「ショプロン」の版間の差分
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ラースロー4世 (ハンガリー王)) - log |
|||
48行目: | 48行目: | ||
[[ローマ帝国]]時代にはすでに町が存在しており、スカルバンティア Scarbantia という名称であった。ローマ帝国時代の広場は、現在の市中心部の広場へと継承されている。[[民族移動時代]]には一時、廃墟となったと考えられている。ハンガリー領となり、[[9世紀]]から[[11世紀]]にかけてローマ帝国時代の城壁を修復し、シュプルン(Suprun)の名称であった。 |
[[ローマ帝国]]時代にはすでに町が存在しており、スカルバンティア Scarbantia という名称であった。ローマ帝国時代の広場は、現在の市中心部の広場へと継承されている。[[民族移動時代]]には一時、廃墟となったと考えられている。ハンガリー領となり、[[9世紀]]から[[11世紀]]にかけてローマ帝国時代の城壁を修復し、シュプルン(Suprun)の名称であった。 |
||
[[1273年]]にボヘミア王・[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]が町を支配し町の子供たちを人質として連行していったが、ハンガリーの[[ラースロー4世]]が到着したとき、町はハンガリーに忠誠を誓いハンガリー軍を受け入れた。 |
[[1273年]]にボヘミア王・[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]が町を支配し町の子供たちを人質として連行していったが、ハンガリーの[[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]が到着したとき、町はハンガリーに忠誠を誓いハンガリー軍を受け入れた。 |
||
[[16世紀]]にハンガリーの大部分は[[オスマン帝国]]領となったが、町はオスマン帝国領とはならなかった。そのため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大した。[[1676年]]に町は大火に見舞われたが、その後復興に際しては[[バロック建築|バロック様式建造物]]が多く建造された。 |
[[16世紀]]にハンガリーの大部分は[[オスマン帝国]]領となったが、町はオスマン帝国領とはならなかった。そのため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大した。[[1676年]]に町は大火に見舞われたが、その後復興に際しては[[バロック建築|バロック様式建造物]]が多く建造された。 |
2021年5月24日 (月) 21:38時点における版
ショプロン Sopron | |||||
---|---|---|---|---|---|
| |||||
位置 | |||||
ショプロンの位置 | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯47度41分 東経16度36分 / 北緯47.683度 東経16.600度 | |||||
行政 | |||||
国 | ハンガリー | ||||
県 | ジェール・モション・ショプロン県 | ||||
市 | ショプロン | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 169.06 km2 | ||||
人口 | |||||
人口 | (2008年現在) | ||||
市域 | 57,895人 | ||||
人口密度 | 342人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1) | ||||
夏時間 | 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.sopron.hu/ |
ショプロン(ハンガリー語: Sopron, ドイツ語: Ödenburg, ラテン語: Scarbantia)は、ハンガリーのジェール・モション・ショプロン県にある町。ハンガリーの北西端に位置し、オーストリア領ブルゲンラント州に接している。ドイツ語名はエーデンブルク。ハンガリー王国時代はショプロン県の県都。町の東に中欧で2番目に大きいステップ湖[1]であるノイジードル湖が位置する。
歴史
古代・中世
ローマ帝国時代にはすでに町が存在しており、スカルバンティア Scarbantia という名称であった。ローマ帝国時代の広場は、現在の市中心部の広場へと継承されている。民族移動時代には一時、廃墟となったと考えられている。ハンガリー領となり、9世紀から11世紀にかけてローマ帝国時代の城壁を修復し、シュプルン(Suprun)の名称であった。
1273年にボヘミア王・オタカル2世が町を支配し町の子供たちを人質として連行していったが、ハンガリーのラースロー4世が到着したとき、町はハンガリーに忠誠を誓いハンガリー軍を受け入れた。
16世紀にハンガリーの大部分はオスマン帝国領となったが、町はオスマン帝国領とはならなかった。そのため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大した。1676年に町は大火に見舞われたが、その後復興に際してはバロック様式建造物が多く建造された。
近世以降
近世ではオーストリア=ハンガリー帝国領であったが、第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約およびトリアノン条約により、町の帰属は住民投票で決められることとなった。1921年12月14日に行われた住民投票において65%がハンガリーに投票した。これによりハンガリー領となり投票日の12月14日は町の記念日となった。
第二次世界大戦中は収容所が町に設置されている。1945年4月1日にはソ連赤軍の侵攻を受けた。冷戦中は東西陣営の境界の町であった。1989年には冷戦終結の一つのきっかけとなる汎ヨーロッパ・ピクニックがこの町で起きた。200名以上の東ドイツ市民がここより西側へ亡命した。
現在のショプロンはワインの生産地として栄えている。古い町並みが残ることから多くの観光客も受け入れている。また、16世紀以来のユダヤ人コミュニティがあったために、旧市街には古いシナゴーグなどが残されている。
ピクニック大会
1989年8月、旧東ドイツ国民が『ピクニック』と称して隣国のオーストリアに大量越境した。当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていた。旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーとオーストリアとの国境であるショプロンに東ドイツ市民を集めて、中立国オーストリア経由で西ドイツへ脱出させた。一部人々は切断した鉄条網を持って越境した。
ピクニックを装った亡命に手を焼いた東ドイツは、市民たちの不満を和らげるため、その後西ドイツへの旅行を認めることになった。11月9日、東ドイツ当局の記者会見で、西側への旅行は認めるが許可が必要と発表。それを西ドイツのテレビ局が東側が国境を開放したと伝え、その情報が一気に流された。東ベルリン市民は西側のテレビを見ていたからである。そして騒ぎが始まった。
テレビを見て真に受けた東ベルリン市民が、国境沿いの検問に続々と集結し始めた。警備兵は何も知らされていないので止めようがなかった。東ベルリン市民は次々と検問ゲートを開けて西ベルリンになだれ込んだ。こうしてベルリンの壁は崩壊したのである。東西冷戦終結上、特記される都市である。
区
- バルフ Balf/Wolfs (998人) - 南東端。フェルテー湖を抱え、隣町のフェルテーラーコシュから入れるハーバーがある
- バルフフュルデー Balffürdő/Wolfsbad
- ブレンベルクバーニャ Brennbergbánya/Brennberg (604人) - 西部の鉱山
- エルデイイシュコラ Erdeiiskola (141人) - 西隣
- ゲルベハロム Görbehalom/Bodenriegel (204人) - 西部
- オーヘルメシュ Óhermes (26人) - 西端
- オーヘルメシュアクナ Óhermesakna
- ウーイヘルメシュ Újhermes
- ショプロンケーヒダ Sopronkőhida/Stein am Brückl (1312人) - 北端
- トーマロム Tómalom/Teichmühle (467人) - 北部
- ウーイヘルメシュ Újhermes (118人)
建築物
有名な出身者、ゆかりの人物
- シュティングル・ヴィンツェ・フェレンツ Stingl Vince Ferenc - ヘレンド創業者。ショプロン出身
- トート・ミハーイ Mihály Tóth - サッカー選手
- ベネデク・ラヨシュ - 軍人
- ルートヴィヒ・フォン・ベネデク Ludwig von Benedek - 軍人
- マチェイ・カミェンスキ Maciej Kamieński - ポーランド人の作曲家
- マーレル・マルギット - 心理学者
- フランツ・リスト - ピアニスト、作曲家
- オットー・フェルディナンド・フォン・トラウン - 貴族
姉妹都市
脚注
外部リンク
- 公式サイト
- Sopron Chat
- Sopron nyitólapja
- West-Hungarian University (University of Sopron)
- CyberPress - An informative magazine about Sopron's public life
- ImageTownsIndex - Virtual Tour of Sopron
- Link collection