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ピート・タウンゼントのロック・オペラは、多くのミュージシャンに影響を与えた。[[作曲家]]の[[アンドルー・ロイド・ウェバー]]もその一人で、作詞家の[[ティム・ライス]]と組んで、『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』を作曲。[[1970年]]、コンセプト・アルバムとして録音・リリース。アルバムのヒットで得た資金で、[[1971年]]には舞台化した。『ジーザス・クライスト・スーパースター』も広告で「ロック・オペラ」と謳っていたが、ブロードウェイで有名になると、ロック・ミュージカルと呼ばれるようになった。だが、日本では株式会社「劇団四季」が複数回上演することで、商業主義の娯楽作と見られるようになってしまった。 |
ピート・タウンゼントのロック・オペラは、多くのミュージシャンに影響を与えた。[[作曲家]]の[[アンドルー・ロイド・ウェバー]]もその一人で、作詞家の[[ティム・ライス]]と組んで、『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』を作曲。[[1970年]]、コンセプト・アルバムとして録音・リリース。アルバムのヒットで得た資金で、[[1971年]]には舞台化した。『ジーザス・クライスト・スーパースター』も広告で「ロック・オペラ」と謳っていたが、ブロードウェイで有名になると、ロック・ミュージカルと呼ばれるようになった。だが、日本では株式会社「劇団四季」が複数回上演することで、商業主義の娯楽作と見られるようになってしまった。 |
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[[1983年]]にはまだ社会主義国だった[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]でロック・オペラ映画『[[国王イシュトヴァーン]]』が公開された。映画撮影のためだけに[[ブダペスト]]の中央公園である[[ヴァーロシュリゲット|ヴァーロシュリゲト]]で上演したものだったが空前の大ヒットだったため、その後舞台でも頻繁に上演されるようになった。[[1000年]]ないし[[1001年]]に戴冠した[[ハンガリー王国|ハンガリー]]初代国王[[イシュトヴァーン1世|イシュトヴァーン]]が国王になるまでの物語だが、登場人物やシーンの構成が『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』を彷彿とさせている作品となった。作者は当初は映画の冒頭に「そしてその一千年後…」と表示するかどうか考えたと言う。結局さらにこのイシュトヴァーンの物語から千年後には[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]が勃発するわけで、この作品は千年前の[[イエス・キリスト|イエス]]と[[イスカリオテのユダ|ユダ]]との対立の物語を念頭に置きながら[[イシュトヴァーン1世|イシュトヴァーン]]と[[:hu:Koppány vezér|コッパーニュ]]の戦いを描くことで[[カーダール・ヤーノシュ]]と[[ナジ・イムレ]]首相の対立の悲劇を[[暗喩]]的に描いたものである。日本ではこの作品は公開されなかったが、当時この作品の成功は報道されている<ref>[[深谷志寿]]:「文化 ― ロック・オペラにハンガリー国民“熱狂” ― 史話劇『国王イシュトヴァーン』、『[[朝日新聞]]』,[[1985年]][[2月13日]](水)付[[夕刊]]5面「文化」</ref>。 |
[[1983年]]にはまだ社会主義国だった[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]でロック・オペラ映画『[[国王イシュトヴァーン]]』が公開された。映画撮影のためだけに[[ブダペスト]]の中央公園である[[ヴァーロシュリゲット|ヴァーロシュリゲト]]で上演したものだったが空前の大ヒットだったため、その後舞台でも頻繁に上演されるようになった。[[1000年]]ないし[[1001年]]に戴冠した[[ハンガリー王国|ハンガリー]]初代国王[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン]]が国王になるまでの物語だが、登場人物やシーンの構成が『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』を彷彿とさせている作品となった。作者は当初は映画の冒頭に「そしてその一千年後…」と表示するかどうか考えたと言う。結局さらにこのイシュトヴァーンの物語から千年後には[[1956年]]の[[ハンガリー動乱]]が勃発するわけで、この作品は千年前の[[イエス・キリスト|イエス]]と[[イスカリオテのユダ|ユダ]]との対立の物語を念頭に置きながら[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン]]と[[:hu:Koppány vezér|コッパーニュ]]の戦いを描くことで[[カーダール・ヤーノシュ]]と[[ナジ・イムレ]]首相の対立の悲劇を[[暗喩]]的に描いたものである。日本ではこの作品は公開されなかったが、当時この作品の成功は報道されている<ref>[[深谷志寿]]:「文化 ― ロック・オペラにハンガリー国民“熱狂” ― 史話劇『国王イシュトヴァーン』、『[[朝日新聞]]』,[[1985年]][[2月13日]](水)付[[夕刊]]5面「文化」</ref>。 |
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[[ピーター・ガブリエル]]が中心だった頃の[[ジェネシス (バンド)]]も『[[眩惑のブロードウェイ]](ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ)』という大作を発表した。[[ニューヨーク]]に住むラエルという非行少年が地底世界に迷い込み、失っていた自分の一部を探すという内容で、欲望、奇怪なクリーチャー、狂気、救いとストーリーは転がってゆく。 |
[[ピーター・ガブリエル]]が中心だった頃の[[ジェネシス (バンド)]]も『[[眩惑のブロードウェイ]](ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ)』という大作を発表した。[[ニューヨーク]]に住むラエルという非行少年が地底世界に迷い込み、失っていた自分の一部を探すという内容で、欲望、奇怪なクリーチャー、狂気、救いとストーリーは転がってゆく。 |
2021年5月24日 (月) 20:45時点における版
ロック・オペラ(Rock operas)とは、ロック版オペラのことである。
歴史
それまでのロック・アルバムでは、収録されている曲はそれぞれが独立した曲で、相互の関連性もなかった。それに対し、一貫したストーリーを持たせたのが、ロック・オペラやコンセプト・アルバム[1]などである。コンセプト・アルバムはストーリーの統一と、テーマの一貫性があれば成り立つが、ロック・オペラの歌詞はキャラクターの一人称形式をとる場合が多い。
音楽・演劇の専門書の中で、「ロック・オペラ」という言葉は誤りである、と指摘されたことがある。オペラを「役を演じる歌手たちによって展開されるドラマ」と定義するならば、ロック・オペラはまさにそれに当てはまる。逆に、歌手が役を演じるのでなく、ストーリーの内容を歌うだけならば、それはロック・オペラではない。
1960年代
1966年、カナダでロック・オペラという言葉が、トロントの雑誌「RPMマガジン」1966年7月4日号に載った。「ブルース・コバーンと(ウィリアム・)ホーキンス氏がロック・オペラの準備中」と報道したのが初期の例である[2]。
同じく1966年、ザ・フー[3]のギタリスト、ピート・タウンゼントと仲間たちが、非公式の集まりで使ったのが最初だと言われている。そこでタウンゼントは、ザ・フーのマネージャーのキット・ランバートのために冗談で作った『Gratis Amatis』というテープを流した。仲間たちは大笑いし、その中の一人が言った。「その変な歌はまるでロック・オペラだな」。それを聞いたランバートも「そいつはいい!」と言った[4]。
他のロックのジャンルと区別される「ロック・オペラ」の原型を最初に作ったのは、やはりピート・タウンゼントだった。それは、ザ・フーのセカンド・アルバム『ア・クイック・ワン』(1966年)に収録されている『A Quick One While He's Away』という曲で、9分という長さの中に、アイヴァーという名前の機関士(歌うのはジョン・エントウィッスル)が若いガイドの娘(歌タウンゼント)を誘惑するというオペラ的なストーリーが語られていた。
一方、1967年5月には、イタリア、ローマのパイパー・クラブで、ティート・スキーパ・ジュニアが、ビート・オペラなる『ゼン・アン・アレイ/Then an Alley』を企画・上演した。バックに「ボブ・ディランの曲18曲を流した」この作品は、イタリア国内で話題になったが、それ以外の国で話題になることはなかった。スキーパ・ジュニアはさらに『Orfeo 9』という舞台作品を書いた。これが最初の「イタリア語の」ロック・オペラで、初演は1970年1月だった。『Orfeo 9』は2枚組アルバムと、テレビ映画[5]になった。ちなみにテレビ映画の音楽監督は、後のアカデミー賞受賞者ビル・コンティ[6]だった。
1968年、イギリスのロックバンド、ザ・プリティ・シングスが『S.F. Sorrow』というアルバムをリリースした。このアルバムで何よりの価値があったのは、一つの物語体のコンセプトを持っていたことで、ロック・バンドによる最初の試みであった。あらすじは、セバスチャン・F・ソローという人物が主人公の成年向けの話だが、後のロック・オペラほど筋は通っていなかった。ヒッピー・ミュージカル「ヘアー」はロック・オペラとは呼ばれず、ロック・ミュージカルと呼ばれた。1960年代後半の『ヘアー』はヒット作になった。ヘアーは反戦、ヒッピー、フリーセックス、フリーラヴがテーマで、ヌードシーンも登場する。「The American Tribal Love-Rock Musical」という副題がつけられた『ヘアー』は、1967年、ジョセフ・パップ・パブリック・シアターで初演された[7]。
1969年、ザ・フーが『トミー』をリリース。『トミー』こそ本格的なロック・オペラの第1号で、広告にもはっきりと「ロック・オペラ」と謳っていた(ただし、いくつかの広告には「トミー(1914-1984)」と書かれてあった)。同作品には「ピンボールの魔術師」「シー・ミー・フィール・ミー」などの優れた曲が含まれていた。「ピンボールの魔術師」は76年にエルトン・ジョンのカバーで、日本でも小ヒットしている。曲の大部分はタウンゼントが作曲している。ベースのジョン・エントウィッスルが2曲、ドラムスのキース・ムーンが1曲、作曲したことになっているが、実際にはタウンゼントが書いていたようだ[8]。その中の『光を与えて(The Hawker)』には、ブルース歌手サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの初期の曲『Eyesight to the Blind』が組み入れられている。『トミー』は今も変わらずロック・オペラの代表作で、コンサート、映画、バレエ、舞台化されている。ザ・フーはさらに『四重人格』(1973年)も発表し、これも映画化されている。2006年発表のアルバム『Endless Wire』に収録されているタウンゼンド作曲のミニ・ロック・オペラ『Wire & Glass』は、より大きなコンセプトを持つロック・オペラ『The Boy Who Heard Music』の一部に使われた。
1970年代以降
ピート・タウンゼントのロック・オペラは、多くのミュージシャンに影響を与えた。作曲家のアンドルー・ロイド・ウェバーもその一人で、作詞家のティム・ライスと組んで、『ジーザス・クライスト・スーパースター』を作曲。1970年、コンセプト・アルバムとして録音・リリース。アルバムのヒットで得た資金で、1971年には舞台化した。『ジーザス・クライスト・スーパースター』も広告で「ロック・オペラ」と謳っていたが、ブロードウェイで有名になると、ロック・ミュージカルと呼ばれるようになった。だが、日本では株式会社「劇団四季」が複数回上演することで、商業主義の娯楽作と見られるようになってしまった。
1983年にはまだ社会主義国だったハンガリーでロック・オペラ映画『国王イシュトヴァーン』が公開された。映画撮影のためだけにブダペストの中央公園であるヴァーロシュリゲトで上演したものだったが空前の大ヒットだったため、その後舞台でも頻繁に上演されるようになった。1000年ないし1001年に戴冠したハンガリー初代国王イシュトヴァーンが国王になるまでの物語だが、登場人物やシーンの構成が『ジーザス・クライスト・スーパースター』を彷彿とさせている作品となった。作者は当初は映画の冒頭に「そしてその一千年後…」と表示するかどうか考えたと言う。結局さらにこのイシュトヴァーンの物語から千年後には1956年のハンガリー動乱が勃発するわけで、この作品は千年前のイエスとユダとの対立の物語を念頭に置きながらイシュトヴァーンとコッパーニュの戦いを描くことでカーダール・ヤーノシュとナジ・イムレ首相の対立の悲劇を暗喩的に描いたものである。日本ではこの作品は公開されなかったが、当時この作品の成功は報道されている[9]。
ピーター・ガブリエルが中心だった頃のジェネシス (バンド)も『眩惑のブロードウェイ(ザ・ラム・ライズ・ダウン・オン・ブロードウェイ)』という大作を発表した。ニューヨークに住むラエルという非行少年が地底世界に迷い込み、失っていた自分の一部を探すという内容で、欲望、奇怪なクリーチャー、狂気、救いとストーリーは転がってゆく。
ピンク・フロイドのロック・オペラ『ザ・ウォール』は1,900万[10]を売り上げた。曲を書いたのは主にロジャー・ウォーターズである。『トミー』と同じく、『サ・ウォール』も大がかりなセットを使ったパフォーマンスが行われた(1980年と1981年にピンク・フロイドによって、1991年にウォーターズによってベルリンの壁で)。また、そのプロットを使って長編映画『ピンク・フロイド ザ・ウォール』が作られた。ウォーターズはさらにブロードウェイ・スタイルのものにも潤色している。
他には、1996年、ジョン・マイナーがロック・オペラ『Heavens Cafe』をラスベガスのフラミンゴ劇場で上演。2004年にはロサンゼルスで再演された。
ファット・ボーイズはラップ・オペラを制作している。また、パンク・ロック・バンド、グリーン・デイは、2004年の反戦アルバム『アメリカン・イディオット』でロック・オペラ作品を発表した。同作品は、大統領ブッシュの戦争を批判したものである。
ロック・オペラはさまざまな言語で制作されてきた。たとえば、スペインのロック・グループ、マゴ・デ・オズの『Gaia II - La Voz Dormida』(2005年)などである。
2005年9月22日、ロック・バンドのLudoがリリースしたロック・オペラ『ブロウクン・ブライド/Broken Bride』は、ザ・トラベラーと呼ばれる男が愛する人を亡くして、数年後タイム・マシーンで彼女を救いに時間を遡るというストーリーである。彼の旅が年代記的に語られていく。2006年にニュー・ジャージーの4人組ロックバンド、マイ・ケミカル・ロマンスは、癌を患った男を主人公としたオルタナティブ・ロック・オペラ『ザ・ブラック・パレード』を発表した。
脚注
- ^ ビートルズのサージェント・ペパーズが初期の作品である
- ^ Maconie, Stuart (2013). The People’s Songs: The Story of Modern Britain in 50 Records. p. 167
- ^ 「サマー・タイム・ブルース」などの代表曲がある
- ^ 原文(英語版)には書かれていないが、1996年に再発されたCD『トミー』のライナー・ノートに寄せられた、リチャード・バーネスの『Deaf, Dumb and Blind Boy』という一文が出典である
- ^ IMDB
- ^ 「ロッキー」のテーマをヒットさせた
- ^ Kenrick, John, "Rock: 'The Age of Aquarius'" article at the Musicals101 website
- ^ http://www.thewho.net/discography/songs/TommysHolidayCamp.html
- ^ 深谷志寿:「文化 ― ロック・オペラにハンガリー国民“熱狂” ― 史話劇『国王イシュトヴァーン』、『朝日新聞』,1985年2月13日(水)付夕刊5面「文化」
- ^ 売り上げの数字に関しては、ザ・ウォールを参照のこと。