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バイエルン王家の遠祖[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ヨハン2世 (バイエルン公)|ヨハン2世]]は、女系をたどると[[コムネノス王朝|コムネノス家]]および[[ニカイア帝国|ラスカリス家]]の血を引いていた。ヨハン2世の母エリーザベトは[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]][[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]と[[エレオノーラ・ダンジョ]]の娘、エレオノーラは[[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王女[[マリア・ドゥンゲリア|マリア]]の娘であったが、マリアの父でヨハン2世の[[続柄|高祖父]]に当たるハンガリー王[[イシュトヴァーン5世]]の母が[[ニカイア帝国|ニカイア皇帝]][[テオドロス1世ラスカリス]]と皇后[[アンナ・アンゲリナ]]の娘[[マリア・ラスカリナ]]であったためである。</ref>、列強に対して中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させることになった。 |
バイエルン王家の遠祖[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ヨハン2世 (バイエルン公)|ヨハン2世]]は、女系をたどると[[コムネノス王朝|コムネノス家]]および[[ニカイア帝国|ラスカリス家]]の血を引いていた。ヨハン2世の母エリーザベトは[[ナポリとシチリアの君主一覧|シチリア王]][[フェデリーコ2世 (シチリア王)|フェデリーコ2世]]と[[エレオノーラ・ダンジョ]]の娘、エレオノーラは[[ナポリとシチリアの君主一覧|ナポリ王]][[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王女[[マリア・ドゥンゲリア|マリア]]の娘であったが、マリアの父でヨハン2世の[[続柄|高祖父]]に当たるハンガリー王[[イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン5世]]の母が[[ニカイア帝国|ニカイア皇帝]][[テオドロス1世ラスカリス]]と皇后[[アンナ・アンゲリナ]]の娘[[マリア・ラスカリナ]]であったためである。</ref>、列強に対して中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させることになった。 |
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[[1832年]]、オソンは18歳になって間もなく、当時ギリシャの首都が置かれていた[[ペロポネソス半島]]の[[ナフプリオ]]に上陸した。彼の周囲にはバイエルンの宮廷から連れてきた多くの廷臣たちがつき従っていた。新国家の財政については英仏露三国および[[ロスチャイルド家]]が保証することになったが<ref>K. F. Robert Schneider, ''Handbuch der Erdbeschreibung und Staatenkunde in ihrer Verbindung mit Natur- und Menschenkunde'', vol. 1 (3), 1857, [https://books.google.co.jp/books?id=vBdDAAAAcAAJ&pg=PA1943&dq=Otto+von+Wittelsbach+rothschild+1832&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=Otto%20von%20Wittelsbach%20rothschild%201832&f=false p.1943.]</ref>、彼らはギリシャの経済状況が思わしくないことを国王に示唆した。 新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重たいものだった。国王はギリシャの風習に何の興味も示さず、宗教も[[ギリシャ正教]]に改宗せず[[カトリック教会|カトリック]]を信仰し続けた。ただし、ギリシャの文化財流出を防ぐための「記念物法」は[[1834年]]に施行されている。 |
[[1832年]]、オソンは18歳になって間もなく、当時ギリシャの首都が置かれていた[[ペロポネソス半島]]の[[ナフプリオ]]に上陸した。彼の周囲にはバイエルンの宮廷から連れてきた多くの廷臣たちがつき従っていた。新国家の財政については英仏露三国および[[ロスチャイルド家]]が保証することになったが<ref>K. F. Robert Schneider, ''Handbuch der Erdbeschreibung und Staatenkunde in ihrer Verbindung mit Natur- und Menschenkunde'', vol. 1 (3), 1857, [https://books.google.co.jp/books?id=vBdDAAAAcAAJ&pg=PA1943&dq=Otto+von+Wittelsbach+rothschild+1832&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=Otto%20von%20Wittelsbach%20rothschild%201832&f=false p.1943.]</ref>、彼らはギリシャの経済状況が思わしくないことを国王に示唆した。 新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重たいものだった。国王はギリシャの風習に何の興味も示さず、宗教も[[ギリシャ正教]]に改宗せず[[カトリック教会|カトリック]]を信仰し続けた。ただし、ギリシャの文化財流出を防ぐための「記念物法」は[[1834年]]に施行されている。 |
2021年5月24日 (月) 21:34時点における版
オソン1世 Όθων Α΄ | |
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ギリシャ国王 | |
オソン1世(ゴットリープ・ボドマー画) | |
在位 | 1833年2月6日 - 1862年10月23日 |
全名 |
Όθων-Φρειδερίκος-Λουδοβίκος オソン・フリデリコス・ルドヴィコス Otto Friedrich Ludwig オットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ |
出生 |
1815年6月1日 オーストリア帝国、ザルツブルク |
死去 |
1867年7月26日(52歳没) バイエルン王国、バンベルク |
埋葬 | バイエルン王国、ミュンヘン、テアティナー教会 |
配偶者 | アマリア・マリア・フリデリキ |
家名 | ヴィッテルスバッハ家 |
父親 | ルートヴィヒ1世 |
母親 | テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
オソン1世(またはオトン1世、オットー1世、ギリシア語: Όθων、全名オソン・フリデリコス・ルドヴィコス、ギリシア語: Όθων-Φρειδερίκος-Λουδοβίκος、原全名オットー・フリードリヒ・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッテルスバッハ、ドイツ語: Otto Friedrich Ludwig von Wittelsbach、1815年6月1日 - 1867年7月26日)は初代ギリシャ国王(在位:1833年2月6日 - 1862年10月23日)。1832年にイギリス、フランス、ロシア間で行われたロンドン会議に基づき即位した。
生涯
ドイツ人のギリシャ王
オーストリアのザルツブルクで生まれた。父はヴィッテルスバッハ家のバイエルン国王ルートヴィヒ1世、母はザクセン=ヒルトブルクハウゼン公女テレーゼ。兄にバイエルン国王マクシミリアン2世、弟にバイエルン摂政ルイトポルトがいる。
ギリシャ独立戦争の結果、オスマン帝国からの独立を達成したギリシャの政治体制について、欧州列強は君主国とすることが適当であるとの結論に達した。初代国王としては、東ローマ皇帝の血を引き[1]、列強に対して中立の立場にあるバイエルンのオットー王子をオソン1世として即位させることになった。
1832年、オソンは18歳になって間もなく、当時ギリシャの首都が置かれていたペロポネソス半島のナフプリオに上陸した。彼の周囲にはバイエルンの宮廷から連れてきた多くの廷臣たちがつき従っていた。新国家の財政については英仏露三国およびロスチャイルド家が保証することになったが[2]、彼らはギリシャの経済状況が思わしくないことを国王に示唆した。 新政府が国民にかけた税金はオスマン帝国時代以上に重たいものだった。国王はギリシャの風習に何の興味も示さず、宗教もギリシャ正教に改宗せずカトリックを信仰し続けた。ただし、ギリシャの文化財流出を防ぐための「記念物法」は1834年に施行されている。
1837年にオソンはドイツを訪問し、オルデンブルク大公パウル・フリードリヒ・アウグストの娘アマーリエ(ギリシア名アマリア)と結婚した。結婚式はギリシャでは開かれなかった。新しく誕生した王妃は政治に干渉し、国民の君主制に対する支持はさらに失われていった。ギリシャの民心を掴もうとして、1841年にクレタ島を併合しようとした動きは列強によって制せられた。
クーデターと退位
1843年、ギリシャからバイエルンの軍隊が撤退すると、ただちにギリシャ軍によるクーデターが起き、憲法の制定を認めさせられた。憲法により設置された議会によって、さらに英国艦隊がアテネ近郊のピレウス港を封鎖する事件が発生すると、国王の権威はさらに弱まった。
キリスト教国によって過去の東ローマ帝国を再建しようとする夢(メガリ・イデア)を持っていたオソンは、1854年にクリミア戦争が勃発すると、オスマン帝国に対して宣戦布告したが、結果は不首尾に終わった。1861年にはディロシオス(el)と名乗る学生が王妃を暗殺しようとしたが、彼の行動は民衆から歓呼で迎えられた。1862年に再びクーデターが起こると、暫定政府は国民議会の開催を決め、国王夫妻はイギリス艦でギリシャを出国してバイエルンへと向かった。
最期
退位後もオソンはギリシャの伝統衣装を着続け、1866年にクレタ島でオスマン帝国に対する反乱が起きた際には自身の財産から武器を購入し反乱側に手渡したといわれる。1867年、バイエルン北部のバンベルクで死去し、遺体はミュンヘンに葬られた。
脚注
- ^ バイエルン王家の遠祖バイエルン公ヨハン2世は、女系をたどるとコムネノス家およびラスカリス家の血を引いていた。ヨハン2世の母エリーザベトはシチリア王フェデリーコ2世とエレオノーラ・ダンジョの娘、エレオノーラはナポリ王カルロ2世とハンガリー王女マリアの娘であったが、マリアの父でヨハン2世の高祖父に当たるハンガリー王イシュトヴァーン5世の母がニカイア皇帝テオドロス1世ラスカリスと皇后アンナ・アンゲリナの娘マリア・ラスカリナであったためである。
- ^ K. F. Robert Schneider, Handbuch der Erdbeschreibung und Staatenkunde in ihrer Verbindung mit Natur- und Menschenkunde, vol. 1 (3), 1857, p.1943.
関連項目
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