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「タラス・シェフチェンコ」の版間の差分

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'''タラス・グリゴリエヴィチ・シェフチェンコ'''、'''タラス・フルィホーロヴィチ・シェウチェンコ'''<ref>ウクライナ語に準ずる正しい表記は'''シェウチェンコ'''だが、現時点では慣例的に'''シェフチェンコ'''と表記されることがほとんどである。従来[[ロシア語]]文献・[[ロシア文学]]からの紹介が多かった名残。「ニューエクスプレス ウクライナ語」中澤英彦著(白水社, 2009)、「新興国ウクライナ」ウイルヘルム・キスキー著、世界思潮研究会訳(世界思潮研究会, 1921)では、'''タラス・シェウチェンコ'''と紹介されている。</ref>({{lang-uk|Тара́с Григо́рович Шевче́нко}} {{Lang-ru|Тарас Григорьевич Шевченко}} {{Lang-en|Taras Hryhorovych Shevchenko}}、[[1814年]][[3月9日]] - [[1861年]][[3月10日]]<ref name="britannica"/>)は[[ウクライナ]]の[[詩人]]、[[画家]]である。ウクライナ語名は。近代[[ウクライナ語]]文学の始祖と評価されている。
'''タラス・グリゴリエヴィチ・シェフチェンコ'''、'''タラス・フルィホーロヴィチ・シェウチェンコ'''<ref>ウクライナ語に準ずる正しい表記は'''シェウチェンコ'''だが、現時点では慣例的に'''シェフチェンコ'''と表記されることがほとんどである。従来[[ロシア語]]文献・[[ロシア文学]]からの紹介が多かった名残。「ニューエクスプレス ウクライナ語」中澤英彦著(白水社, 2009)、「新興国ウクライナ」ウイルヘルム・キスキー著、世界思潮研究会訳(世界思潮研究会, 1921)では、'''タラス・シェウチェンコ'''と紹介されている。</ref>({{lang-uk|Тара́с Григо́рович Шевче́нко}} {{Lang-ru|Тарас Григорьевич Шевченко}} {{Lang-en|Taras Hryhorovych Shevchenko}}、[[1814年]][[3月9日]] - [[1861年]][[3月10日]]<ref name="britannica"/>)は[[ウクライナ]]の[[詩人]]、[[画家]]である。ウクライナ語名は。近代[[ウクライナ語]]文学の始祖と評価されている。


[[農奴制]]に反対し、[[秘密結社]]「[[聖キリルと聖メソジウス団]]({{lang|uk|Кирило-Мефодіївське братство}})」に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの[[農奴]]の解放に力を尽くした。[[1847年]][[4月5日]]に同結社に手入れが入った際に、シェフチェンコが書いた皇帝[[ニコライ1世]]とその妻[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ]]を批判する詩が見つかり逮捕された。[[サンクトペテルブルク]]の刑務所に入れられた後、10年間の流刑生活を送った。皇帝の命により、流刑の間はペンと筆を持つことを禁止された。
[[農奴制]]に反対し、[[秘密結社]]「[[聖キリルと聖メソジウス団]]({{lang|uk|Кирило-Мефодіївське братство}})」に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの[[農奴]]の解放に力を尽くした。[[1847年]][[4月5日]]に同結社に手入れが入った際に、シェフチェンコが書いた皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]とその妻[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ]]を批判する詩が見つかり逮捕された。[[サンクトペテルブルク]]の刑務所に入れられた後、10年間の流刑生活を送った。皇帝の命により、流刑の間はペンと筆を持つことを禁止された。


[[画家]]としての才能も優れていて有名である。ウクライナ国内では人気が高く、首都[[キエフ]]には彼の名を冠した[[キエフ大学|タラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学]]がある。
[[画家]]としての才能も優れていて有名である。ウクライナ国内では人気が高く、首都[[キエフ]]には彼の名を冠した[[キエフ大学|タラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学]]がある。

2021年6月13日 (日) 08:23時点における版

Taras Hryhorovych Shevchenko
Тарас Григорович Шевченко
タラス・シェフチェンコの自画像
誕生 1814年3月9日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国、モールィンツィ
死没 (1861-03-10) 1861年3月10日(47歳没)
ロシア帝国ペテルブルク
職業 画家、詩人、作家
国籍 ロシア帝国
活動期間 1840年1861年[1]
代表作 コブザール
署名
兵役経験
部門ロシア帝国陸軍
Odesa
軍歴1847年1857年
最終階級二等兵
部隊Orsk (1847–1850)
Fort - Shevchenko英語版 (1850年–1857年)
戦闘1848年 アラル遠征
1851年 カラタウ遠征
ウィキポータル 文学
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タラス・グリゴリエヴィチ・シェフチェンコタラス・フルィホーロヴィチ・シェウチェンコ[2]ウクライナ語: Тара́с Григо́рович Шевче́нко ロシア語: Тарас Григорьевич Шевченко 英語: Taras Hryhorovych Shevchenko1814年3月9日 - 1861年3月10日[1])はウクライナ詩人画家である。ウクライナ語名は。近代ウクライナ語文学の始祖と評価されている。

農奴制に反対し、秘密結社聖キリルと聖メソジウス団Кирило-Мефодіївське братство)」に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの農奴の解放に力を尽くした。1847年4月5日に同結社に手入れが入った際に、シェフチェンコが書いた皇帝ニコライ1世とその妻アレクサンドラを批判する詩が見つかり逮捕された。サンクトペテルブルクの刑務所に入れられた後、10年間の流刑生活を送った。皇帝の命により、流刑の間はペンと筆を持つことを禁止された。

画家としての才能も優れていて有名である。ウクライナ国内では人気が高く、首都キエフには彼の名を冠したタラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学がある。

概要

タラス・シェフチェンコは1814年3月9日[3]ロシア帝国ウクライナキエフ県モールィンツィ[4]農奴の家で生まれた。幼い頃より輔祭が営んでいた学校で読み書きを習いながら、絵画を独学していた。11歳の時にシェフチェンコは孤児になり、14歳にヴィリシャーナ村の地主、ドイツ系ロシア貴族パヴェル・エンゲリガルドトの家庭で小使を務めはじめた。

1829年に地主を伴い、ロシア帝国領リトアニアヴィリニュスへ移り、1831年以降は帝国の首都ペテルブルクに住むようになった。地主はシェフチェンコを家庭画家にする予定があったので、シェフチェンコはロシア画家V.シリャイエフの弟子となり、美術を習うこととなった。この頃から、シェフチェンコは密かに詩を書くようになる。

シェフチェンコの作品はロシアの画家たちカール・ブリューロフイヴァン・ソシェンコアレクセイ・ヴェネツィアノフと、詩人たちヴァシリー・ジュコフスキーイェヴゲン・フレビーンカなどによって高く評価され、1838年にシェフチェンコ自身は彼らの努力によって農奴制から解放された。同年、上述した文化人たちの推薦によってシェフチェンコはロシア帝国美術大学に入学し、ブリューロフの弟子となった。

1840年にシェフチェンコは、美術大学に在籍しながら、有名な詩集『コブザール』を著した。詩集はウクライナ語で書かれていたので、ヴィッサリオン・ベリンスキーをはじめとするロシアの知識人はシェフチェンコを「いなかっぺの言葉」を用いる「いなかっぺの詩人」として鋭く批判した。一方、ウクライナの文化人たちは、『コブザール』を絶賛した。都の批判に対しシェフチェンコは、ウクライナ・コサック時代を英雄化する『ハイダマークィ』(1841年)と『ハマリア』(1844年)という二つの物語詩を出版した。

1843年にシェフチェンコはウクライナに戻り、史学者ムィハーロ・マクスィモーヴィチと作家パンテレイモーン・クリーシュと知り合い、『絵のように美しいウクライナ』という絵画シリーズを作り始めた。大学に戻ったシェフチェンコは、1844年に反農奴制と反帝国主義を説く『夢』という政治的物語詩を著した。同じく農奴である役者、ミハイル・シェープキンとも交流があった。

主な著作

関連項目

脚注

  1. ^ a b Encyclopædia Britannica. Taras Hryhorovych Shevchenko (protected). UKRAINIAN POET.” (1998年7月20日). 2021年3月10日閲覧。
  2. ^ ウクライナ語に準ずる正しい表記はシェウチェンコだが、現時点では慣例的にシェフチェンコと表記されることがほとんどである。従来ロシア語文献・ロシア文学からの紹介が多かった名残。「ニューエクスプレス ウクライナ語」中澤英彦著(白水社, 2009)、「新興国ウクライナ」ウイルヘルム・キスキー著、世界思潮研究会訳(世界思潮研究会, 1921)では、タラス・シェウチェンコと紹介されている。
  3. ^ ユリウス暦では1814年2月25日。
  4. ^ 現在、ウクライナ、チェルカースィ州、ズヴェヌィーホロド地区モールィンツィ村

参考文献

外部リンク