「ミハイル・ミケシン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)) - log
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)) - log
 
20行目: 20行目:
1835年2月21日、[[ロスラヴリ]]近郊の村に生まれる<ref name="stat 4">{{lang|ru|{{Cite web |author=Валуев Д.В |date= |url=http://www.roslavl.ru/history/kraeved/rostislavl/stat_4.htm |title= Михаил Осипович Микешин – великий сын земли Рославльской 1 |work= |publisher= |accessdate=2014-10-03}}}}</ref>。1852年から1858年までロシア帝国美術アカデミーに通う。<!--, his Romantic treatment of patriotic themes won him the admiration of the Russian royalty and he was asked to teach drawing to the Grand Duchesses.-->
1835年2月21日、[[ロスラヴリ]]近郊の村に生まれる<ref name="stat 4">{{lang|ru|{{Cite web |author=Валуев Д.В |date= |url=http://www.roslavl.ru/history/kraeved/rostislavl/stat_4.htm |title= Михаил Осипович Микешин – великий сын земли Рославльской 1 |work= |publisher= |accessdate=2014-10-03}}}}</ref>。1852年から1858年までロシア帝国美術アカデミーに通う。<!--, his Romantic treatment of patriotic themes won him the admiration of the Russian royalty and he was asked to teach drawing to the Grand Duchesses.-->
ミケシンは戦争画を得意としていたが、1859年に[[ロシア建国一千年祭記念碑像]]のデザイン画がコンテストで優勝し、これ以降数多くの銅像制作の依頼が数多く舞い込んだ。
ミケシンは戦争画を得意としていたが、1859年に[[ロシア建国一千年祭記念碑像]]のデザイン画がコンテストで優勝し、これ以降数多くの銅像制作の依頼が数多く舞い込んだ。
ミケシンは「正教、専制、民族性({{lang-ru|Правосла́вие, самодержа́вие, наро́дность,}})」をモットーに[[ニジニ・ノヴゴロド]]の[[クジマ・ミーニン]]、[[ムィコラーイウ|ニコラーエフ]]の[[アレクセイ・グレイク|グレイク提督]]像、[[ロストフ・ナ・ドヌ]]の[[アレクサンドル2世]]像など大仰な屋外銅像を設計した。
ミケシンは「正教、専制、民族性({{lang-ru|Правосла́вие, самодержа́вие, наро́дность,}})」をモットーに[[ニジニ・ノヴゴロド]]の[[クジマ・ミーニン]]、[[ムィコラーイウ|ニコラーエフ]]の[[アレクセイ・グレイク|グレイク提督]]像、[[ロストフ・ナ・ドヌ]]の[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]像など大仰な屋外銅像を設計した。


ミケシン作の記念碑でソ連時代を生き延びたものは数少ない。現存するものには[[サンクトペテルブルク]]の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]像(1873年)、[[キエフ]]の[[ボフダン・フメリニツキー]]像(1888年)、[[ノヴォチェルカッスク]]の[[イェルマーク]]像(1904年)などがある。またロシア国外にも[[リスボン]]の[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)]]像がある。
ミケシン作の記念碑でソ連時代を生き延びたものは数少ない。現存するものには[[サンクトペテルブルク]]の[[エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)|エカチェリーナ2世]]像(1873年)、[[キエフ]]の[[ボフダン・フメリニツキー]]像(1888年)、[[ノヴォチェルカッスク]]の[[イェルマーク]]像(1904年)などがある。またロシア国外にも[[リスボン]]の[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)]]像がある。

2021年6月13日 (日) 09:04時点における最新版

ミハイル・ミケシン
Михаил Осипович Микешин
『M.O.ミケシンの肖像』 イリヤ・レーピン (1888年)
生誕 (1835-02-21) 1835年2月21日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ロスラヴリ郊外
死没 (1896-01-31) 1896年1月31日(60歳没)
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ペテルブルク
国籍 ロシア帝国の旗 ロシア帝国
テンプレートを表示

ミハイル・オシポヴィチ・ミケシンロシア語: Михаил Осипович Микешин, ラテン文字転写: Mikhail Osipovich Mikeshin1835年 - 1896年)は、ロシアの画家、彫刻家(銅像原型製作者)。ロシア帝国の主要都市に数多くの屋外像、記念碑を制作した。

経歴[編集]

1835年2月21日、ロスラヴリ近郊の村に生まれる[1]。1852年から1858年までロシア帝国美術アカデミーに通う。 ミケシンは戦争画を得意としていたが、1859年にロシア建国一千年祭記念碑像のデザイン画がコンテストで優勝し、これ以降数多くの銅像制作の依頼が数多く舞い込んだ。 ミケシンは「正教、専制、民族性(ロシア語: Правосла́вие, самодержа́вие, наро́дность,)」をモットーにニジニ・ノヴゴロドクジマ・ミーニンニコラーエフグレイク提督像、ロストフ・ナ・ドヌアレクサンドル2世像など大仰な屋外銅像を設計した。

ミケシン作の記念碑でソ連時代を生き延びたものは数少ない。現存するものにはサンクトペテルブルクエカチェリーナ2世像(1873年)、キエフボフダン・フメリニツキー像(1888年)、ノヴォチェルカッスクイェルマーク像(1904年)などがある。またロシア国外にもリスボンペドロ1世 (ブラジル皇帝)像がある。

このうちフメリニツキーの像は、その原型が、ポーランド人ユダヤ人カトリック教会の司祭らを馬で足蹴にする17世紀のコサック首領、といったものであったため議論の的となり、結局銅像としてはこうした外国人嫌悪的な部分は省かれた。

1876年から1878年にかけては、風刺雑誌「プチラ (Пчела = )」の編集に携わり、ニコライ・ゴーゴリタラス・シェフチェンコの文章に挿絵・風刺絵などを書いた。

1896年1月31日、サンクトペテルブルクで死去した[2]

作品[編集]

脚注[編集]

文献[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ミハイル・ミケシンに関するメディアがあります。

  • A. Savinov. Mikeshin. Moscow, 1971.