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「ゲオルク・アレクサンダー・ツー・メクレンブルク (1859-1909)」の版間の差分

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== 生涯 ==
== 生涯 ==
メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[ゲオルク (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|ゲオルク]]の次男[[ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク|ゲオルク・アウグスト]]とその妻でロシア大公[[ミハイル・パヴロヴィチ]]の娘である[[エカチェリーナ・ミハイロヴナ]]の間の第3子、次男として生まれた。母方の祖母[[エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)|エレナ・パヴロヴナ大公妃]]の暮らすサンクトペテルブルクの[[ロシア美術館|ミハイロフスキー宮殿]]で育ち、[[パーヴェル1世]]皇帝の曾孫として、両親や姉弟とともに広義のロシア帝室の一員と見なされていた。
メクレンブルク=シュトレーリッツ大公[[ゲオルク (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)|ゲオルク]]の次男[[ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク|ゲオルク・アウグスト]]とその妻でロシア大公[[ミハイル・パヴロヴィチ]]の娘である[[エカチェリーナ・ミハイロヴナ]]の間の第3子、次男として生まれた。母方の祖母[[エレナ・パヴロヴナ (ロシア大公妃)|エレナ・パヴロヴナ大公妃]]の暮らすサンクトペテルブルクの[[ロシア美術館|ミハイロフスキー宮殿]]で育ち、[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]皇帝の曾孫として、両親や姉弟とともに広義のロシア帝室の一員と見なされていた。


ドイツの大学を卒業後にロシア陸軍に入隊し、{{仮リンク|近衛軍竜騎兵連隊|ru|Драгунский лейб-гвардии полк}}の連隊長を務めて、陸軍少将まで昇進した。音楽的才能に恵まれ、[[チェロ]]や[[ピアノ]]を弾きこなしたほか作曲も手がけ、自身の結成した[[弦楽四重奏団|弦楽カルテット]]を率いた。
ドイツの大学を卒業後にロシア陸軍に入隊し、{{仮リンク|近衛軍竜騎兵連隊|ru|Драгунский лейб-гвардии полк}}の連隊長を務めて、陸軍少将まで昇進した。音楽的才能に恵まれ、[[チェロ]]や[[ピアノ]]を弾きこなしたほか作曲も手がけ、自身の結成した[[弦楽四重奏団|弦楽カルテット]]を率いた。

2021年6月13日 (日) 07:41時点における版

ゲオルク・アレクサンダー
Georg Alexander
メクレンブルク公

全名 Georg Alexander Michael Friedrich Wilhelm Franz Karl
身位 メクレンブルク公
敬称 殿下
出生 (1859-06-06) 1859年6月6日
レンプリン英語版
死去 (1909-12-05) 1909年12月5日(50歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国 サンクトペテルブルク
配偶者 ナターリヤ・フョードロヴナ・ヴォンリャルスカヤロシア語版
父親 ゲオルク・アウグスト・ツー・メクレンブルク
母親 エカチェリーナ・ミハイロヴナ
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ゲオルク・アレクサンダー・ツー・メクレンブルク:Herzog Georg Alexander zu Mecklenburg[-Strelitz], 1859年6月6日 レンプリン英語版 - 1909年12月5日 サンクトペテルブルク)は、ドイツメクレンブルク=シュトレーリッツ大公家の一員で、ロシア帝国の軍人。ロシア語名はゲオルギー・ゲオルギエヴィチ・メクレンブルク=ストレリツキーГеоргий Георгиевич Мекленбург-Стрелицкий)。ドイツ語全名はゲオルク・アレクサンダー・ミヒャエル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フランツ・カール(Georg Alexander Michael Friedrich Wilhelm Franz Karl)。

生涯

メクレンブルク=シュトレーリッツ大公ゲオルクの次男ゲオルク・アウグストとその妻でロシア大公ミハイル・パヴロヴィチの娘であるエカチェリーナ・ミハイロヴナの間の第3子、次男として生まれた。母方の祖母エレナ・パヴロヴナ大公妃の暮らすサンクトペテルブルクのミハイロフスキー宮殿で育ち、パーヴェル1世皇帝の曾孫として、両親や姉弟とともに広義のロシア帝室の一員と見なされていた。

ドイツの大学を卒業後にロシア陸軍に入隊し、近衛軍竜騎兵連隊ロシア語版の連隊長を務めて、陸軍少将まで昇進した。音楽的才能に恵まれ、チェロピアノを弾きこなしたほか作曲も手がけ、自身の結成した弦楽カルテットを率いた。

1890年2月14日にサンクトペテルブルクにおいて、ロシア貴族の娘ナターリヤ・フョードロヴナ・ヴォンリャルスカヤロシア語版(1858年 - 1921年)と結婚した。この結婚は貴賤結婚とされ、ナターリヤおよび夫妻の間に生まれた子供は、ゲオルク・アレクサンダーの従兄の大公アドルフ・フリードリヒ5世の計らいにより、メクレンブルク家の所領のあるカーロウ英語版(現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州ノルトヴェストメクレンブルク郡)に因んだ「カルロフ伯爵家」を名乗ることになった。

1895年、妻子とともにミハイロフスキー宮殿を出てフォンタンカ街46番地の屋敷に移り、1909年に50歳で世を去った。一人息子のゲオルギーは1928年、ゲオルク・アレクサンダーの弟カール・ミヒャエルの養子に入り、1934年には正嫡の絶えたメクレンブルク=シュトレーリッツ大公家の家督を継いでメクレンブルク公を名乗った。

子女

ゲオルク・アレクサンダーとその妻子(1907年頃)

妻ナターリヤとの間に1男3女の4人の子女をもうけた。いずれもカルロフ伯爵(夫人)の姓を名乗ったが、長男ゲオルギーのみは1928年よりメクレンブルク公を称した。

外部リンク

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