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アキーンフィには3人の息子がおり、長男の{{仮リンク|プロコーフィ・デミドフ|en|Prokofi Akinfiyevich Demidov|label=プロコーフィ・デミドフ}}(1710年 - 1786年)は{{仮リンク|モスクワ孤児院|en|Moscow Orphanage|label=モスクワ孤児院}}を創設するなど慈善事業を熱心に行った。次男の{{仮リンク|グリゴリー・デミドフ|ru|Демидов, Григорий Акинфиевич|label=グリゴリー・デミドフ}}(1715年 - 1761年)の息子{{仮リンク|パーヴェル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ|en|Pavel Grigoryevich Demidov|label=パーヴェル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ}}(1738年 - 1821年)は、ロシアにおける科学教育の振興に努め、[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]や[[ペーター・ジーモン・パラス|パラス]]ら同時代の第一級の科学者たちと親交を結んだ。彼は1803年に[[ヤロスラヴリ]]に{{仮リンク|デミドフ法律学校|ru|Демидовский юридический лицей|label=デミドフ・リュケイオン}}(現在の{{仮リンク|ヤロスラヴリ州立大学|en|Yaroslavl State University|label=ヤロスラヴリ州立大学}}の前身)を設立し、[[モスクワ大学]]に[[博物学]]を講義するデミドフ講座を開き、[[ロシア科学アカデミー]]にロシア語文学に対して与えられる文学賞を創設させた。パーヴェルの兄{{仮リンク|アレクサンドル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ|ru|Демидов, Александр Григорьевич (действительный статский советник)}}(1737年 - 1803年)の末裔[[ニコライ・ペトロヴィチ・ロプーヒン=デミドフ|ニコライ・ペトロヴィチ・デミドフ]](1836年 - 1910年)は、断絶した縁戚のロプーヒン家の名跡を継ぎ、1876年ロプーヒン=デミドフ公爵位を認められた。 |
アキーンフィには3人の息子がおり、長男の{{仮リンク|プロコーフィ・デミドフ|en|Prokofi Akinfiyevich Demidov|label=プロコーフィ・デミドフ}}(1710年 - 1786年)は{{仮リンク|モスクワ孤児院|en|Moscow Orphanage|label=モスクワ孤児院}}を創設するなど慈善事業を熱心に行った。次男の{{仮リンク|グリゴリー・デミドフ|ru|Демидов, Григорий Акинфиевич|label=グリゴリー・デミドフ}}(1715年 - 1761年)の息子{{仮リンク|パーヴェル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ|en|Pavel Grigoryevich Demidov|label=パーヴェル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ}}(1738年 - 1821年)は、ロシアにおける科学教育の振興に努め、[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]や[[ペーター・ジーモン・パラス|パラス]]ら同時代の第一級の科学者たちと親交を結んだ。彼は1803年に[[ヤロスラヴリ]]に{{仮リンク|デミドフ法律学校|ru|Демидовский юридический лицей|label=デミドフ・リュケイオン}}(現在の{{仮リンク|ヤロスラヴリ州立大学|en|Yaroslavl State University|label=ヤロスラヴリ州立大学}}の前身)を設立し、[[モスクワ大学]]に[[博物学]]を講義するデミドフ講座を開き、[[ロシア科学アカデミー]]にロシア語文学に対して与えられる文学賞を創設させた。パーヴェルの兄{{仮リンク|アレクサンドル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ|ru|Демидов, Александр Григорьевич (действительный статский советник)}}(1737年 - 1803年)の末裔[[ニコライ・ペトロヴィチ・ロプーヒン=デミドフ|ニコライ・ペトロヴィチ・デミドフ]](1836年 - 1910年)は、断絶した縁戚のロプーヒン家の名跡を継ぎ、1876年ロプーヒン=デミドフ公爵位を認められた。 |
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アキーンフィの三男{{仮リンク|ニキータ・アキーンフィエヴィチ・デミドフ|en|Nikita Akinfiyevich Demidov|label=ニキータ・アキーンフィエヴィチ・デミドフ}}(1724年 - 1789年)の息子[[ニコライ・デミドフ]](1774年 - 1828年)は、1812年の[[1812年ロシア戦役|ナポレオンのロシア侵攻]]では自らの所有する歩兵連隊を率いて戦い、また鉱山業の経営で財産を増やし続けた。当時の首都[[サンクトペテルブルク]]に4つの橋を建設し、従兄のパーヴェル・グリゴリーエヴィチと同じくロシアにおける科学文化の発展に貢献した。1798年には[[ロシア皇帝]][[パーヴェル1世]]から正教系[[聖ヨハネ騎士団]]総長の職を譲られた。1827年、ニコライは[[イタリア]]の[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]により伯爵位を授けられた。 |
アキーンフィの三男{{仮リンク|ニキータ・アキーンフィエヴィチ・デミドフ|en|Nikita Akinfiyevich Demidov|label=ニキータ・アキーンフィエヴィチ・デミドフ}}(1724年 - 1789年)の息子[[ニコライ・デミドフ]](1774年 - 1828年)は、1812年の[[1812年ロシア戦役|ナポレオンのロシア侵攻]]では自らの所有する歩兵連隊を率いて戦い、また鉱山業の経営で財産を増やし続けた。当時の首都[[サンクトペテルブルク]]に4つの橋を建設し、従兄のパーヴェル・グリゴリーエヴィチと同じくロシアにおける科学文化の発展に貢献した。1798年には[[ロシア皇帝]][[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル1世]]から正教系[[聖ヨハネ騎士団]]総長の職を譲られた。1827年、ニコライは[[イタリア]]の[[トスカーナ大公国|トスカーナ大公]][[レオポルド2世 (トスカーナ大公)|レオポルド2世]]により伯爵位を授けられた。 |
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ニコライの長男[[パーヴェル・ニコラエヴィチ・デミドフ]](1798年 - 1840年)は官僚となり、県知事・国家評議会議員などの要職を占めた。そして1831年に諸科学に貢献した人物に与えられる[[デミドフ賞]]を創設した。ニコライの次男[[アナトーリー・デミドフ]](1813年 - 1870年)は兄と違ってロシア政府には仕えず、[[西欧]]の貴族社交界で生涯を送った。彼は1840年に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]皇帝の姪[[マチルド・ボナパルト]]と結婚し、彼女との身分の釣り合いをとるという理由でトスカーナ大公からサン・ドナート公爵({{lang|it|Principe di San Donato}})の爵位を授かった。アナトーリーには息子が無く、公爵の称号は兄の息子[[パーヴェル・パヴロヴィチ・デミドフ]](1839年 - 1885年)が受け継いだ。サン・ドナート公爵の称号は1943年に男子相続人が絶えると、消滅した。 |
ニコライの長男[[パーヴェル・ニコラエヴィチ・デミドフ]](1798年 - 1840年)は官僚となり、県知事・国家評議会議員などの要職を占めた。そして1831年に諸科学に貢献した人物に与えられる[[デミドフ賞]]を創設した。ニコライの次男[[アナトーリー・デミドフ]](1813年 - 1870年)は兄と違ってロシア政府には仕えず、[[西欧]]の貴族社交界で生涯を送った。彼は1840年に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]皇帝の姪[[マチルド・ボナパルト]]と結婚し、彼女との身分の釣り合いをとるという理由でトスカーナ大公からサン・ドナート公爵({{lang|it|Principe di San Donato}})の爵位を授かった。アナトーリーには息子が無く、公爵の称号は兄の息子[[パーヴェル・パヴロヴィチ・デミドフ]](1839年 - 1885年)が受け継いだ。サン・ドナート公爵の称号は1943年に男子相続人が絶えると、消滅した。 |
2021年6月13日 (日) 07:41時点における最新版
デミドフ家(露:Деми́довы, 英: Demidov)は、ロシアの商人、産業資本家、貴族の家系。
歴史[編集]
始祖のデミド・アントゥフィエフ(Демид Григорьевич Антуфьев)はトゥーラ出身の自由民の鍛冶屋であった。その息子ニキータ・デミドフ(1656年 - 1727年)は武器製造の工場を経営して財産をなし、政府の要請を受けて鋳鉄工場を設立・運営した。彼はピョートル1世大帝の信任を受け、1720年には貴族に列せられた。続く18・19世紀の2世紀間にわたり、デミドフ家の経営する工場はロシアで生産される鉄の大部分を占めた。
ニキータの息子アキーンフィ・デミドフ(1678年 - 1745年)は、金、銀、銅などを算出する鉱山の発見と採掘により、父から相続した財産をさらに大きなものにした。彼はシベリアにおける鉱山業の拠点として都市バルナウルを建設させたほか、その建設の意図について様々な議論のあるネヴャンスクの斜塔を建立した。
アキーンフィには3人の息子がおり、長男のプロコーフィ・デミドフ(1710年 - 1786年)はモスクワ孤児院を創設するなど慈善事業を熱心に行った。次男のグリゴリー・デミドフ(1715年 - 1761年)の息子パーヴェル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ(1738年 - 1821年)は、ロシアにおける科学教育の振興に努め、リンネやパラスら同時代の第一級の科学者たちと親交を結んだ。彼は1803年にヤロスラヴリにデミドフ・リュケイオン(現在のヤロスラヴリ州立大学の前身)を設立し、モスクワ大学に博物学を講義するデミドフ講座を開き、ロシア科学アカデミーにロシア語文学に対して与えられる文学賞を創設させた。パーヴェルの兄アレクサンドル・グリゴリーエヴィチ・デミドフ(1737年 - 1803年)の末裔ニコライ・ペトロヴィチ・デミドフ(1836年 - 1910年)は、断絶した縁戚のロプーヒン家の名跡を継ぎ、1876年ロプーヒン=デミドフ公爵位を認められた。
アキーンフィの三男ニキータ・アキーンフィエヴィチ・デミドフ(1724年 - 1789年)の息子ニコライ・デミドフ(1774年 - 1828年)は、1812年のナポレオンのロシア侵攻では自らの所有する歩兵連隊を率いて戦い、また鉱山業の経営で財産を増やし続けた。当時の首都サンクトペテルブルクに4つの橋を建設し、従兄のパーヴェル・グリゴリーエヴィチと同じくロシアにおける科学文化の発展に貢献した。1798年にはロシア皇帝パーヴェル1世から正教系聖ヨハネ騎士団総長の職を譲られた。1827年、ニコライはイタリアのトスカーナ大公レオポルド2世により伯爵位を授けられた。
ニコライの長男パーヴェル・ニコラエヴィチ・デミドフ(1798年 - 1840年)は官僚となり、県知事・国家評議会議員などの要職を占めた。そして1831年に諸科学に貢献した人物に与えられるデミドフ賞を創設した。ニコライの次男アナトーリー・デミドフ(1813年 - 1870年)は兄と違ってロシア政府には仕えず、西欧の貴族社交界で生涯を送った。彼は1840年にナポレオン皇帝の姪マチルド・ボナパルトと結婚し、彼女との身分の釣り合いをとるという理由でトスカーナ大公からサン・ドナート公爵(Principe di San Donato)の爵位を授かった。アナトーリーには息子が無く、公爵の称号は兄の息子パーヴェル・パヴロヴィチ・デミドフ(1839年 - 1885年)が受け継いだ。サン・ドナート公爵の称号は1943年に男子相続人が絶えると、消滅した。
デミドフ家は他のロシア貴族たちと同じく、第1次世界大戦中に起きたロシア革命によってロシアを追われ、財産と地位を失った。
系譜[編集]
デミド | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニキータ (1656-1725) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アキーンフィ (1678-1745) | グリゴリー (?-1728) | ニキータ (1680?-1758) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プロコーフィ (1710-1786) | グリゴリー (1715-1761) | ニキータ (1724-1789) | イヴァン (1708—1730) | エヴドキム (1713-1782) | イヴァン (1725-1789) | ニキータ (1728-1804) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レフ (1740?-1800) | アレクサンドル (1737-1803) | パーヴェル (1739-1821) | ピョートル (1740-1826) | ニコライ (1773-1828) | イヴァン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴァシーリー (1769-1861) | グリゴリー (1765-1827) | パーヴェル (1798-1840) | アナトーリー (1812-1870) | ニコライ (1773-1833) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンドル (1811-1872) | ピョートル (1807-1862) | パーヴェル (1839-1885) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プラトン (1840-1892) | ニコライ (1836-1910) | エリム (1868-1943) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
イーゴリ (1873-1946) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献[編集]
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Demidov". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 7 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 984.