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「エリザ・ラジヴィウヴナ」の版間の差分

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ヴィルヘルムは結婚して王家の世継ぎを儲ける必要に迫られていた。王子の父親でエリザの又従兄でもある国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は、2人の関係を好ましく思っていたが、プロイセン宮廷はエリザの先祖が[[フュルスト|帝国諸侯]]の称号を16世紀に神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]から買い取ったという歴史的経緯を問題として取り上げた。気位の高い人々にとっては、エリザはプロイセン王妃となるには父方の血統の点で相応しくないというのである。
ヴィルヘルムは結婚して王家の世継ぎを儲ける必要に迫られていた。王子の父親でエリザの又従兄でもある国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は、2人の関係を好ましく思っていたが、プロイセン宮廷はエリザの先祖が[[フュルスト|帝国諸侯]]の称号を16世紀に神聖ローマ皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]から買い取ったという歴史的経緯を問題として取り上げた。気位の高い人々にとっては、エリザはプロイセン王妃となるには父方の血統の点で相応しくないというのである。


このため1824年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は子供のないロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]にエリザの養父となってくれるよう依頼したが、ロシア皇帝はこの要請を断った。次に養父候補として挙がったのはエリザの叔父であるプロイセンの[[アウグスト・フォン・プロイセン|アウグスト]]王子だったが、こちらも失敗した。この問題に関する諮問委員会が養子縁組をしても「血統」が変わるわけではない、と結論したためだった。また、亡き[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]王妃(ヴィルヘルムの母親)の実家で、プロイセン宮廷とロシア宮廷に影響力をもつ[[メクレンブルク家]]が、エリザの父アントニ公を嫌っており、この結婚に反対したことも、この縁談をこじれさせていた。
このため1824年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は子供のないロシア皇帝[[アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル1世]]にエリザの養父となってくれるよう依頼したが、ロシア皇帝はこの要請を断った。次に養父候補として挙がったのはエリザの叔父であるプロイセンの[[アウグスト・フォン・プロイセン|アウグスト]]王子だったが、こちらも失敗した。この問題に関する諮問委員会が養子縁組をしても「血統」が変わるわけではない、と結論したためだった。また、亡き[[ルイーゼ・フォン・メクレンブルク=シュトレーリッツ|ルイーゼ]]王妃(ヴィルヘルムの母親)の実家で、プロイセン宮廷とロシア宮廷に影響力をもつ[[メクレンブルク家]]が、エリザの父アントニ公を嫌っており、この結婚に反対したことも、この縁談をこじれさせていた。


こうした事情から1826年6月、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はヴィルヘルム王子とエリザとの将来の結婚の可能性を否認する宣言を出すのを余儀なくされた。ヴィルヘルムはその後の数か月間、王家に相応しい自分の花嫁を選んでいたが、エリザに対する愛情を断つことは出来なかった。ヴィルヘルム王子は1826年8月29日、14歳年下のザクセン=ヴァイマル公女[[アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|アウグスタ]]と結婚した。王子がかつての許嫁エリザと最後に会ったのは1829年のことだった。
こうした事情から1826年6月、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はヴィルヘルム王子とエリザとの将来の結婚の可能性を否認する宣言を出すのを余儀なくされた。ヴィルヘルムはその後の数か月間、王家に相応しい自分の花嫁を選んでいたが、エリザに対する愛情を断つことは出来なかった。ヴィルヘルム王子は1826年8月29日、14歳年下のザクセン=ヴァイマル公女[[アウグスタ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ|アウグスタ]]と結婚した。王子がかつての許嫁エリザと最後に会ったのは1829年のことだった。

2021年6月13日 (日) 08:02時点における版

エリザ・ラジヴィウヴナ
Eliza Radziwiłłówna
全名
家名 ラジヴィウ家
父親 アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ
母親 ルイーゼ・フォン・プロイセン
出生 (1803-10-28) 1803年10月28日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン
死亡 (1834-08-27) 1834年8月27日(30歳没)
プロイセン王国の旗 プロイセン王国バート・フライエンヴァルデ
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エリザ・ラジヴィウヴナの紋章

エリザ・フリデリカ・ルイザ・マルタ・ラジヴィウヴナポーランド語Eliza Fryderyka Luiza Marta Radziwiłłównaドイツ語Elisa Friederike Luise Martha Radziwiłł, 1803年10月28日 - 1834年8月27日)は、ポーランド・リトアニアの貴族女性、公女(帝国諸侯)。遠縁にあたるプロイセンのヴィルヘルム王子(後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)の花嫁に望まれ許嫁となったが、家柄や政治的思惑などの問題からこの恋愛結婚は実現しなかった。

生涯

ポズナン大公国の総督アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ公と、プロイセン王フリードリヒ2世の姪の一人ルイーゼ王女との間に生まれた。このためプロイセン王家とは親族関係にあり、ドイツ人として育てられた。ヴィルヘルム王子は、当時すでにプロイセン王位の推定相続人となっていたが、父の又従妹にあたるエリザに恋心を抱くようになった。

ヴィルヘルムは結婚して王家の世継ぎを儲ける必要に迫られていた。王子の父親でエリザの又従兄でもある国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、2人の関係を好ましく思っていたが、プロイセン宮廷はエリザの先祖が帝国諸侯の称号を16世紀に神聖ローマ皇帝カール5世から買い取ったという歴史的経緯を問題として取り上げた。気位の高い人々にとっては、エリザはプロイセン王妃となるには父方の血統の点で相応しくないというのである。

このため1824年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は子供のないロシア皇帝アレクサンドル1世にエリザの養父となってくれるよう依頼したが、ロシア皇帝はこの要請を断った。次に養父候補として挙がったのはエリザの叔父であるプロイセンのアウグスト王子だったが、こちらも失敗した。この問題に関する諮問委員会が養子縁組をしても「血統」が変わるわけではない、と結論したためだった。また、亡きルイーゼ王妃(ヴィルヘルムの母親)の実家で、プロイセン宮廷とロシア宮廷に影響力をもつメクレンブルク家が、エリザの父アントニ公を嫌っており、この結婚に反対したことも、この縁談をこじれさせていた。

こうした事情から1826年6月、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はヴィルヘルム王子とエリザとの将来の結婚の可能性を否認する宣言を出すのを余儀なくされた。ヴィルヘルムはその後の数か月間、王家に相応しい自分の花嫁を選んでいたが、エリザに対する愛情を断つことは出来なかった。ヴィルヘルム王子は1826年8月29日、14歳年下のザクセン=ヴァイマル公女アウグスタと結婚した。王子がかつての許嫁エリザと最後に会ったのは1829年のことだった。

エリザはその後、フリードリヒ・フォン・フュルステンベルク公爵と婚約したが破談に終わり、1834年に未婚のまま結核で死んだ。

ヴィルヘルムはエリザとアウグスタの2人の花嫁候補に対し、彼女たちそれぞれとの結婚生活について全く異なる期待を抱いていた。王子は妹のロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナに対し、エリザについては「生涯で愛した唯一の人」とする一方で、アウグスタについては「王女はとても可愛くて利発ですが、僕の心は彼女といても醒めたままです」とする内容の手紙を書き送っている。幼いアウグスタは婚約者を慕って幸福な結婚を夢想していたが、結婚後にエリザ・ラジヴィウヴナのことが知れると、アウグスタは自分が夫にとってはエリザの都合のいい代役に過ぎないのだと気付くことになり、夫婦関係は不幸なものとなった。