コンテンツにスキップ

「ニコラエフスキー宮殿」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「ソ連崩壊」改名に伴うリンク修正依頼 - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
1行目: 1行目:
[[ファイル:Nicholaspalace.jpg|thumb|225px|ニコラエフスキー宮殿(1861年)]][[ファイル:DvorecTruda 29622.jpg|thumb|225px|現在のニコラエフスキー宮殿]]
[[ファイル:Nicholaspalace.jpg|thumb|225px|ニコラエフスキー宮殿(1861年)]][[ファイル:DvorecTruda 29622.jpg|thumb|225px|現在のニコラエフスキー宮殿]]
'''ニコラエフスキー宮殿'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Николаевский дворец}}'''、'''Nikolayevsky dvorets''')は、[[ロシア]]、[[サンクトペテルブルク]]にある[[宮殿]]。[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世]]の皇子女のために造営された。設計は宮廷建築家のアンドレイ・シタケンシネイデル(シュタッケンシュナイダー)[[w:Andrei Stackensneider|Andrei Stackensneider]]。
'''ニコラエフスキー宮殿'''([[ロシア語]]:'''{{lang|ru|Николаевский дворец}}'''、'''Nikolayevsky dvorets''')は、[[ロシア]]、[[サンクトペテルブルク]]にある[[宮殿]]。[[ロシア皇帝]][[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]の皇子女のために造営された。設計は宮廷建築家のアンドレイ・シタケンシネイデル(シュタッケンシュナイダー)[[w:Andrei Stackensneider|Andrei Stackensneider]]。


ニコライ1世の第3皇子[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1831-1891)|ニコライ・ニコライヴィチ]]大公が長じて後、その居殿となった。ニコライ大公没後は再び帝室の所有に帰し、[[1894年]][[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア・アレクサンドロヴナ大公女]]名称女子大学となった。[[ロシア革命]]後は、[[ボリシェヴィキ]]によって「'''労働宮殿'''」と改称された。宮殿は労働組合の事務所となったが、この際、内装は著しく破壊された。[[ソビエト連邦の崩壊]]後は労働組合事務所のほか、組合は他の企業などに事業所などの用途で賃貸している。
ニコライ1世の第3皇子[[ニコライ・ニコラエヴィチ (1831-1891)|ニコライ・ニコライヴィチ]]大公が長じて後、その居殿となった。ニコライ大公没後は再び帝室の所有に帰し、[[1894年]][[クセニア・アレクサンドロヴナ|クセニア・アレクサンドロヴナ大公女]]名称女子大学となった。[[ロシア革命]]後は、[[ボリシェヴィキ]]によって「'''労働宮殿'''」と改称された。宮殿は労働組合の事務所となったが、この際、内装は著しく破壊された。[[ソビエト連邦の崩壊]]後は労働組合事務所のほか、組合は他の企業などに事業所などの用途で賃貸している。

2021年6月13日 (日) 08:26時点における版

ニコラエフスキー宮殿(1861年)
現在のニコラエフスキー宮殿

ニコラエフスキー宮殿ロシア語:Николаевский дворецNikolayevsky dvorets)は、ロシアサンクトペテルブルクにある宮殿ロシア皇帝ニコライ1世の皇子女のために造営された。設計は宮廷建築家のアンドレイ・シタケンシネイデル(シュタッケンシュナイダー)Andrei Stackensneider

ニコライ1世の第3皇子ニコライ・ニコライヴィチ大公が長じて後、その居殿となった。ニコライ大公没後は再び帝室の所有に帰し、1894年クセニア・アレクサンドロヴナ大公女名称女子大学となった。ロシア革命後は、ボリシェヴィキによって「労働宮殿」と改称された。宮殿は労働組合の事務所となったが、この際、内装は著しく破壊された。ソビエト連邦の崩壊後は労働組合事務所のほか、組合は他の企業などに事業所などの用途で賃貸している。

参考

  • Belyakova Z.I. Nikolayevsky dvorets. SPb, 1997.

座標: 北緯59度55分56.712秒 東経30度17分34.674秒 / 北緯59.93242000度 東経30.29296500度 / 59.93242000; 30.29296500