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「杉戸宿」の版間の差分

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2021年5月13日 (木) 22:04時点における版

杉戸宿の位置(日本内)
杉戸宿
杉戸宿(本陣跡)

杉戸宿(すぎとじゅく)は、江戸日本橋)から5番目の奥州街道日光街道宿場町である。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町に位置した。

概要

江戸時代に整備され、宿場町に設置した。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。日光街道江戸日本橋から数えて5番目の宿場である。

沿革

近世以前

古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこがの木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。

近世

杉戸は「日本六十余州国々切絵図」によると幸手栗橋吉川を含み、下総国の国絵図にて描かれている[1]。この地域に残される区域の国郡名によると、寛永11年10月までは下総国猿島郡または葛飾郡と記されるが、同14年7月には武蔵国葛飾郡に編入されていた[2]

宿場自体は五街道の整備に伴い、宿場は街道に沿って町並みを構成し、町中は新町、下町、中町、上町、河原組、横町に分かれ、それぞれに名主問屋が置かれ、本陣脇本陣はいずれも中町に置かれていた。1843年天保14年)の改めによると、宿の往還は、長さ16町55間、道幅は5間、宿内家数365軒・人口1,663人、本陣1軒・脇本陣2軒、旅籠屋46軒(大4軒・中7軒)であった[3]

物資流通・商業施設

六斎市
1616年元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。

災害

安政江戸地震

杉戸宿では、安政2年10月2日安政江戸地震による被害があった。震度は、「VとVIの中間,それもVIに近い方とみられー(中略)ーこの地震では、荒川沿いに震度V以上の所が北にのび熊谷に達している」[4]。『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』 [5]によると、幸手宿周辺の村々の安政江戸地震の被害の記録があり、杉戸宿は家数589軒に対し、潰数0軒、人家土屋物置等潰同様207軒との被害があったという[6]

名所・旧跡等

現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的良く残り、旧宿場街の面影を感じさせる。

交通

隣の宿
  • 日光街道、奥州街道
粕壁宿 - 杉戸宿 - 幸手宿

脚注

  1. ^ 白井(1998)、121頁。
  2. ^ 白井(1998)、122頁。
  3. ^ 天保14年(1843年)『日光道中宿村大概帳』に拠る。
  4. ^ 宇佐美(1980)、87頁
  5. ^ 『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』は、京都大学文学部所蔵。
  6. ^ 宇佐美(1980)、87-89頁。

参考資料

古文書

  • 『安政二卯年十月、大地震ニ付潰家其外取調書上帳幸手宿村々』、京都大学文学部古文書室所蔵 
  • 『日光道中宿村大概帳』天保14年(1843年)。 

和書

  • 宇佐美龍夫「地震災害と地形・地質 2. 安政江戸地震における被害の微細分布: マイクロゾーニングのための一資料として」『土と基礎』第28巻第4号、地盤工学会、1980年、85-89頁。 
  • 白井哲哉「「日本六十余州国々切絵図」の地域史的考察-下総国絵図を事例に」『駿台史学』第104号、駿台史学会、1998年、117-130頁。 

関連項目