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「クニグンデ・フォン・エスターライヒ」の版間の差分

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[[1470年]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ]]に求婚されたが、フリードリヒ3世はこれを拒絶した<ref>ライトナー、p. 44</ref>。1487年1月2日、クニグンデは父の意に反してバイエルン公アルブレヒト4世と結婚した<ref>ライトナー、p. 57</ref>。夫の死後、長男[[ヴィルヘルム4世 (バイエルン公)|ヴィルヘルム4世]]の摂政となった。宮廷から辞した後も、息子達のために政治に介入しようとした。また、兄マクシミリアン1世や、他国にいる縁者と密接に連絡をとっていた<ref>ライトナー、p. 69</ref>。


アルブレヒト4世が死んだ[[1508年]]、クニグンデはピュートリヒ修道院に入り、修道女となった<ref>ライトナー、p. 68</ref>。
アルブレヒト4世が死んだ[[1508年]]、クニグンデはピュートリヒ修道院に入り、修道女となった<ref>ライトナー、p. 68</ref>。

2021年5月24日 (月) 22:04時点における版

クニグンデ・フォン・エスターライヒ
Kunigunde von Österreich

出生 (1465-03-16) 1465年3月16日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリアの旗 オーストリア大公国ウィーナー・ノイシュタット
死去 (1520-08-06) 1520年8月6日(55歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公国ミュンヘン
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公国ミュンヘン、聖母教会
配偶者 バイエルン公アルブレヒト4世
子女 一覧参照
父親 神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世
母親 エレオノーレ・フォン・ポルトゥガル
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クニグンデ・フォン・エスターライヒ(Kunigunde von Österreich, 1465年3月16日 - 1520年8月6日)は、バイエルン公アルブレヒト4世の妃。

生涯

神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世と皇后エレオノーレの娘として、ウィーナー・ノイシュタットで生まれた[1]。夫婦の間の5人の子供のうち成人したのは、兄マクシミリアン1世とクニグンデだけであった。

1470年ハンガリーマーチャーシュに求婚されたが、フリードリヒ3世はこれを拒絶した[2]。1487年1月2日、クニグンデは父の意に反してバイエルン公アルブレヒト4世と結婚した[3]。夫の死後、長男ヴィルヘルム4世の摂政となった。宮廷から辞した後も、息子達のために政治に介入しようとした。また、兄マクシミリアン1世や、他国にいる縁者と密接に連絡をとっていた[4]

アルブレヒト4世が死んだ1508年、クニグンデはピュートリヒ修道院に入り、修道女となった[5]

子女

脚注

  1. ^ ライトナー、p. 22
  2. ^ ライトナー、p. 44
  3. ^ ライトナー、p. 57
  4. ^ ライトナー、p. 69
  5. ^ ライトナー、p. 68

参考文献

  • テア・ライトナー 『ハプスブルクの女たち』 新書館、1996年