「ミハイル・ニコラエヴィチ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (ニコライ1世 (ロシア皇帝)) - log |
||
21行目: | 21行目: | ||
| 子女 = [[#子女|一覧参照]] |
| 子女 = [[#子女|一覧参照]] |
||
| 家名 = [[ロマノフ家|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]] |
| 家名 = [[ロマノフ家|ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家]] |
||
| 父親 = ロシア皇帝[[ニコライ1世]] |
| 父親 = ロシア皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]] |
||
| 母親 = [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]] |
| 母親 = [[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]] |
||
| 栄典 = |
| 栄典 = |
||
28行目: | 28行目: | ||
| サイン = |
| サイン = |
||
}} |
}} |
||
'''ミハイル・ニコラエヴィチ'''({{翻字併記|ru|Михаил Николаевич|Michael Nikolaevich}}, [[1832年]][[10月13日]] - [[1909年]][[12月18日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族、[[ロシア大公一覧|ロシア大公]]。ロシア皇帝[[ニコライ1世]]と皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]との間の四男。[[カフカース]]副王(在任:1862年 - 1881年)を長く務め、[[トビリシ]]に住んだ。その後、1881年から1905年まで[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]議長の地位にあった。 |
'''ミハイル・ニコラエヴィチ'''({{翻字併記|ru|Михаил Николаевич|Michael Nikolaevich}}, [[1832年]][[10月13日]] - [[1909年]][[12月18日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族、[[ロシア大公一覧|ロシア大公]]。ロシア皇帝[[ニコライ1世 (ロシア皇帝)|ニコライ1世]]と皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ1世皇后)|アレクサンドラ・フョードロヴナ]]との間の四男。[[カフカース]]副王(在任:1862年 - 1881年)を長く務め、[[トビリシ]]に住んだ。その後、1881年から1905年まで[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]議長の地位にあった。 |
||
== 子女 == |
== 子女 == |
2021年6月13日 (日) 08:27時点における版
ミハイル・ニコラエヴィチ Михаил Николаевич | |
---|---|
出生 |
1832年10月13日 ロシア帝国、サンクトペテルブルク |
死去 |
1909年12月18日(77歳没) フランス共和国、カンヌ |
配偶者 | オリガ・フョードロヴナ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 |
父親 | ロシア皇帝ニコライ1世 |
母親 | アレクサンドラ・フョードロヴナ |
ミハイル・ニコラエヴィチ(ロシア語: Михаил Николаевич, ラテン文字転写: Michael Nikolaevich, 1832年10月13日 - 1909年12月18日)は、ロシアの皇族、ロシア大公。ロシア皇帝ニコライ1世と皇后アレクサンドラ・フョードロヴナとの間の四男。カフカース副王(在任:1862年 - 1881年)を長く務め、トビリシに住んだ。その後、1881年から1905年まで国家評議会議長の地位にあった。
子女
1857年、バーデン大公レオポルト1世の末娘ツェツィーリエと結婚した。正教に改宗してオリガ・フョードロヴナと名乗った妻との間に7人の子女をもうけた。