]。キルデリク3世は髪を切り落とされサンベルタン修道院に[14]、王子テウデリクはサン=ヴァンドリーユ修道院にそれぞれ幽閉され[11]、メロヴィング朝は断絶した。
ピピンは多くの土地を征服し、その権威はクロヴィス1世以来最も高まっていたが、754年にローマ教皇ステファヌス2世が彼をローマ貴族(パトリキ)に叙し[15]、パリのサン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した[11]ことで更に増した。このときピピンは王位の世襲を望み、ステファヌス3世は息子のカールとカールマンにも塗油を行なった[11][12][13]。
ピピンの寄進
ピピンは王位承認の見返りの一環として、754年から755年にかけてランゴバルド王国のアイストゥルフスと戦い、ラヴェンナを奪って756年に教皇ステファヌス3世に献上した[11][16]。これはピピンの寄進と呼ばれ、後の教皇領の元となった[11]。また759年にはナルボンヌを奪還してサラセン人(イスラム帝国)をフランスから駆逐することに成功し[17]、さらにアキテーヌも王国に組み入れた[18][19]。
768年にピピンはサン=ドニで死去し、サン=ドニ大聖堂に葬られた[20]。
子女
ベルトラダとの間に以下の子女をもうけた[21]。
- カール(742年 - 814年) - フランク王。カールの生誕年やピピンとベルトラダの結婚年には諸説ある。それ故にカールはピピンの婚前子で母はベルトラダ以外の女性という説がある。
- カールマン(751年 - 771年) - フランク王
- ピピン(756年 - 762年)
- ギゼラ(757年 - 811年) - シェル女子修道院長
- ベルト
- ロタイド
- アデライド
脚注
注釈
出典
- ^ 佐藤、p. 7
- ^ 柴田 他、p. 156
- ^ 成瀬 他、p. 64
- ^ a b 五十嵐、p. 30
- ^ 佐藤、p. 20
- ^ 柴田、p. 156
- ^ a b 五十嵐、p. 33
- ^ 瀬原、p. 16-17
- ^ 五十嵐、p. 35
- ^ 瀬原、p. 17
- ^ a b c d e f 柴田 他、p. 157
- ^ a b 成瀬 他、p. 69
- ^ a b 瀬原、p. 18
- ^ 五十嵐、p. 37
- ^ 五十嵐、p. 39
- ^ 瀬原、p. 19
- ^ 柴田 他、p. 158、年表p. 32
- ^ 佐藤、p. 17
- ^ 五十嵐、p. 45-47
- ^ 五十嵐、p. 47
- ^ Settipani, p. 185-7
参考文献
- 佐藤彰一 『世界史リブレット人29 カール大帝』 山川出版社、2013年
- 五十嵐修 『地上の夢 キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』 講談社選書メチエ、2001年
- 柴田三千雄 他 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
- 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』山川出版社、1997年
- 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
- Christian Settipani, La Préhistoire des Capétiens (Nouvelle histoire généalogique de l'auguste maison de France , vol. 1), Villeneuve d'Ascq, éd., 1993.
関連項目
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