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「アルタモン・マトヴェーエフ」の版間の差分

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セルゲイ・マトヴェーエフの息子として生まれ、早くから宮廷に入った。1671年までにツァーリの[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]と親しい間柄になり、{{仮リンク|アファナシー・オルディン=ナシチョーキン|en|Afanasy Ordin-Nashchokin}}が引退するとアレクセイの主任顧問官になった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Matvyeev, Artamon Sergyeevich|volume=17|page=903|last=Bain|first=Robert Nisbet|authorlink=ロバート・ニスベット・ベイン}}</ref>。アレクセイは先妻[[マリヤ・ミロスラフスカヤ]]が死去した後、[[ナタリヤ・ナルイシキナ]]と出会ったのがマトヴェーエフの家であり、アレクセイは1671年1月21日にナタリヤと再婚した<ref name="EB1911" />。同年末に{{仮リンク|オコーリニチー|en|Okolnichy}}(側用人)に昇進、1674年9月1日には[[ボヤール]]に昇進した<ref name="EB1911" />。以降アレクセイの死去までマトヴェーエフは影響力を保ち、西洋の[[演劇]]などをロシアに導入した<ref name="EB1911" />。
セルゲイ・マトヴェーエフの息子として生まれ、早くから宮廷に入った。1671年までにツァーリの[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]]と親しい間柄になり、{{仮リンク|アファナシー・オルディン=ナシチョーキン|en|Afanasy Ordin-Nashchokin}}が引退するとアレクセイの主任顧問官になった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Matvyeev, Artamon Sergyeevich|volume=17|page=903|last=Bain|first=Robert Nisbet|authorlink=ロバート・ニスベット・ベイン}}</ref>。アレクセイは先妻[[マリヤ・ミロスラフスカヤ]]が死去した後、[[ナタリヤ・ナルイシキナ]]と出会ったのがマトヴェーエフの家であり、アレクセイは1671年1月21日にナタリヤと再婚した<ref name="EB1911" />。同年末に{{仮リンク|オコーリニチー|en|Okolnichy}}(側用人)に昇進、1674年9月1日には[[ボヤール]]に昇進した<ref name="EB1911" />。以降アレクセイの死去までマトヴェーエフは影響力を保ち、西洋の[[演劇]]などをロシアに導入した<ref name="EB1911" />。


1676年にアレクセイが死去すると、その息子[[フョードル3世]]が病弱だったためマトヴェーエフはアレクセイのもう1人の息子[[ピョートル1世|ピョートル]](4歳)をツァーリを据えようと着想した<ref name="EB1911" />。彼は賄賂で[[ストレリツィ]]の忠誠を買うと、[[ボヤール]]の会議でフョードル3世の病気で統治が不可能と述べ、ピョートルをツァーリにするよう求めた<ref name="EB1911" />。しかし反動的なボヤールはそのままフョードル3世の即位を認め、マトヴェーエフは{{仮リンク|プストジェルスク|en|Pustozersk}}に追放された<ref name="EB1911" />。
1676年にアレクセイが死去すると、その息子[[フョードル3世]]が病弱だったためマトヴェーエフはアレクセイのもう1人の息子[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル]](4歳)をツァーリを据えようと着想した<ref name="EB1911" />。彼は賄賂で[[ストレリツィ]]の忠誠を買うと、[[ボヤール]]の会議でフョードル3世の病気で統治が不可能と述べ、ピョートルをツァーリにするよう求めた<ref name="EB1911" />。しかし反動的なボヤールはそのままフョードル3世の即位を認め、マトヴェーエフは{{仮リンク|プストジェルスク|en|Pustozersk}}に追放された<ref name="EB1911" />。


1682年4月27日にフョードル3世が死去すると、ピョートルがピョートル1世として即位した<ref name="EB1911" />。ピョートル1世の名前で発された最初の{{仮リンク|ウカス|en|Ukase}}(勅令)はマトヴェーエフに[[モスクワ]]に戻って[[ナタリヤ・ナルイシキナ]]の顧問になる命令であり、マトヴェーエフは勅令に従い、5月15日にモスクワに到着した<ref name="EB1911" />。しかし、反ピョートル派がストレリツィの反乱を煽ったため、マトヴェーエフはストレリツィの説得に向かい、一時は成功するように見えたが結局殺害された<ref name="EB1911" />。
1682年4月27日にフョードル3世が死去すると、ピョートルがピョートル1世として即位した<ref name="EB1911" />。ピョートル1世の名前で発された最初の{{仮リンク|ウカス|en|Ukase}}(勅令)はマトヴェーエフに[[モスクワ]]に戻って[[ナタリヤ・ナルイシキナ]]の顧問になる命令であり、マトヴェーエフは勅令に従い、5月15日にモスクワに到着した<ref name="EB1911" />。しかし、反ピョートル派がストレリツィの反乱を煽ったため、マトヴェーエフはストレリツィの説得に向かい、一時は成功するように見えたが結局殺害された<ref name="EB1911" />。


== 評価 ==
== 評価 ==
[[ブリタニカ百科事典第11版]]はマトヴェーエフを「[[ピョートル1世]]以前で最も偉大」としている<ref name="EB1911" />。卑しい出自だったが、同時代の多くのロシア人と比べて多くの新しい事物に触れ、作者としても一定の名声があったという<ref name="EB1911" />。
[[ブリタニカ百科事典第11版]]はマトヴェーエフを「[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]以前で最も偉大」としている<ref name="EB1911" />。卑しい出自だったが、同時代の多くのロシア人と比べて多くの新しい事物に触れ、作者としても一定の名声があったという<ref name="EB1911" />。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2021年6月13日 (日) 05:10時点における版

アルタモン・セルゲーエヴィチ・マトヴェーエフ

アルタモン・セルゲーエヴィチ・マトヴェーエフロシア語: Артамон Сергеевич Матвеев1625年 - 1682年5月25日)は、ロシア・ツァーリ国の政治家、外交官。

生涯

セルゲイ・マトヴェーエフの息子として生まれ、早くから宮廷に入った。1671年までにツァーリのアレクセイと親しい間柄になり、アファナシー・オルディン=ナシチョーキン英語版が引退するとアレクセイの主任顧問官になった[1]。アレクセイは先妻マリヤ・ミロスラフスカヤが死去した後、ナタリヤ・ナルイシキナと出会ったのがマトヴェーエフの家であり、アレクセイは1671年1月21日にナタリヤと再婚した[1]。同年末にオコーリニチー英語版(側用人)に昇進、1674年9月1日にはボヤールに昇進した[1]。以降アレクセイの死去までマトヴェーエフは影響力を保ち、西洋の演劇などをロシアに導入した[1]

1676年にアレクセイが死去すると、その息子フョードル3世が病弱だったためマトヴェーエフはアレクセイのもう1人の息子ピョートル(4歳)をツァーリを据えようと着想した[1]。彼は賄賂でストレリツィの忠誠を買うと、ボヤールの会議でフョードル3世の病気で統治が不可能と述べ、ピョートルをツァーリにするよう求めた[1]。しかし反動的なボヤールはそのままフョードル3世の即位を認め、マトヴェーエフはプストジェルスク英語版に追放された[1]

1682年4月27日にフョードル3世が死去すると、ピョートルがピョートル1世として即位した[1]。ピョートル1世の名前で発された最初のウカス英語版(勅令)はマトヴェーエフにモスクワに戻ってナタリヤ・ナルイシキナの顧問になる命令であり、マトヴェーエフは勅令に従い、5月15日にモスクワに到着した[1]。しかし、反ピョートル派がストレリツィの反乱を煽ったため、マトヴェーエフはストレリツィの説得に向かい、一時は成功するように見えたが結局殺害された[1]

評価

ブリタニカ百科事典第11版はマトヴェーエフを「ピョートル1世以前で最も偉大」としている[1]。卑しい出自だったが、同時代の多くのロシア人と比べて多くの新しい事物に触れ、作者としても一定の名声があったという[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Bain, Robert Nisbet (1911). "Matvyeev, Artamon Sergyeevich" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 17 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 903.