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'''西条酒蔵通り'''(さいじょうさかぐらどおり)は、[[広島県]][[東広島市]]西条地区にある通りの通称{{Sfn|西野|岡河|2012|p=2729}}。東広島市道西条本通線<ref name="chugoku20180317" />を構成する。 |
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2021年5月13日 (木) 22:21時点における版
西条酒蔵通り(さいじょうさかぐらどおり)は、広島県東広島市西条地区にある通りの通称[1]。東広島市道西条本通線[2]を構成する。
安土桃山時代から江戸時代初期に近世山陽道(西国街道)として整備された道であり宿場四日市宿の目抜き通りであった。JR西条駅の南の商業集積地群[3]の中を通り、地元住民の生活道路[4]の一つ。明治時代から盛んになった西条酒の生産拠点を東西に貫く通りで、2017年に「西条の酒造施設群」の名で日本イコモスの日本の20世紀遺産に選定された文化遺産群を構成する。
いつ頃から呼ばれだしたかは不明で、公式的な記載での最古としては1997年東広島市観光協会“酒蔵通り活性化事業”[5]になる。2002年東広島市教育文化振興事業団資料には“四日市の西国街道は現在も西条本通と呼ばれ”と記載され酒蔵通りの名が無い[4]ため、定着したのは2000年代以降のことになる。
本項では道路だけではなく周辺環境についても述べる。また近代までは「西條」名が一般的であったため本項では特に区別せず表記する。
構成
映像外部リンク | |
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東広島市の酒蔵 - 東広島市 | |
日本酒づくりの町 西条 - Japan in Motion |
諸元
この節の加筆が望まれています。 |
- 路線名 : 東広島市道西条本通線[2]
- 所在地
- 座標 : 西条駅南口交差点 北緯34度25分48秒 東経132度44分38秒 / 北緯34.43000度 東経132.74389度
- 標高 : 西条駅南口交差点 217.4m [7]
- 起点 :
- 終点 :
- 延長 :
- 幅員 :
文化遺産
日本の20世紀遺産「西条の酒造施設群」の構成資産は、西条酒蔵通りと、(五十音順で)賀茂泉酒造・賀茂鶴酒造・亀齢酒造・西條鶴醸造・山陽鶴酒造・白牡丹酒造・福美人酒造の7社の酒造施設・家屋・庭園など72件の文化財(2017年現在[17])からなる[6]。
- 国の登録記念物
国記念物 | 備考 | |
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賀茂泉酒造 |
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- 国の登録有形文化財
国有形 | 備考 | |
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賀茂泉酒造 |
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賀茂鶴酒造 |
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亀齢酒造 |
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西條鶴醸造 |
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国有形 | 備考 | |
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山陽鶴酒造 |
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白牡丹酒造 |
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福美人酒造 |
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国有形 | 備考 | |
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旧石井家住宅 |
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白牡丹所管。西条本町。 西条町下見旧石井家住宅とは別。 |
旧広島県 西条清酒醸造 支場 |
|
賀茂泉所管 |
小島屋 |
|
賀茂鶴の前身 |
交差する道路
交差する路線 | 交差する地点 | 交差点名 | 備考 |
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東広島市道土与丸御薗宇線 | 西条土与丸 | 土与丸 | |
東広島市道(大坪通り) | 西条上市町 , 西条本町 | ||
東広島市道(朝日町通り) | 西条本町 | ||
広島県道195号西条停車場線 | 西条駅南口 | ||
広島県道332号吉川西条線 | 西条西本町 |
交通センサス
国土交通省の資料にはこの沿道での交通量調査結果は公開されていない。
防災
東広島市が公開するハザードマップでは、1999年6.29豪雨災害や2005年平成17年台風第14号で実際に浸水した区域として半尾川および古川流域で通りより南側を図示している。その他の災害は想定されていない。
沿革
前史
この地の特徴的な地層として“西条層”と言われるものがある。地質時代は新生代第四紀で礫・砂・シルトがいわゆるミルフィーユ状に重なった層が約50mの厚さで存在し、その上の沖積平野の上に西条の町が形成されている[18]。以前の説では西条層は湖成、西条盆地は太古の昔は湖で西条層は湖成堆積物である、と言われていた[19][20]。現在では地質学研究の結果、湖成説は否定され河川成説、蛇行河川の堆積物であったことが有力となっている[18]。つまり、太古の昔この地には河川が流れていたことになる。
現在の西条駅南側にあった四日市遺跡で行われた発掘調査で、弥生時代の弥生土器・石器、古墳時代・古代の須恵器や古瓦が発見されていることなど、古くからこの地で人が生活を営んでいた事がわかっている[22]。四日市遺跡を遺構・生活地面でみると下から、弥生期/古代と中世/江戸中期/江戸後期/幕末から明治期/現代の層からなり、このうち江戸前期が見られないのは西国街道から少し外れている位置であるためと考えられている[22]。つまり、弥生時代から現代にかけてこの時代区分ごとに生活環境が変わっていったことになる[22]。
この地に古代山陽道が存在したが、そのルートは確証が得られていない[23]。現在有力な説では、上道とも言われる西条盆地の北側の山沿いを真っ直ぐ伸びるルートで、現在の西条町寺家付近に駅家“木綿駅”があったと考えられている[23][24]。現在の西条中心部からその東側にあった駅家“鹿附駅”へのルートは、古くは高屋町郷あるいは高屋町東高屋・西高屋[25]つまり北東側へ進む説が一般的であったが、近年では西条町上三永つまり南東側へ進む説[26]がある。
奈良時代この地には安芸国府があったとされ条里制がしかれていた頃、半尾川を境に「東條郷」「西條郷」[注 1]と呼ばれた。そこから合併して東西條となり、いつしか東が抜かれて西條と呼ぶようになったという[27][28]。
応安4年(1371年)今川了俊が九州探題として下向した際の紀行文『道ゆきぶり』には高屋に泊まり大山峠を通ったことは書かれている[30]が、この地のことは書かれていない。ただ了俊はこの地にあった中世山陽道を通って西へ向かったと推定されている[31]。同じ頃になる室町時代初期、定期的に市場が開かれていたことから「四日市」の地名がついたと言われており[12]、陸上交通の発達に伴い西条盆地の中心地として栄えていった[13]。
江戸後期に書かれた『芸藩通志』によると天正年間(1572年-1592年)に四日市は市駅となったという[32]。この中世末期の古文書に「さいちやう よつかいち」の記載がある[4]。信頼が置ける文献での四日市の初出は天正3年(1575年)島津家久が伊勢神宮参りの際に自身でつけた日記『家久君上京日記』であり、それには家久がこの地を通過したことが書かれている[27]。また『九州御動座記』によると天正15年(1587年)3月15日九州平定に向かう豊臣秀吉が四日市に宿泊している[33]。『芸藩通志』によると秀吉は旦過寺に宿泊したと伝えられており、旦過とは禅宗の行脚僧が用いた宿泊施設を意味し[34]当時交通の要所に建てられていたとされ、現在の西条駅の北側御建公園野球場の南西の墓地内の観音堂[注 2]がその跡と言われている[33][35]。
これらの歴史資料と発掘による調査から、戦国時代までの中世山陽道は現在の西条駅の北側にあったと考えられている[33]。文禄年間(1592年-1596年)この地を支配した毛利氏によって目代と呼ばれた市を管理する役人が置かれていた[27]。以上のことから、四日市という町は遅くとも1500年代後半には成立していたことになる[27]。現在の酒蔵通りの下には以前に建物があった跡が残っており、近世の町割の前に中世山陽道が主要道だった時代の町割があった[23]。
この中世山陽道は江戸時代初期に西国街道が整備されたことにより主要道としての役割を終え、部分的に埋められたりあぜ道となった[33]。
四日市宿
西条周辺の近世山陽道つまり西国街道は安土桃山時代から江戸初期に整備された[33]。野坂完山『鶴亭日記』によると毛利輝元時代の慶長4年(1599年)に四日市の町割が行われたとされている[23]。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後広島藩に入封した福島正則も藩内の交通網を積極的に整備している[14]。正則改易後の元和5年(1615年)入封した浅野氏初代藩主浅野長晟・寛永9年(1632年)から浅野氏2代藩主浅野光晟によって、寛永年間(1624年-1645年)に西国街道が完成した[32][14]。
当時四日市次郎丸村と呼ばれた四日市宿は、賀茂郡の中心となり郡用所が置かれ幕府公認の宿駅として広島藩含めて西国諸藩の参勤交代時の本陣(広島藩直営で御茶屋と呼ばれた)や脇本陣が置かれた[13]。当時の宿場の様子は『芸藩通志』や長州藩絵図方が作成した『行程記』、慶応元年(1865年)に書かれた『宿駅四日市町並絵図』に描かれており、宿場の範囲は西が半尾川・東が古川までで延長約870m、街道に添って細長く発達した[13][39]。常時伝馬は15疋[14]。宿場中央付近・現在の西条駅南口交差点の位置に枡形があった[13]。そこは幕府や藩の通達文を張り出す制札場として用いられた[13]。そこから南に牢屋があった[13]。
江戸初期においてこの付近の人の移動は海運が中心であり諸藩の参勤交代も船で行っていたため通行は少なかったが、1700年代初頭から増えていき1700年代半ばになるとこの地域の主幹道路としての地位を確立した[14][41]。参勤交代で陸路を使う藩が多くなり、寺社詣など旅行を楽しむ文化が根付いた江戸後期には宿場は賑やかに栄えたという[14][41]。『芸藩通志』によると四日市次郎丸村はドジョウが名物であった[39]。発掘調査から当時瀬戸内海沿岸部から珍しい海産物が入ってきていたことがわかっており、西国街道から、あるいは1700年代後半に整備された三津(安芸津)を結ぶ三津小往還(三津街道)から、物資が流入していたと考えられている[39]。
この地の酒造の歴史は四日市宿の歴史と重なると言われている[4]。西条酒造協会は1650年頃から始まったとしている[45]。嘉登屋島六郎兵衛晴正(白牡丹酒造)の創業年度[46]から、延宝年間(1673年-1681年)とも言われている[47]。この江戸初期に四日市で嘉登屋を含めて3軒あったという[4]。大田南畝の紀行文『小春紀行』の中に、長崎奉行所から江戸に帰る途中に四日市宿の島家(白牡丹)に泊まり、海田市で採れたカキ(広島かき)を肴に島家の酒を呑んだことが書かれている[48][49]。
ただし江戸期での四日市は酒処としてはローカルな存在に過ぎず、宿場内で消費されていたのみであった[50]。これは当時江戸幕府が酒造統制を行い酒株を持つもののみ生産・流通を認め、広島藩は国境を超えた米および酒の移出入を取り締まったためで、蔵元は限られ流通もままならなかった[51][52]。そのため当時の酒造業は、大量の米が流通し藩の保護下で行われていた広島(広島藩)や福山(備後福山藩)といった城下町や、年貢米の積み出しや西廻海運によって他藩米を積んだ廻船が入港するなど商品経済が発達した瀬戸内海沿岸の港町が中心であった[51][52][53][54]。
また四日市は宿場として栄えたとする反面、江戸後期になると停滞していたとも見られている。これは西廻海運において沖乗りという瀬戸内海の島々を伝って近道をする航路が開発され主流となったため物流がより南へ移ったことで、航路から外れた共に広島藩領の三原や尾道が衰退しそこから広島への中継拠点であった四日市も衰退していった、と考えられている[55]。
『宿駅四日市町並絵図』には家屋165戸が描かれており、幕末時点で人口約700人未満と見られている[37]。江戸末期に出された『酒銘帖』によると、酒造家は嘉登屋(白牡丹)を含めて3軒があったという[55]。現存する蔵元の中には江戸期に別業種として創業していたものもいる。
同じ頃、二度にわたる長州征討において四日市は幕府陸軍側の本陣が置かれた[55][37]。これによって四日市は好況した[55]。
酒都
近代に入り、西国街道はそのまま国道として引き継いだ[14]。内務省告示第6号「國道表」にて指定された国道4号「東京より長崎港に達する路線」に駅名として四日市の名がある。これがのちの国道2号となる。なお四日市から西條の名に変わったのは町制施行した1890年(明治23年)のことである[21]。
この時期西条において酒造業が異常とも言える成長[59]をし、沿道は大きく様変わりする。その主な流れは以下の通り。
- 幕府権力が弱まった幕末から酒株制が廃止となった明治維新後に酒造を始める。特にこの地では財を持ちわせた地主が始めたとされ、嘉登屋島氏(白牡丹)の向かいの小島屋木村氏(賀茂鶴酒造)が、その隣の吉田屋石井氏(亀齢酒造)が、と隣がやるならうちもやろうと酒作りを始めていったという[55][42]。
- 1894年(明治27年)山陽鉄道(山陽本線)西条駅が開業したことによりそれまでの船運に代わり鉄道による大量かつ遠方運搬が可能になった[6][42][60]。
- 三津(安芸津)の酒造家三浦仙三郎による広島の水にあう醸造法、佐竹製作所(サタケ)の佐竹利市による精米の機械化、この2つの発明により安定して銘酒を作れるようになったため更に酒造を始めるものが出てくる[6][42]。(西條鶴醸造・賀茂泉酒造・山陽鶴酒造)
- 1907年(明治40年)から始まった日本醸造協会主催の全国清酒品評会、1911年(明治44年)から始まった酒類総合研究所主催全国新酒鑑評会で好成績を収めることでブランドとして確立し需要拡大[6][61]。
- 旧来の家業の延長であった酒造を株式会社化するなど経営・施設の近代化[60][61]。(福美人酒造)
西条駅誘致の中心人物は賀茂鶴の木村和平である[42][21]。鉄道敷設が計画されたとき四日市宿時代から宿泊業を生業とした商家は、鉄道によって人が町に寄らず通過するだけになって宿泊客が減少するとして反対しており、これを和平が説得して回った[21]。また駅をできるだけ中心部に近い位置に置くため、自ら所有していた土地を提供し祇園社を移転させた[21]。これが現在の御建神社になる。実際、駅が開業すると通り沿いの旅館や料理屋の廃業が続出した[12]。
明治後半から大正にかけて通り沿いの商家から酒造を始めた蔵元は、2つの発明によるものに加えて、米・水・気候が揃う西条を酒の名産地にしようと町の有志に酒造を勧めた木村和平・木村静彦親子の影響で始めたという[61]。需要拡大に伴い、通り沿いから外側へと生産拠点が拡大した。いくつかの蔵元では通りの北側である線路沿いに拠点を置き引込線を用いて蔵から直接貨車に運び入れる手法を取った[61][62]。西条の蔵元のほとんどが通り沿いに創業蔵/1号蔵があるのに対し、こうした近代化の中で創業した福美人は通りよりも線路側に1号蔵がある。
兵庫県の灘・京都府の伏見とともに西条が「日本三大銘醸地」と言われるようになるのはこれら近代のことになる[53]。西条を訪れた河東碧梧桐が1932年(昭和7年)『サンデー毎日』紙面上で「酒の新都」と紹介した[63]ことから、「酒都」を称するようになる[64]。三浦仙三郎の醸造法と昭和初期に佐竹製作所が開発した竪型精米機は今日の吟醸酒造りの元となった技術であり、それらを持って西条および安芸津で吟醸造りを育ててきたことから、現在東広島市は「吟醸酒のふるさと」と称している[42]。
一方、大正末期から発達した自動車[14]によって国内の交通整備は新たな局面に移り、戦後新たな国道2号が整備され1952年(昭和27年)この通りは国道2号から格下げとなった。
観光資源
現代に入り周辺環境は大きく変化したが、その要因はいくつか挙げられる。
- 1974年賀茂郡西条町・志和町・高屋町・八本松町の町村合併から市制施行した東広島市は、広島大学および私学数校による“賀茂学園都市構想”、ハイテク産業を中心とした“広島中央地域テクノポリス構想”、山陽新幹線東広島駅開業や山陽自動車道開通など広域交通網整備により、産業構造は変化し人口は増え環境は大きく変化した[66]。2003年には駅前から広島大学へと向かうメインストリート”ブールバール”が整備されている[67]。
- 日本酒の消費量は1958年を境に減少が続いている[68]。広島県における酒造業も減退傾向にあり、生産量ランキングでみると1924年時点で兵庫に次いで全国2位(福岡と同位)に位置していた[69]が2015年時点の製成数量(20度)で兵庫・京都・新潟・埼玉・秋田・愛知・福島・東京に次ぐ9位[70]にまで落ちている。この間、西条の酒造メーカーの中には地区外へ酒蔵を増設するものもあったが、1990年代初頭つまり平成バブルを境に止まり以降効率化を進めている[62][71]。
1950年代まではこの通りの商店街は活況を呈していた[5]。ただこうした経緯から1960年代から1970年代にかけて沿道の古い商店が廃業していったことで商店街の衰退が始まり、更に1980年代市内にロードサイド店舗の出店が相次ぎ郊外化が進んだことで、通り周辺はドーナツ化現象が進行した[5][67][72]。これに市によって1995年から駅前再開発が始まり2003年ブールバールによって通りは東西に完全に二分された[67]。
その中でこの通り沿道にあった古い町家がマンションや駐車場化するなど、宿場時代からの歴史的な町並は大半が失われ地区の空洞化が進んでいった[67][72][10]。
こうした状況下で、商工会・商店街としては街の顔というべき駅前の活性化[5]、それに加えて酒造協会・酒造メーカーとしては日本酒の人気回復策[62]として、「酒都」を観光資源として活用していくことになる。
- 最初の活動としては1988年、東広島青年会議所が観光用地図「西条てくてくマップ」を作成したものになる[5]。
- 全国的にも珍しい酒をテーマとした「酒まつり」は、東広島市が市制施行した時から市が主催していた“みんなの祭り”と、西条酒造協会が主催していた酒造祈願祭“西条酒まつり”とを合併させ、酒に特化した祭りとして1990年から毎年開催している[66][73]。現在では観光協会が主催し、酒造協会・自治体・商工会・青年会・JA・酒類総合研究所・ほか市内団体が協力するなど市を挙げて行われ、開催2日で20万人以上の動員が見込める重要な地域活性化イベントとして発展し、酒都ブランドのイメージ確立に繋がった[66][10]。
- 1997年観光協会「酒蔵通り活性化事業」開始。1999年市は「東広島市中心市街地活性化基本計画」を作成、これを受けて翌2000年商工会議所は「東広島商業タウンマネージメント計画(TMO構想)」を作成[5]。
- 酒造メーカーは使わなくなった余剰施設をカフェや体験場など他目的に転用している[62]。1997年賀茂輝が空いた酒蔵を用いて陶芸家の展示場を公開したことから始まり、賀茂泉酒泉館・藍泉館は旧県西条清酒醸造支場施設群を1976年に買い取り空き家のままであったものを2000年国民文化祭ひろしまに合わせ公開した[71]。2002年ごろから観光協会の働きかけで各酒造メーカーは仕込み水用井戸の一般公開を始めた[62]。
- こうした景観の保全は民間努力によるところが大きく[74]、景観条例整備が遅れていることなど行政側の対応が後手に回ってきたのも事実である[10]。
2013年から始まった観光庁“酒蔵ツーリズム”外国人向けの日本酒をテーマとした観光展開では初期からモデルケースの一つとして紹介されている[75]。
こうした中で地元住民による景観保全への意識が高まっていき重要伝統的建造物群保存地区選定へ向けて動きその前哨戦として日本遺産への認定を目指していた[42]。まず前段階として2016年・2017年に酒造関連施設が国の登録有形文化財に登録された[42]。そこへ2017年12月「西条の酒造施設群」として日本の20世紀遺産に選定された[42]。
観光
酒蔵ツーリズム
当地は観光庁酒蔵ツーリズムのモデルケースの一つである。そのPRポイントは以下の通り。
- 気軽に楽しめるまち並み散策[11]。
- 西条駅南の東西約800m内に7社の酒蔵が建ち並び、遠い所でも駅から歩いて10分以内で着くことができる。
- 市観光案内所ボランティアによる案内
- 多彩な楽しみ方[11]
- 酒蔵見学・体験施設
- 遊休酒蔵をリノベーションした飲食店
- 美酒鍋や各蔵それぞれで作られるグルメ
- イベント[11]
- 市民や学校による酒造りの伝承・PR[11]
- 西条酒造り唄や学校側が制作した劇・オペラなどを披露。西条酒#文化参照。
- 仕込み水めぐり[11]
- 各酒蔵で酒仕込水井戸を試飲用として開放している。西条酒#背景参照。
- 西条・山と水のグランドワーク[11]
- 2001年から西条酒造協会のメーカーは西条酒が生まれる里山環境を保全するため「西条・山と水の環境機構」を設立、現在は地元の産官民学が絡んだ体制になり一体となって保全活動を行っている[77]。
- のん太[11]
- 東広島市のゆるキャラ。西条酒#文化参照。
景観
西条の酒造メーカーは西条駅前の酒蔵通りに集中するという、全国的に見ても特異な状況にある[42]。これは各蔵元が酒造を始めた当時はよい仕込水がこの付近の井戸からしか得られなかったこと[42](西条酒#背景参照)と、上記のとおり元々西国街道沿いで他業種を営んでいた商家だったものたちが先に酒造を始めた蔵元の呼びかけで酒造を始めたためである。
通り沿いの建物は国内の旧宿場町に見られる間口が狭く奥行きの長い“うなぎの寝床”に配置されている[4]。1974年にこの地区を調査した明治大学神代雄一郎研究室は当時の様子をこう記しており、現在でも見ることができる。
赤瓦は県内でも特に西条盆地に見られる。これは古くからこの地で油石が採れたこと、冬は雪が降るほどの気候であるため寒さに強い石州瓦が採用されたこと、この2つから釉薬瓦が生まれて明治末期から昭和初期の茅葺から瓦葺に変わる時期に普及した[78][79]。西条の蔵元が石州(島根県)から瓦職人をこの地に呼び寄せて作らせたと言われている[79]。
酒蔵は一般に開放蔵と呼ばれるもので、2階建の高層に温度調節のため格子戸の高窓が特に北側に多く設けられ、湿度調整にもなる厚い土壁になまこ壁など漆喰で処理されていることなど、盗難・火災防止に加え外気温の影響をなるべく受けないよう酒にとって良い環境となるよう様々な工夫が採られている[43][80]。江戸期の酒蔵は白牡丹のみ所有し[81]、1675年(延宝3年)開業当時のものから部分的に改築された延宝蔵(創業蔵)[44]、天保年間(1830年から1844年)に建てられた天保蔵[82]の2つになる。その他の蔵元のものは明治時代以降に建てられたものである[81][83]。
そして大正から昭和初期に建てられた赤レンガの煙突が2018年現在全部で12本ある[84]。ほぼ角型煙突で円型は亀齢七号蔵煙突のみ[85]、最も高いのが福美人三号蔵煙突の27m[86]。西条の南の安芸津町から竹原市にかけてレンガの産地[52]であり、西条の煙突のレンガは安芸津で作られた物が多い[87]。煙突の下には酒米を蒸す大きな釜があった[88]。ただしレンガ煙突を現役で利用しているのは西條鶴のみになり[88][89]、ほとんどの蔵元では広告塔の役割だけを果たしている。また同時期に作られた白い鉄筋コンクリート煙突もあり、代表例としては賀茂泉が所管する旧広島県西条清酒醸造支場のものになる[90]。
同時期に建てられた洋館も多く残り、現在でも事務所などに用いられている[84]。これらのうち、旧県西条清酒醸造支場/現在の賀茂泉酒泉館、賀茂鶴本社事務所、現存しない旧西条町役場の設計は地元建築家の豊田勉之[注 3]によるものと言われている[91]。西条の洋館はこれら官公庁にならって建てていったとされ[84]、他の設計にも豊田が大きく関わっている可能性が高いと指摘されている[91]。
明治・大正期当時の様子を最も残すのは西條鶴[92][93]である。東端にあたる賀茂泉は早くから建物の一般公開に踏み切った経緯もあるため、他の蔵元に比べて一般公開領域・種類共に多い[94]。
その他の沿道にも古い町家が残っている半面、西条駅前という立地から行政主導の区画整備事業・民間による宅地開発や駐車場化が進み景観の連続性が失われている[67][42][10]。東側の酒蔵が集中する地区は町並み整備が先行しているのに対し西側は整備が遅れており[95]、2003年駅前からのメインストリート”ブールバール”が整備され酒蔵通り一帯は完全に東西に二分された[67]。かつて賀茂輝があったのもこの西側で2018年現在山陽鶴のみになる。その西側は遅れていることを逆手に取り、昭和の雰囲気が残る風景を活かす方向で模索している[95]。一方で広島大学がここから南西方向にある関係から、西条岡町の中央通りは南に向かって歓楽街を形成している。
ギャラリー
-
西条酒造協会
-
白牡丹の煙突
-
左が亀齢精米所、右が亀齢七号蔵、奥は福寿院円通寺
-
福美人「福神井戸」
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ 西野 & 岡河 2012, p. 2729.
- ^ a b “酒蔵通りの景観整備 東広島市”. 中国新聞 (2018年3月17日). 2018年5月3日閲覧。
- ^ “東広島市 (13 商店街)” (PDF). 広島県. 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g “阿岐のまほろば vol.25” (PDF). 東広島市教育文化振興事業団 (2002年3月28日). 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b c d e f “酒蔵通りふぁんくらぶ 活動実績” (PDF). すまいづくりまちづくりセンター連合会. 2018年5月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 日本イコモス 2017, p. 8.
- ^ 地理院地図 - 国土地理院
- ^ “酒まつり” (PDF). 東広島市 (2012年). 2018年5月3日閲覧。
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関連項目
- 日本盛酒蔵通り煉瓦館 - 兵庫県
- 高野街道 - 大阪府
外部リンク
- 西条酒蔵通り情報 - 東広島市
- のん太の独り言・酒蔵開放状況 - 西条酒造協会