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| 画像説明 = ハンガリーに逃亡した兄[[ウラジーミル・ムスチスラヴィチ (キエフ大公)|ウラジーミル]]を迎えるエフロシニアと夫[[ゲーザ2世]] |
| 画像説明 = ハンガリーに逃亡した兄[[ウラジーミル・ムスチスラヴィチ (キエフ大公)|ウラジーミル]]を迎えるエフロシニアと夫[[ゲーザ2世 (ハンガリー王)|ゲーザ2世]] |
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| 在位 = [[1146年]] - [[1162年]] |
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| 埋葬地 = {{HUN1000}}、[[セーケシュフェヘールヴァール]] |
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| 結婚 = [[1146年]] |
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| 配偶者1 = [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ゲーザ2世]] |
| 配偶者1 = [[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ゲーザ2世 (ハンガリー王)|ゲーザ2世]] |
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| 配偶者2 = |
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| 子女 = [[#子女|一覧参照]] |
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== 生涯 == |
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[[1146年]]、16歳の時に[[ハンガリー王]][[ゲーザ2世]]と結婚し、王妃となった。2人の間には7人の子が生まれ、そのうち2人は後にハンガリー王となった。ゲーザ2世は1162年に死亡するが、エフロシニヤはその後も24年間生き永らえた。[[1186年]]に、王位継承問題闘争を原因として、息子のうちの1人である[[ベーラ3世]]によって[[ブラニチェヴォ郡|ブラニチェヴォ]]の要塞に幽閉され、さらに[[ビザンツ帝国]]へ移送された。その後すぐに[[エルサレム]]のイオアン修道院{{refnest|group="注"|「イオアン修道院」は{{lang|ru|монастыря иоаннитов}}の直訳による。}}の[[修道女]]となったことが判明している。 |
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== 子女 == |
== 子女 == |
2021年5月24日 (月) 21:06時点における版
エフロシニヤ・ムスチスラヴナ Ефросинья Мстиславна | |
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ハンガリー王妃 | |
在位 | 1146年 - 1162年 |
出生 |
1130年 キエフ大公国 |
死去 |
1186年 ハンガリー王国 |
埋葬 | ハンガリー王国、セーケシュフェヘールヴァール |
結婚 | 1146年 |
配偶者 | ハンガリー王ゲーザ2世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | リューリク家 |
父親 | キエフ大公ムスチスラフ1世 |
母親 | リュバヴァ・ドミトリエヴナ |
エフロシニヤ・ムスチスラヴナ(ロシア語: Ефросинья Мстиславна、1130年 - 1186年)はキエフ大公ムスチスラフ1世と、その2人目の妻リュバヴァ(ru)(ノヴゴロドのポサードニク・ドミトル(ru)の娘)との間の子である。1146年から1162年まで、アールパード朝ハンガリー王国の王妃の座にあった。
生涯
1146年、16歳の時にハンガリー王ゲーザ2世と結婚し、王妃となった。2人の間には7人の子が生まれ、そのうち2人は後にハンガリー王となった。ゲーザ2世は1162年に死亡するが、エフロシニヤはその後も24年間生き永らえた。1186年に、王位継承問題闘争を原因として、息子のうちの1人であるベーラ3世によってブラニチェヴォの要塞に幽閉され、さらにビザンツ帝国へ移送された。その後すぐにエルサレムのイオアン修道院[注 1]の修道女となったことが判明している。
子女
ハンガリー王ゲーザ2世との間に以下の子女をもうけた[注 2]。
- エルジェーベト(en)(1144/5年 - 1189年以降没) - ボヘミア公ベドジフ(en)と結婚。
- イシュトヴァーン3世(1147年 - 1172年) - ハンガリー王。
- ベーラ3世(1148年 - 1196年) - ハンガリー王。
- ゲーザ(en)(? - 1209年)
- オドラ - ボヘミア公スヴァトプルクと結婚。
- イロナ(en)(1158年 - 1199年) - オーストリア辺境伯レオポルト5世と結婚。
- マルギト(1162年生 - 1208年)
注釈
参考文献
- Brigitte Sokop:Stammtafeln europäischer Herrscherhäuser. 3. Aufl. Wien 1993.
- パムレーニ・エルヴィン編、田代文雄・鹿島正裕訳『ハンガリー史 2』(増補版)恒文社、1990年。