コンテンツにスキップ

「ミール (農村共同体)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: ロシア皇帝記事の改名に伴うリンク修正依頼 (アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)) - log
8行目: 8行目:
[[17世紀]]から[[18世紀]]における[[ロシアの農奴制|農奴制]]の強化とともに、ミールによる[[共同体]][[自治]]は政府や地主によって次第に制限された。なかでも、18世紀の初めに[[人頭税]]が制定されると、地主領の農奴に対しミールごとに耕地を定期的に割替えされた<ref>Lazar Volin (1970) A century of Russian agriculture. From Alexander II to Khrushchev, p. 78-79, 81. Harvard University Press</ref>。
[[17世紀]]から[[18世紀]]における[[ロシアの農奴制|農奴制]]の強化とともに、ミールによる[[共同体]][[自治]]は政府や地主によって次第に制限された。なかでも、18世紀の初めに[[人頭税]]が制定されると、地主領の農奴に対しミールごとに耕地を定期的に割替えされた<ref>Lazar Volin (1970) A century of Russian agriculture. From Alexander II to Khrushchev, p. 78-79, 81. Harvard University Press</ref>。


19世紀の初頭には、国有地の農民にもミールが導入されるようになり、[[1838年]]の法令によりミールは公認されるとともに、納税の際、連帯責任でふたんするように定められた。[[1861年]]の[[アレクサンドル2世]]による[[農奴解放令|農奴解放]]ののち、ミールの成員は[[スホード]]と呼ばれる集会を開いて長老を選挙するようになり、ミール内部のことは自主的な政治的意思決定がおこなわれた。しかし[[1889年]]には、この集会も政府の管理下におかれるようになった。
19世紀の初頭には、国有地の農民にもミールが導入されるようになり、[[1838年]]の法令によりミールは公認されるとともに、納税の際、連帯責任でふたんするように定められた。[[1861年]]の[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]による[[農奴解放令|農奴解放]]ののち、ミールの成員は[[スホード]]と呼ばれる集会を開いて長老を選挙するようになり、ミール内部のことは自主的な政治的意思決定がおこなわれた。しかし[[1889年]]には、この集会も政府の管理下におかれるようになった。


[[日露戦争]]の影響による[[ロシア第一革命]]ののち、[[1905年]]に[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]の改革によって私有地振興政策がとられたために、ミールは衰退した。このミールの制度はロシア独特のものとして[[スラヴ主義|スラブ主義]]者によって高く評価されたが、他方 [[アレクサンドル・ゲルツェン|A.I.ゲルツェン]]のような[[ナロードニキ]]指導者も、ミールの基盤によりロシアは[[資本主義]]を経過することなくすすぐさま[[社会主義]]へ移行できると宣伝した。
[[日露戦争]]の影響による[[ロシア第一革命]]ののち、[[1905年]]に[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]の改革によって私有地振興政策がとられたために、ミールは衰退した。このミールの制度はロシア独特のものとして[[スラヴ主義|スラブ主義]]者によって高く評価されたが、他方 [[アレクサンドル・ゲルツェン|A.I.ゲルツェン]]のような[[ナロードニキ]]指導者も、ミールの基盤によりロシアは[[資本主義]]を経過することなくすすぐさま[[社会主義]]へ移行できると宣伝した。

2021年6月13日 (日) 09:08時点における版

ミールロシア語: общи́наコミューン)またはmirロシア語: мир 、「社会」、他の意味でも)またはselskoye obshchestvoロシア語: сельское общество 「農村コミュニティ」、19世紀と20世紀の正式な用語。ウクライナ語: сільське товариствоロシア帝国にかつて存在した農村共同体。別名をオーブシチーナ(Obshchina)ともいう。[1]

ミールの存在は、少なくとも1516世紀にはその存在が確認できる。ミールの構成員は、各郷 (ボーロスチ) の農民であり、長老 (スターロスタ) をはじめとする共同体の役員を選挙した。これらの役員が中心となって、森林への伐採・入会権や森林や漁場・猟場を使用する権利が定められた。

17世紀から18世紀における農奴制の強化とともに、ミールによる共同体自治は政府や地主によって次第に制限された。なかでも、18世紀の初めに人頭税が制定されると、地主領の農奴に対しミールごとに耕地を定期的に割替えされた[2]

19世紀の初頭には、国有地の農民にもミールが導入されるようになり、1838年の法令によりミールは公認されるとともに、納税の際、連帯責任でふたんするように定められた。1861年アレクサンドル2世による農奴解放ののち、ミールの成員はスホードと呼ばれる集会を開いて長老を選挙するようになり、ミール内部のことは自主的な政治的意思決定がおこなわれた。しかし1889年には、この集会も政府の管理下におかれるようになった。

日露戦争の影響によるロシア第一革命ののち、1905年ストルイピンの改革によって私有地振興政策がとられたために、ミールは衰退した。このミールの制度はロシア独特のものとしてスラブ主義者によって高く評価されたが、他方 A.I.ゲルツェンのようなナロードニキ指導者も、ミールの基盤によりロシアは資本主義を経過することなくすすぐさま社会主義へ移行できると宣伝した。

セルゲイ・コローヴィンによるオブシュチーナの集い

関連項目

脚注

 

  1. ^ この用語は、obshchiyロシア語: о́бщий 、文字通り「一般的」)という単語に由来する。
  2. ^ Lazar Volin (1970) A century of Russian agriculture. From Alexander II to Khrushchev, p. 78-79, 81. Harvard University Press

参考文献

外部リンク

  • ミール-infoplease
  • "Mir" . New International Encyclopedia (英語). 1905.