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'''[[ルネサンス建築]]'''は、イタリアのフィレンツェで1420年代に始まった。この時代、[[東ローマ帝国]]の滅亡を受けて古典期の学問が流入した事による古典時代の美術様式に復古しようとする動き、即ち「[[ルネサンス]]」がイタリアでは花開いており、それと連動して古典主義建築として発展し、その系譜はバロック建築、ロココ建築、新古典主義建築などに発展・継承されて行く。ルネサンス建築はイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象で、ヨーロッパの歴史の中でも光彩を放つ時代の一つとして挙げられることが多い。ルネサンス建築は17世紀初頭まで続き、古典古代を理想とするルネサンスの建築様式における表現と言える。ルネサンスと同様、人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。ルネサンス建築は[[貴族]]の邸宅や[[大聖堂]]、[[教会堂]]において用いられた。その後も通じて西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。主な建築物に、[[イタリア]]では[[サン・ピエトロ大聖堂]]([[ヴァチカン]])、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]([[フィレンツェ]])などがある。 |
'''[[ルネサンス建築]]'''は、イタリアのフィレンツェで1420年代に始まった。この時代、[[東ローマ帝国]]の滅亡を受けて古典期の学問が流入した事による古典時代の美術様式に復古しようとする動き、即ち「[[ルネサンス]]」がイタリアでは花開いており、それと連動して古典主義建築として発展し、その系譜はバロック建築、ロココ建築、新古典主義建築などに発展・継承されて行く。ルネサンス建築はイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象で、ヨーロッパの歴史の中でも光彩を放つ時代の一つとして挙げられることが多い。ルネサンス建築は17世紀初頭まで続き、古典古代を理想とするルネサンスの建築様式における表現と言える。ルネサンスと同様、人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。ルネサンス建築は[[貴族]]の邸宅や[[大聖堂]]、[[教会堂]]において用いられた。その後も通じて西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。主な建築物に、[[イタリア]]では[[サン・ピエトロ大聖堂]]([[ヴァチカン]])、[[サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂]]([[フィレンツェ]])などがある。 |
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[[ファイル:Vue aérienne du domaine de Versailles le 20 août 2014 par ToucanWings - Creative Commons By Sa 3.0 - 28.jpg|200px|サムネイル|ヴェルサイユ宮殿]] |
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ヨーロッパにおいて[[1590年]]頃から'''[[バロック建築]]'''は始まり、盛んになった建築様式である。この建築様式は、建築そのものだけではなくその中の彫刻や絵画を含めた調度品とも密接に関連することによってよってその空間を構成しており、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に、内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。バロック建築は、宗教改革によって著しく低下した[[ローマ・カトリック教会]]の権威の失墜を、芸術活動によって補おうと企んだ[[ローマ教皇]][[シクストゥス5世]]、[[パウルス5世]]等の活動により16世紀末から17世紀初期にかけてローマで始まった。やがてイタリアでのバロック建築は衰退するが、[[ブルボン朝|ブルボン朝フランス王国]]に継承されて[[ルイ14世]]太陽王の支配する宮廷に於いてバロックは絶頂期を迎え、大いに繁栄した。更に、隣国で強国だった[[ブルボン朝]][[スペイン王国]]、[[ロシア帝国]]、[[ハプスブルク帝国|ハプスブルク領]]、[[プロイセン王国]]、[[スウェーデン王国]]などにも波及し、それぞれの地域では独特な発展を遂げるに至った。[[ロシア帝国]]では、[[ロシア皇帝]]である[[ピョートル1世]]大帝が改革の一環としてヨーロッパ文化を未開だったロシアに積極的に持ち込んだ。旧都[[モスクワ]]を棄ててバルト海沿岸の新都市[[サンクトペテルブルク]]を建都し、そこではこのときヨーロッパで絶頂だったバロック建築がサンクトペテルブルクを中心に花開いた。後に、「ロココ建築」に変化した。なお、「バロック」と言う語の語源はポルトガル語の‘Barocco’(歪んだ真珠と言う意味)といわれ、元は一部に見られる[[グロテスク]]な過剰すぎる装飾美術に対する蔑称であった。後に、[[19世紀]]の様式の反乱期に於いて見直された。 |
ヨーロッパにおいて[[1590年]]頃から'''[[バロック建築]]'''は始まり、盛んになった建築様式である。この建築様式は、建築そのものだけではなくその中の彫刻や絵画を含めた調度品とも密接に関連することによってよってその空間を構成しており、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に、内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。バロック建築は、宗教改革によって著しく低下した[[ローマ・カトリック教会]]の権威の失墜を、芸術活動によって補おうと企んだ[[ローマ教皇]][[シクストゥス5世]]、[[パウルス5世]]等の活動により16世紀末から17世紀初期にかけてローマで始まった。やがてイタリアでのバロック建築は衰退するが、[[ブルボン朝|ブルボン朝フランス王国]]に継承されて[[ルイ14世]]太陽王の支配する宮廷に於いてバロックは絶頂期を迎え、大いに繁栄した。更に、隣国で強国だった[[ブルボン朝]][[スペイン王国]]、[[ロシア帝国]]、[[ハプスブルク帝国|ハプスブルク領]]、[[プロイセン王国]]、[[スウェーデン王国]]などにも波及し、それぞれの地域では独特な発展を遂げるに至った。[[ロシア帝国]]では、[[ロシア皇帝]]である[[ピョートル1世 (ロシア皇帝)|ピョートル1世]]大帝が改革の一環としてヨーロッパ文化を未開だったロシアに積極的に持ち込んだ。旧都[[モスクワ]]を棄ててバルト海沿岸の新都市[[サンクトペテルブルク]]を建都し、そこではこのときヨーロッパで絶頂だったバロック建築がサンクトペテルブルクを中心に花開いた。後に、「ロココ建築」に変化した。なお、「バロック」と言う語の語源はポルトガル語の‘Barocco’(歪んだ真珠と言う意味)といわれ、元は一部に見られる[[グロテスク]]な過剰すぎる装飾美術に対する蔑称であった。後に、[[19世紀]]の様式の反乱期に於いて見直された。 |
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[[ファイル:Ottobeuren-basilika flickr-2.jpg|200px|サムネイル|ロココ建築の内部]] |
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'''[[ロココ建築]]'''は、18世紀に主に宮廷建築で用いられた後期[[バロック建築]]の傾向を指すもので、その様式はロココと同じく女性的な曲線を多用する繊細なインテリア装飾などが特徴である。また、左右対称にはこだわらず入り口側の中心軸と庭園側の中心軸をずらすなど威厳より実用性を意識した。しかし、あくまでも後期バロック建築の傾向を表現する用語であるため、この様式は独立した建築様式ではない。室内装飾に特徴があり、ヨーロッパのバロック建築最盛期の後、18世紀フランスに始まり、その他の各国に伝わった。[[フランス語]]のロカイユ(rocaille、「岩」を意味する)に由来する言葉である。主な建築物には、[[サンスーシー宮殿]]などが挙げられる。 |
'''[[ロココ建築]]'''は、18世紀に主に宮廷建築で用いられた後期[[バロック建築]]の傾向を指すもので、その様式はロココと同じく女性的な曲線を多用する繊細なインテリア装飾などが特徴である。また、左右対称にはこだわらず入り口側の中心軸と庭園側の中心軸をずらすなど威厳より実用性を意識した。しかし、あくまでも後期バロック建築の傾向を表現する用語であるため、この様式は独立した建築様式ではない。室内装飾に特徴があり、ヨーロッパのバロック建築最盛期の後、18世紀フランスに始まり、その他の各国に伝わった。[[フランス語]]のロカイユ(rocaille、「岩」を意味する)に由来する言葉である。主な建築物には、[[サンスーシー宮殿]]などが挙げられる。 |
2021年6月13日 (日) 05:12時点における版
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建築様式(けんちくようしき、英語:Architectural style)とは、ある特定の特徴を持った建造物の様式、または、その建築手法、対象物を特徴づける特定の建築手法のことをいう。建築様式と美術などの他の様式と名称が同じであっても、それぞれは時代的には必ずしも完全に一致するとはかぎらない。
概要
略論
建築様式は、建物やその他の構造物を注目に値する、または歴史的に特定できる特徴によって特徴付けられている。
それは一般的に視覚芸術のスタイルのサブクラスであり、建築のほとんどのスタイルはより広い現代の芸術スタイルに密接に関連している。スタイルには、フォーム、建設方法、建築材料、地域の特性などの要素が含まれる場合がある。ほとんどの建築は、時間の経過とともに変化するスタイルの年代順に分類することが可能であり、これは、変化するファッション、信念、宗教、または新しいスタイルを可能にする新しいアイデア、テクノロジー、または素材の出現を反映していると考えられている。
また、建築様式は、時と場所(つまり気候や時代)によって変化する。したがって、建築様式は、歴史と深く関わっている。例えば、ルネサンス期には古典復興の風潮のなか、ローマの建築様式を手本とした建造物が数多く建設されたし、また、ナポレオンの時代には、彼の皇帝としての威厳を示すために、ギリシャやローマの建築様式を真似た建築を建てる風潮や、彼のエジプト遠征の影響によるオリエンタルな雰囲気の様式の建築物があった。
また、建築様式は、建築家や依頼主らによっても変化する場合がある。例えば、19世紀のヴィクトリア朝期(美術的には、「ヴィクトリアン」と言った)等には、「様式」と言う価値観が発見された時期である。したがって、人々の間には、「それぞれ別の様式があるのならば、自分たちも好きなように様式が選べるのではないか」と言う考えも現れ、ヴィクトリア朝期は、建築様式の混在期となった。その時期、古来の文化・様式から学んだ建築から、既存の建築様式に反抗する建築様式も発生した。また、同じ建築家であっても、用途に合わせて様式を変えたりするようなこともあった。その後、装飾華美な建築から、モダニズム的な建築物に変遷していき、「建築様式」の流行が小刻みになっていった。そのため、現在では、一定の建築様式は見いだすことができない、とされている。
建築様式が成立するには、外観、フォーム、建設方法、建築材料、地域の特性、内装などの要素が含まれる。ほとんどの建築様式は、時代の経過とともに変化する事が多く、その時代の流行した美術の様式と密接に関連している。これは、その時代の流れとともに変化する美術の様式、信念、宗教、新しい技術の出現を反映し、変化する。従って、建築様式は社会の歴史から発生する。
様式は社会の歴史から生まる。それらは建築史の主題で文書化されていることが多い。建築様式が変遷すると、建築家が新しい建築様式を学び、それに順応するにつれて、通常は徐々に変化することにより建築様式は発展していったのであった。新しいスタイルは、ポストモダニズム(「モダニズム後」を意味する)など、21世紀に独自の言語を発見し、他の名前を獲得したいくつかのスタイルに分割された既存のスタイルに対する反抗にすぎない場合がある。
建築様式は他の場所にも広がることが多いため、他の国々が独自のひねりを加えながら、その起源の様式は新しい方法で発展し続ける。たとえば、ルネサンスのアイデアは1425年頃にイタリアで登場し、今後200年間でヨーロッパ全体に広がった。したがってフランス、ドイツ、英語圏、スペインのルネサンスは、同じスタイルでありながら独特の特徴を持っている。
建築様式はまた、植民地主義を通じて、彼らの母国から学ぶ外国の植民地によって、または新しい土地に移住する開拓者によって広がる。 1つの例は、18世紀後半にスペインの司祭によってもたらされ、現地の建築様式と融合してユニークなスタイルで構築されたカリフォルニアのスペイン的な様式である。
地域別の建築様式
ヨーロッパの建築史上の主な建築様式には、ギリシア建築、ローマ建築、ビザンティン建築、ロマネスク建築、ゴシック建築、ロシア建築、ルネサンス建築、ロココ建築、新古典主義建築など、近代ではアール・ヌーボー、アール・デコ、国際様式、ポスト・モダン等が挙げられる。
また、建築様式の定義に当てはめると、ロマネスク様式はローマの建築様式を基にした、教会堂などにあわせ、鐘楼、ステンドグラス等を付け加えた箇所、また、アヤソフィア等に代表されるビザンティン建築では、アジア的なドーム、アーチなどのローマ建築から継承した特徴、等が特徴として挙げられる。
これらの建築様式は細かい分類の条件など地より様々な形で細分化する事ができ、例としてローマ建築は末期ローマ建築を包括する。また、共通性の抽出の仕方もさまざまであるために、建築様式の名称は無数に考える事が出来る。
西洋における建築様式の建物は、前期には神殿や公共建築物のために、中期には教会のための建築として発展した。また、後期には宮殿や市民の為の建築にも「様式」は用いられるようになった。
また、西洋の建築様式は明確に分類する事が出来ないことも少なくない。例として、ローマ帝国の滅亡後にローマ建築を継承したビザンティン建築は、初期の時期にはローマ領で発達した末期ローマ建築の要素と初期キリスト教建築が混在している。従って、両者の明確な区別はほとんど不可能で、緩やかに「ビザンティン建築」に進化して行ったと考えられてる。
西洋の建築様式においては、そのスタイルが時代遅れになった後、復活と再解釈が発生することもある。たとえば、古典主義は何度も復活し、新古典主義としての新しい生命を見出した。それが復活するたびに、それは異なる意味合いや様式を帯びてゆくことが多い。スペインのミッションスタイル(Spanish Colonial architecture)は100年後にミッション・リヴァイヴァル建築(Mission Revival architecture )として復活し、すぐにスパニッシュ・コロニアル・リヴァイヴァル建築(Spanish Colonial Revival architecture)へと進化した。
アジアの建築史上の主な建築様式には、ペルシア建築、ヒンドゥー建築、仏教建築、ヘレニズム、日本建築、イスラム建築、ムガル建築、チベット建築等が挙げられる。
アジアは西洋よりも広大、かつ民族の系統や文化も多岐にわたり、また、西洋の様に統一性を持つ事が多く無かった。そのため、アジアではたいへん多様な建築様式が開花し、それぞれ独特な進化を遂げた。また、建築材料も建築技術も多岐にわたる。しかし、イスラム建築は7世紀から18世紀、ないしは19世紀までの期間に、イスラーム文化圏で形成された建築を指しており、アジアの他にもイスラム教の信仰される中央・北アフリカからインドネシア領までで使用され、一定の統合的な原理を持つ。また、イスラム建築は、古代建築の特徴を西洋建築よりも色濃く受け継いでいる、と言われている。
西アジアや中央アジアの建築様式は、古代オリエントの建築様式(古代エジプト建築、ペルシア建築、イラン建築など)の要素を色濃く受け継ぎ繁栄したが、東アジアや東南アジアでは西アジアの建築様式の影響を受けつつも、それらとはまた異なった建築様式が開花した。
それらの建築様式の出発点は古代の中国であり、中国文明で興った建築様式の影響を受けて日本建築や朝鮮建築、チベット建築、ベトナム建築が発生した。それらの建築様式は、中国王朝との冊封関係や交易、仏教の伝播によって文化と共に伝わったものと土着の建築様式やその地域の風習や気候などに合わせて混ざり合った結果、成り立った建築様式が多い。
その他に、アジアでは多種多様な建築様式が開花した。
アフリカにおける主な建築様式は、古代エジプト建築、イスラム建築(イスラム教に伴う伝播)、土屋などが挙げられる。
その内、もっとも古代から存在したと考えられている古代エジプト建築は、古代エジプト文明において発展した建築様式であり、その建築様式は古代エジプト文明で独自の発展を遂げた建築様式ではある。この建築様式は他の文明における建築様式に多くの影響を与え、のちにビザンティン建築(ビザンティン様式)、近代建築などにも多くはないが影響したと考えられている。古代エジプト建築は、ナイル川の川岸に多様な建築物と巨大な記念碑を極めて多数建造し、それらの中ではギーザのピラミッドや様々なスフィンクス、ルクソール神殿、フィラエ神殿、アブシンベル、エジプト国外ではメロエ(いずれも世界遺産)などが挙げられる。
また、中世における北アフリカへのイスラム教の信仰の浸透において、アラビア半島で発達していたイスラムの建築様式が持ち込まれ、のちに王朝が分裂するとモロッコ、チュニジア、エジプトなどの地域で異なる色あいを帯びた建築様式が開花した。その過程で、エジプトでは古来の建築様式をはじめとする文化は消滅した。
イスラム建築はいまでも北アフリカでは用いられる。
また、その他にも土着の民族による建築様式が発達したし、近代の植民地化において西欧の建築様式が輸入されたりもした。
現在でも、アフリカ地域では伝統の建築様式が用いられ続けている。
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歴史
ヨーロッパ
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ギリシア建築は紀元前7世紀頃から「様式」の確立がなされた、ヨーロッパ最古の建築様式であるとされている物である。ギリシア建築はその後の紀元前5世紀ないし紀元前4世紀頃にその頂点を迎え、アテナイのパルテノーン神殿などに代表される建築物を成した。その時代のギリシア建築は、建築物の空間よりも細部の装飾や比例原理を洗練させていった。特に古代ギリシア各地に残っている神殿建築はその最たるところであり、それらの建築物は近代に至っても古典建築の模範とされ続けた。その後のヘレニズム時代には建築の形態が再編成され、建物の関係性や連動性が都市計画の中で意識されるようになったが、機能的要求から建築から独創性や力強さは失われた。この時代の主な建築物にはペルガモンのゼウス大祭壇などが挙げられ、これら要素が後に花開くローマ建築に継承された[1]。
古代ローマ帝国の下で繁栄したローマ建築は、土着のエトルリア人の建築様式や、同時代に繁栄していたギリシア建築の特徴を反映しつつ、独自の発展を続けていった建築様式である。ローマ建築は、その後ヨーロッパをはじめとする西方世界の建築様式や美術等において、極めて重要な位置を占める事と成る。ローマ建築の中では古代ギリシアの美術様式の影響は特に強く、それらの要素は建築に取り入れられた。古典期のギリシア建築がひとつの彫刻であるかのように捉えられ、それ単体で完成する様な建築様式で、自己完結的である。一方、ローマ建築では、建築物の単体での完成ではなく相互の関連性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っている。そのため、ギリシア建築と異なり、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを全てを包括したフォルム(フォールム)、コロッセオに代表される様な円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。後の4世紀、ローマ帝国は混乱期を迎え、その結果、経済的に恵まれた東方(東ローマ帝国)では、ローマ建築は新たな建築の道を開き、キリスト教と深い関わりがある「ビザンティン建築」として継承・再構築された。一方、西方(西ローマ帝国)の衰退の波は止まるところを知らず、ローマ建築の技術は急速に失われ、衰退する。また、ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがあり、教会堂などにその技術は用いられた。
ビザンティン建築は、東方ローマ帝国(東ローマ帝国)で発達した建築様式である。ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達し、東ローマ帝国内で発展することも急速に衰退することもなく存続した。特色は正方形またはギリシャ十字形の平面、複数のドーム、教会内に施された金地の華麗なモザイク壁画等である。バシリカ様式とドームを融合する建築形態は、古代ローマ帝国における世俗の建築の中で、既に確立されていた物だったが、建築史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀ごろのビザンティン建築においてである。その最たる例は、5世紀後期に建立されたミリアムリクにある教会堂である[2]。4世紀ごろには帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。その代表例はトルコ、イスタンブールのアヤソフィア(ハギア・ソフィア大聖堂)であり、現在では博物館及びモスクとして利用されている。しかし、その後、7世紀頃の東ローマ帝国の国力の衰退と勢力範囲の大規模な縮小に及んで暗黒時代を迎え、技術は喪失の時代を迎える。建築物も小規模かつ粗雑な要素で構成されるようになる。しかし、10世紀頃の東ローマ帝国の再隆盛によって復活を遂げる。また、キリスト教の布教活動と連動して東欧圏のみならずロシアあるいはアルメニアやジョージアなどコーカサス地方、シリアなど西アジアにも浸透し、それらの地域でも土着の様式と融合しながら独自の様式へと発展した。
ロマネスク建築は、ローマ建築以来最初の中世西ヨーロッパの確立された建築様式である。時代区分としては、おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指し、ロマネスクは帝政ローマ時代の建築様式以来初めての汎ヨーロッパ建築様式とも言える。同時代のビザンティン建築と同じく、西ローマ帝国の滅亡後に帝国の遺産として残された建築手法(例:バシリカなど)や美術を受け継いで発達し、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約された。しかし、ロマネスク建築においては彫刻や絵画などの美術品は、その教会堂を装飾するための副次的要素であった。ロマネスク建築の建築物は主に西ヨーロッパで誕生し、その後フランス、ドイツ、イタリア、イギリスなどに伝わった。なお、ロマネスクという言葉は、美術史・建築史において、19世紀以降使われるようになった用語で、当初は「堕落したローマ風の建築」という蔑称だった。
12世紀後半、フランスではゴシック建築が発祥し、花開いた。この建築様式の特徴は、一般的には内部的な高さと細い柱などで、その他にも石造天井、およびそれらを為し得る構造的特徴の組み合わせ、交差リブヴォールト、側壁又はバットレスとなる。これらの構造は19世紀に入って構造学の観点から再評価がなされた。しかし、これらのゴシック建築の要素は東方に起原を持ち、その内尖頭アーチはサーサーン朝ペルシアにおいて既に用いられていた。それらの特徴を持つ建築物は、フランスからイギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。なお、「ゴシック」という呼称はもともと「ゴート人風の」という事を現した蔑称で、背景にはルネサンス前の中世の芸術を野蛮なものとし「ゴート風の」と呼んだことに由来する。ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていった(ゴシック・サヴァイヴァル)。また、北ドイツやポーランドを中心とするバルト海沿岸およびその大河川の流域では「ブリック・コシック」と呼ばれる、レンガを用いた独特のゴシック建築が発展した。
ルネサンス建築は、イタリアのフィレンツェで1420年代に始まった。この時代、東ローマ帝国の滅亡を受けて古典期の学問が流入した事による古典時代の美術様式に復古しようとする動き、即ち「ルネサンス」がイタリアでは花開いており、それと連動して古典主義建築として発展し、その系譜はバロック建築、ロココ建築、新古典主義建築などに発展・継承されて行く。ルネサンス建築はイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象で、ヨーロッパの歴史の中でも光彩を放つ時代の一つとして挙げられることが多い。ルネサンス建築は17世紀初頭まで続き、古典古代を理想とするルネサンスの建築様式における表現と言える。ルネサンスと同様、人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。ルネサンス建築は貴族の邸宅や大聖堂、教会堂において用いられた。その後も通じて西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。主な建築物に、イタリアではサン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン)、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ)などがある。
ヨーロッパにおいて1590年頃からバロック建築は始まり、盛んになった建築様式である。この建築様式は、建築そのものだけではなくその中の彫刻や絵画を含めた調度品とも密接に関連することによってよってその空間を構成しており、複雑さや多様性を示すことを特徴とする。特に、内部空間の複雑な構成は、他の建築様式とは際立った特色となっている。バロック建築は、宗教改革によって著しく低下したローマ・カトリック教会の権威の失墜を、芸術活動によって補おうと企んだローマ教皇シクストゥス5世、パウルス5世等の活動により16世紀末から17世紀初期にかけてローマで始まった。やがてイタリアでのバロック建築は衰退するが、ブルボン朝フランス王国に継承されてルイ14世太陽王の支配する宮廷に於いてバロックは絶頂期を迎え、大いに繁栄した。更に、隣国で強国だったブルボン朝スペイン王国、ロシア帝国、ハプスブルク領、プロイセン王国、スウェーデン王国などにも波及し、それぞれの地域では独特な発展を遂げるに至った。ロシア帝国では、ロシア皇帝であるピョートル1世大帝が改革の一環としてヨーロッパ文化を未開だったロシアに積極的に持ち込んだ。旧都モスクワを棄ててバルト海沿岸の新都市サンクトペテルブルクを建都し、そこではこのときヨーロッパで絶頂だったバロック建築がサンクトペテルブルクを中心に花開いた。後に、「ロココ建築」に変化した。なお、「バロック」と言う語の語源はポルトガル語の‘Barocco’(歪んだ真珠と言う意味)といわれ、元は一部に見られるグロテスクな過剰すぎる装飾美術に対する蔑称であった。後に、19世紀の様式の反乱期に於いて見直された。
ロココ建築は、18世紀に主に宮廷建築で用いられた後期バロック建築の傾向を指すもので、その様式はロココと同じく女性的な曲線を多用する繊細なインテリア装飾などが特徴である。また、左右対称にはこだわらず入り口側の中心軸と庭園側の中心軸をずらすなど威厳より実用性を意識した。しかし、あくまでも後期バロック建築の傾向を表現する用語であるため、この様式は独立した建築様式ではない。室内装飾に特徴があり、ヨーロッパのバロック建築最盛期の後、18世紀フランスに始まり、その他の各国に伝わった。フランス語のロカイユ(rocaille、「岩」を意味する)に由来する言葉である。主な建築物には、サンスーシー宮殿などが挙げられる。
18世紀後期に、ヨーロッパでは新古典主義建築が花開いた。この建築様式は、啓蒙思想や革命精神、考古学の発達と古代の解明を背景として、フランスで興った建築様式であり、以前のロココ建築の過剰な装飾性や軽薄さに対する反動として始まったと考えられている。古代ギリシアや古代ローマの古典建築にある荘厳さや崇高美を備えた建築が模索され、特徴は古代の建築に内在する美を探究し、古典建築を再現したことにある。また、この時代に開基された考古学の影響も否めない。論理的で厳粛な、啓蒙的性格をもつ様式におきかえようとする動きが広がり、18世紀の末期に盛んにこの様式で公共建築物が建設された。単なる古典の復興にとどまらず、次々に共和国が樹立される中で古代ギリシャ・ローマ時代の民主主義的思想との結び付きから指導者達はちは公式の美術として新古典主義を採用し、浸透した。やがて19世紀の様式濫用の中に衰退し、そして埋没して行った。
帝政様式は、19世紀前半に起こった建築様式で、その背景にはナポレオン・ボナパルトのフランス帝政がある。家具その他の装飾芸術や視覚芸術の分野におけるデザイン運動で、しばしば「第2次新古典様式」と見なされる。帝政様式は、古代ギリシャ・ローマ時代の素晴らしい象徴や装飾からイメージを取り入れられた。また、ナポレオン・ボナパルトの失墜後も帝政様式は変貌を遂げながらもその後数十年間に渡って支持され続ける。名称は、「帝政」を意味するフランス語「Empire」 の発音からアンピール様式、また英語読みでエンパイア様式と呼ばれることもある。
イスラム建築
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西アジア
ペルシャにおいては、一般的にペルシャ式庭園と称される庭園の様式が発展した。ペルシャ式庭園はメソポタミアの肥沃な三日月地帯で文明が発達した紀元前4000年代にさかのぼることができると考えられている。現在、確認できる最古の庭園は、紀元前500年代に建設されたアケメネス朝ペルシャ帝国の都パサルガダエに建設されたパサルガダエ庭園である。この庭園には、ペルシャの国教ゾロアスター教の4つの元素である「水」「土」「空」「火」の区域に分けられており、のちにペルシャ式庭園の基本となる様式「チャハルバーグ」の基となる様式が既に存在していたことがうかがえる。
アケメネス朝がアレキサンダー大王によって滅ぼされてから約550年後に興ったサーサーン朝ペルシア帝国では、ゾロアスター教が最盛期をむかえ、芸術における「水」の役割の重要性が増していった時代であった。この傾向は、それ以後のペルシャ式庭園を建設するにあたり、必要不可欠なものとなり、噴水や池が庭園内に盛んに建設されるようになった。
その後、サーサーン朝がイスラム勢力のイスラム帝国に滅ぼされてからは後述のイスラム建築に取り入られれて宮殿建築などに多用されることとなる。イスラムによるペルシャ征服以降、審美的なものが重要視されるようになった。その代表例が、庭園を四分割する様式である「チャハルバーグ(四分庭園)」であり、これは「エデンの楽園」を模倣したものである。また、その後にモンゴル帝国による支配の時期になると、多少の変化はありつつも存続し、世界のイスラム圏、特にイランやインドにおいて使用された。
現在のイスラーム世界における最古の宮殿庭園がシリアのルサーファにある庭園であり、建築はウマイヤ朝時代にさかのぼる[3]。その次に遺跡が現存する2番目に古い十字型庭園はイラクのサーマッラーで、アッバース朝時代の9世紀半ばに建設された[3]。考古学的に四分庭園と実証された遺跡は、アンダルシアのマディーナ・アッ=ザフラーである。この遺跡は、後ウマイヤ朝時代の936年以降に建設された庭園である[4]。
西暦610年頃に開祖ムハンマドによってイスラム教(イスラーム教)が誕生すると、イスラム教が誕生したアラビア半島一帯で使用されていた建築様式を取り入れた建築様式が誕生した。この建築様式は、イスラム建築(イスラーム建築)と称されるものである。7世紀ごろに始まったイスラム建築は、当初は主としてビザンチン建築の伝統とサーサーン朝ペルシャの建築様式の伝統とを受け継いだ。その後、イスラム圏の拡大と共にイスラム建築が使用される地域も広がり、イスラム教を信奉する諸民族の土着の建築様式と融合しながらそれぞれの地域で発展を遂げた。
その結果、以来1300年間にわたる様式的発展はきわめて多様な建築様式に発展した。少なくとも初期(11世紀以前)・中世(12~15世紀)・近世(16世紀以後)の 3段階と、マグレブおよびスペイン圏・中東アラブ圏・トルコ圏・イラン中央アジア圏・インド圏・東南アジア圏の6系統に区別されるようになった。
また徹底した偶像否定の精神から具象的な壁画や彫刻は普及せず、アラビア文字で綴った『コーラン』の聖句や、抽象的な幾何学文様、植物文様などを浮彫、透かし彫、モザイク、象眼などによって表現する平面的な装飾が発達したのも、著しい特徴である。これらの偶像否定から誕生した植物文様、アラビア語の飾り文字などは現在では「アラベスク」と呼ばれており、イスラム建築を構成する重要な要素の一つとなっている。
全般的な傾向としては、中庭形式が多く、構造材料には焼成煉瓦、日干し煉瓦、割り石コンクリートなどを、また仕上げ材料にはスタッコ、テラコッタ、彩釉タイル、石パネルなどを用いている。また架構に尖頭形、馬蹄形、多弁形のアーチをはじめ、ボールト、スキンチ、ペンデンティブ、ドームなどの曲面構造を駆使している例が多い。固有の要素としてはミナレット(光塔)、イーワーン(前面開放型広間)、スタラクタイト(鍾乳石状装飾)などがあげられる[5]。
ムガル建築
イスラム王朝であるムガル帝国支配下のインド亜大陸においては、一種のイスラム建築であるムガル建築が発展した。ムガル帝国で栄えた建築は、主にペルシア的なイスラム建築の影響を残しつつも、土着のインド的な要素を取り入れていった。ムガル帝国は首都をカーブル、デリー、アーグラ、ラホールと度々、移動したため、都が築かれた各地でイスラム建築が建設され、インド亜大陸における建築様式に影響を与えた。
ムガル建築においては、ペルシャ式庭園のようなチャハルバーグ(四分庭園)を採用した庭園が多くを占めており、また、各都市に建設された城砦においては絵画や彫刻による室内の精緻な装飾が発展した。イスラム教の誕生地から遠く離れたインドでは、偶像否定の意識は低く、玉座の背後や室内の壁の一部などにはムガル絵画による絵画で装飾が施されている。
また、屋外の建造物では、ムガル帝国の皇族の出身地である中央アジアのイスラム建築の様式及びペルシャのイスラム建築の要素を多く取り入れ、正面の大きな壁龕やそこに施されたアラベスク等によるきめ細かな優美な装飾などが挙げられる。ミナレットの様式もペルシャ及び中央アジアと類似している。
初代皇帝バーブルは皇族同士の内紛によってもはや風前の灯火であったティムール朝を見限ってインドに侵攻、ローディー朝を破ってデリーにてムガル帝国を建国した。彼は、アヨーディヤーにバーブリー・マスジドを建設した。また、バーブルの庭園に対する嗜好は子供たちに受け継がれ、ムガル建築の特色となった。しかし、最終的にムガル建築が、飛躍的な発展を遂げたのは彼の孫の「大帝」アクバルの時代である。彼が建設した父王のためのフマーユーン廟の建設は北インドにおける中央集権国家が確立した証左であった。その他にもアーグラ城塞を新都アーグラに建設し、王宮とした。
さらに、新都ファテープル・シークリーの建築群は、インドを代表する赤い石を使用し、木造建築を模した石造建築というインドの伝統的な建築工法を導入した[6][7]。
シャー・ジャハーンの嗜好は白大理石であったといわれ、特にアーグラのヤムナー川に面するタージ・マハルが名高い。タージ・マハルは愛妃ムムターズ・マハルのために建設された白亜の建造物で、「世界で最も美しい墓廟」と評されるなど、後世においても評価は高く、現在ではインドの主たる観光名所の一つとなっている。デリーの赤い城のように赤砂岩を用いた建築物も残しているが、皇帝の私的空間には白大理石を好んで使用した[6]。彼の息子のアウラングゼーブは、ラホールにバードシャーヒー・モスクを建設した[7]。
総じて歴代ムガル皇帝の建築物の造営への熱意は高かったと言える。歴代ムガル皇帝は彼自身のための建造物や宗教的なモスクやマドラサ(学院)などの建造物、愛妃たちのための墓廟などの国家を挙げての建造を数多く行ったとされる。それらの活動によってインドのムガル建築が大きく発展したといえよう。その他にも、インド諸領邦の君主たちによる建造物の建設も大きな役割を果たしたとされている[7]。
オスマン建築
14世紀から19世紀、現在のトルコを中心に北アフリカ、西アジアなどで強勢を誇ったオスマン帝国(オスマン・トルコ、トルコ帝国ともいう)では、旧来のルーム・セルジューク朝の建築様式やペルシャ建築の系譜を継ぐ建築様式、即ちオスマン建築が開花した。トルコにおいて、建築を大きく前期と後期とに分ける場合、その後半を占めるのがオスマン建築であり、オスマン建築が使用された時期やその栄枯盛衰はオスマン帝国の発展と衰退と大きく関連している。
オスマン建築の源泉となった建築様式であるセルジューク建築は、中央アジアおよびイランのイスラム建築との関連性がみられる建築様式で、主にセルジューク朝及びその後継国家において用いられた建築様式である。
オスマン帝国の建築の起原は、オスマン帝国の前身オスマン侯国[8]の旧宗主国ルーム・セルジューク朝の建築とセルジューク朝のペルシャ建築からデザインを借用したものであり、政治的な安定を得るまでは、独自の意匠は開拓されなかった。東ローマ帝国の建築(ビザンティン建築)については、その関係があまり明確ではないものの、少なくとも初期の段階においては、ほとんど影響を受けていない[9]。
オスマン建築はイスタンブールやエディルネなどの重要な都市や旧都に建設された巨大なモスクの建築が印象的である。しかし、その一方で、ジャーミー(モスク)を中心としたマドラサ(学院)、病院、救済施設を融合した複合施設であるキュッリイェといった建築群、王宮として使用されたトプカプ宮殿などに代表されるキオスクの集合体としての宮殿、そして貴族や一般民衆の住宅建築などがオスマン建築の特徴となっている。
モスクなどにみられるオスマン建築独自の特徴は、ビザンチン建築のアヤソフィアのように大ドームや半ドームを組み合わせて一つの大きいジャーミーを形作っている点や、先が鋭い円錐形のミナレットなどが挙げられる。
初期のオスマン建築の特徴であるスクィンチによって支えられるシングル・ドームと、交差軸イーワーン・モスクは、ともにセルジューク建築に遡る。石と煉瓦を交互に積層する壁はビザンティン建築に起源があるが、その採用方法はビザンティン建築とは異なるものであるとされている。コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)を征服して東地中海の覇者となり、壮麗王と称されるスレイマン1世(大帝)のもとオスマン帝国が絶頂期を迎えると、オスマン建築はその意匠だけではなく、需要に応じた優れた社会施設や建築技術を開花させた。
特に、オスマン帝国再興の建築家と評される16世紀の建築家ミマール・スィナンによる数多くの建築は有名である。彼は、帝都イスタンブールには最大級のモスク・スレイマニエ・モスク、そして、西部の街エディルネにはスィナン自身が自身の最高傑作と認めたセリミエ・モスクを建設し、オスマン建築の黄金期を創り上げた。スィナンはビザンツ帝国時代に築かれたアヤソフィアの意匠と構造を参考にして、オスマン建築におけるジャーミーの様式を決定付けるなど、アヤソフィアから多大な影響を受けたとされており[10]、特にスレイマニエ・モスクはアヤソフィアのプランをモデルにして建設されたという。
また、メフメト・アーはイスタンブールにスルタン・アフメド・モスク(スルタンアフメト・モスク)を建設した。
16世紀以降、オスマン帝国は緩やかに衰退していくが、スィナン没後のオスマン建築もまた衰退し、その意匠は緊張感の欠けるものとなる。やがてジャーミーに代わり、スルタン(皇帝)や有力政治家の住居、邸宅の建築が盛んになり、ボスポラス海峡沿岸には豪華な邸宅建築が並ぶようになった。18世紀以降になると、オスマン帝国では以前の楊に巨大公共建築やモスクなどはほとんど建設されなくなり、停滞期に入るが、貴族や一般市民の住宅は継続的に建設されており、以後のオスマン建築は宮殿・住宅建築が主要な要素となる。
その後、オスマン帝国末期には、ヨーロッパ列強の影響力を強く受けるようになり、ドルマバフチェ宮殿などをはじめとするヨーロッパ風の宮殿建築が建設されるようになった。特にバロック建築やロココ建築が多く用いられたとされており、今でもボスポラス海峡の沿岸にはバロック建築やロココ建築で作られた宮殿や邸宅を多く見ることができる。しかし、意匠的にはヨーロッパ風の建築様式を参照しているものの、その平面計画はオスマン建築で伝統的に用いられたもので、その構造もオスマン建築の影響を色濃く受けたものであった。そのため、オスマン建築は1922年に起こったオスマン帝国の滅亡まで、その独自性を最後まで失うことはなかったとされている。
サファヴィー建築
イスラーム国家サファヴィー朝の時期に形成された建築様式をサファヴィー建築と称される。サファヴィー建築は、近隣のオスマン建築とともに、近世のイスラーム建築の一角を担う建築様式とされている。前期には大きく隆盛したが、後期になるとほとんど発展や進展は見られなくなった。
サファヴィー朝の中興の祖であるアッバース1世のもと、サファヴィー建築は比較的短期間に開花し、初期の段階でモスクの形式を洗練させたが、その後は細部の技巧に執着する傾向を示し、現代のイスラム建築にまで影響を与えるような新しい動きはほとんどなかった。他のイスラム諸国、例えば北方のジョチ・ウルスや西方のオスマン帝国の建築様式による影響は受けなかったが、サファヴィー朝時代以外のイスラム建築は現在のイランにほとんど残っておらず、サファヴィー朝の建築物の系統をたどることは難しいのが現状である。
サファヴィー朝において皇帝たちによって建造されたモスクや霊廟の建築がほぼすべてである。そのほかの住宅や市場などにおいては特に大きな変化はなかったとされているが、レンガなどを用いた建築手法は高く評価されている。歴代皇帝による建築の中でも前期においてはアッバース1世によるイスファハーンのメイダーネ・ナクシェ・ジャハーン(イマーム広場)やマスジド・イ・シャー(王のモスク)、後期においてはアッバース2世によるポル・イ・ハージュー(ハージュ橋)などは秀逸な建築とされる。
東アジア・東南アジア
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東アジアは、主に中国文化圏に属するため、朝鮮半島や日本、琉球、ベトナムなどでは中国の建築様式に強い影響を受けた建築様式が発展した。中国の黄河文明及び長江文明などでは古くから現在の中国建築に通じる建築様式の建造物が築かれており、それが後に殷や周、秦や漢などの中国を統一した強大な国家が誕生するにつ入れて巨大化した。また、周王朝時代からは瓦屋根が使われるようになったとされている。漢王朝などにおいては、周辺地域との朝貢の関係を通して建築様式が伝播した。
また、後の隋唐代では日本や朝鮮半島の諸国をはじめとする多くの東アジアの国家が中国文化圏に取り込まれ、中国の建築様式を模範とした建築様式が発展した。後に、それらの建築様式は気候風土や土着の建築様式との融合を経てそれぞれの地域独特の建築へと発展して行った。また、本家の中国では、現在にも残る紫禁城(故宮)などの巨大な宮殿建築や城、儒教や仏教の寺院などが建設され、明王朝、清王朝などを経て現在よく知られる建築様式となった。近代になっても中国王朝との朝貢の関係が続いていた国ではより中国らしい建築物が造られた。
その一方で、インドシナ半島やインドネシアの諸島部では、インドの影響を受けた建築様式及び中国の影響を受けた建築様式などが発展した。カンボジアのクメール王朝では寺院アンコール・ワットや王宮アンコール・トムが建設されたし、インドネシアのジャワ島には巨大な仏教寺院であるボロブドゥール遺跡が建設され、その当時の仏教建築又はヒンドゥー教の隆盛を物語っている。その後、それらの地域は多くがイスラム化され、新たにイスラム建築でモスクなどの建造物が建設されたが、それらはアラビアやペルシャの物とは若干異なる様式で築かれた。
アフリカ
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古代エジプトでは、古代エジプト建築が発達し、それらは主に神々に捧げる神殿や王の宮殿、そしてピラミッドなどに用いられた。代表的なものにカルナック神殿、ルクソール神殿などが挙げられる。また、建材には石材の他日干し煉瓦などが用いられ、エジプト新王国時代以降の神殿建築には、前面にピュロンと呼ばれる門塔、大列柱室と呼ばれる列柱が建ち並ぶ儀式を執り行う部屋、前室、そして神殿内で最も神聖な至聖所ないしナオスがあった。現在知られているエジプト建築は、殆どが神殿であり、王宮などは崩れやすい日干し煉瓦及び泥煉瓦でつくられたために非常にもろく、現在に残っているものはごくわずかである。
歴史上最も他の文明に影響を与えた文明である古代エジプト(エジプト文明)は、ナイル川の川岸に多様な建築物と巨大な記念碑を極めて多数建造したが、それらをファラオ(王)が国家の威厳を示すために建造したため大きく発展したのだった。それらの中で最も巨大で有名なものはギザのピラミッドとギザのスフィンクス、あるいは古都テーベ(現在のルクソール市)に残る巨大神殿の数々である。
また、古代エジプトにおいては測量術や天文学が大いに発展していたため、それらも巨大建造物を建設するために用いられた。その為、ギザのピラミッドなどは正しく南北東西を向いていることで有名である。また、古代エジプトでは太陽が昇る生の世界東と太陽の沈む死の世界西という宗教に由来する思想があったため、東西軸が重視されたと言われている。それ以前のエジプト初期王朝時代においては、北極星の信仰が盛んだったために南北軸が重要視されたという。
その内、もっとも古代から存在したと考えられている古代エジプト建築は、古代エジプト文明において発展した建築様式であり、その建築様式は古代エジプト文明で独自の発展を遂げた建築様式ではある。この建築様式は他の文明における建築様式に多くの影響を与え、ギリシア建築は地中海のクレタ島を経由して古代エジプト建築が伝わったのちに変貌したものであると末う説も存在する。ビザンティン建築(ビザンティン様式)、近代建築などにも多くはないが影響したと考えられている。
古代エジプトの衰亡の後は、周辺のギリシアやローマにおいてその部分的な要素が受け継がれたとされている。
また、前述の通り中世におけるイスラム化の後は、北アフリカ、アフリカの東海岸、およびサハラ砂漠ではイスラム建築が用いられ、それぞれ気候風土に合ったように変質し、現地に深く根を下ろす建築様式となった。それらの中で有名なものは、エジプト・カイロにあるイブン=トゥールーン・モスク、タンザニアのキルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群等である。その中で、キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群はキルワ島の中世における交易地としての繁栄と、当時のイスラム化を伝える遺跡で、現在は木々に埋もれて廃墟と化した遺跡が残るのみである。
アメリカ・オセアニア
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現在のメキシコ一帯のメソアメリカの諸文明(マヤ文明、アステカ文明など)では、独自の高度な石造技術をもととした優れた建築様式を発展させた。彼らは、それぞれの都市国家において「ピラミッド」と称される寺院建築や王墓を建造した。また、アンデス山脈のインカ帝国では、主に山の上に優れた石造技術を用いた建築が数多く建設された。マチュピチュはその最たる例で、現在も研究が続けられている。後に、欧米に植民地化されるとこれ等の建造技術は忘れ去られ、ヨーロッパ的な建築様式が取り入れられた。
北アメリカ一帯では、先住民のネイティヴアメリカンたちは「建築様式」をつくらず、建築様式が伝わるのは15世紀以降の欧米による植民地化の後のことである。
主な建築様式
先史時代
環地中海地方と中東の文明化
古代アジア
- インドの建築
- インドのロックカット建築
- パキスタン建築
- クメール建築
- チャンディ(インドネシアの寺院)
- 仏教建築
- ヒンドゥー教の寺院建築
- 日本建築
- 朝鮮建築
- シク建築
古代
中世前期
中世ヨーロッパ
暗黒時代と中世におけるアジア
暗黒時代と中世におけるアメリカ大陸
ルネサンスとその後継者
ルネサンス期及びその後の時代におけるアジア
新古典主義
リヴァイヴァルとオリエンタリズム
- 復興主義
- リゾート建築
- ヴィクトリア様式
- エドワーディアン様式
- ブルンコヴェネスク様式
- ゴシック・リヴァイヴァル建築
- イタリアネイト様式
- エジプト・リヴァイヴァル建築
- ビーダーマイヤー
- ロシア・リヴァイヴァル建築
- ロシア帝国における新ビザンティン建築
- ネオルネッサンス建築
- バロック・リヴァイヴァル建築
- 第二帝政期建築
- クイーン・アン様式
- ネオムデハル様式
- ムーリッシュ・リヴァイヴァル建築
- マヤ・リヴァイヴァル建築
- インド・サラセン様式
- スイスシャレー様式
- ロマネスク・リヴァイヴァル建築
- リチャードソニアン・ロマネスク
- ネオ・ビザンティン建築
- ミッション・リヴァイヴァル建築
- コロニアル・リヴァイヴァル建築
- スパニッシュ・コロニアル・リヴァイヴァル建築
- ボザール様式
- 都市美運動
その他の19世紀の様式
産業革命の影響
モダニズムとその互換のもの
その他の20世紀の様式
ポストモダニズム・21世紀の様式
築城
ヴァナキュラー建築
- ナチュラルビルディング
- イグルー
- クインジー
- 壁土
- ソッド・ハウス
- アドベ
- 泥レンガ
- 版築
- ログキャビン
- ログハウス
- ラウンドハウス
- 棚屋
- ヤランガ
- クォンセット・ハット
- ニッセン・ハット
- プレハブ住宅
- 地下生活
- ロックカット建築
- モノリシック教会
- 竪穴式住居
- わら俵建築様式
- アースバッグ
- アースシップ
- アースシェルター
- 長屋
- ラブ
- ゴアティ
- ヒーゼン・ホフ
- ヴァイキングの円形要塞
- イヴァノヴォの岩窟教会群
- スイスシャレー様式
- ガルフハウス
- ハウバーグ
- 低地ドイツの家
- 茅葺
- リゾート建築
- アイスランドのターフ・ハウス
- トルッロ
- ノルウェーの建築
- ポスト教会
- スターヴ教会
- 草屋根
- ロブ
- ドラゲスティル
- ナショナルロマンティック様式
- 北欧古典主義
- ザコパネ様式
- マウォポルスカ南部の木造聖堂群
- 上ルサティアの家
- マラムレシュの木造聖堂群
- ブラックハウス
- カルパティア山脈地域のスロバキア側の木造教会群
- テイト
- ホレオ
- パロザ
- ウクライナの木造教会
- 超大型住居
- 円塔
- アトランティックラウンドハウス
- クラノグ
- ダン
- ショットガンハウス
- ソルトボックスハウス
- ファームハウス
- ホーガン
- ティピー
- ウィグワム
- キバ
- 岩棚住居
- チクキー
- スウェット・ロッジ
- テマスカル
- ロンダヴェル
- 窯洞
- 四合院
- 土楼
- 香港の棚屋
- インドのロックカット建築
- キャラバンサライ
- ヤフチャール
- 日本の民家
- ゲル
- ニパハット
- チュム
脚注
- ^ 佐藤達生著、『西洋建築の歴史』、河出書房、2005年8月20日初版発行、ISBN 4309760694、10頁
- ^ R. Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture, p. 245.
- ^ a b IG 2012, p. 56.
- ^ IG 2012, p. 57.
- ^ コトバンク『イスラム建築』
- ^ a b 山田敦美 著「第4章補説9_ムガル細密画・庭園・建築」、小谷汪之 編『南アジア史_2』山川出版社、2007年、pp. 187-192頁。ISBN 978-4-634-46209-0。
- ^ a b c 宮原辰夫『ムガル建築の魅力』春風社,2019年10月25日,初版発行
- ^ 林佳世子『オスマン帝国 500年の歴史』講談社学術文庫,2020年11月10日第10刷発行,p19
- ^ J.D.ホーグ『図説世界建築史イスラム建築』p218, p237
- ^ A.クロー『スレイマン大帝とその時代』p355。
関連項目
- 建築史
- 教会堂
- 建築物
- 古代エジプト建築
- ギリシア建築
- ローマ建築
- ビザンティン建築
- ロマネスク建築
- ゴシック建築
- ルネサンス建築
- バロック建築
- ロココ建築
- 新古典主義建築
- ロシア建築
- ネオ・ビザンティン建築
- ネオ・ルネサンス建築
- ゴシック・リヴァイヴァル建築
- 歴史主義建築
- 現代建築
- 日本建築
- イスラム建築
- ムガル建築