「ニコライ・アレクサンドロヴィチ」の版間の差分
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[[南ヨーロッパ|南欧]]旅行の最中に調子を崩し、最初は[[関節リウマチ|リウマチ]]と診断された。ところがこれは誤診であり、実は事故が原因で脊椎結核を発症していることが判明した。 |
[[南ヨーロッパ|南欧]]旅行の最中に調子を崩し、最初は[[関節リウマチ|リウマチ]]と診断された。ところがこれは誤診であり、実は事故が原因で脊椎結核を発症していることが判明した。 |
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ニコライの病状は重くなる一方で、首が回らなくなり、音と光に異常に敏感になった。病を軽いものとみたニコライは旅行を続けたが、[[イタリア王国|イタリア]]に入国した時に病状が急変した。倒れた皇太子は療養のために南フランスに運び込まれたが、病状は回復せず、追い打ちをかけるように脊椎結核は脳へ転位し、[[結核性髄膜炎]]へ発展した。1865年4月12日の夜に[[ニース]]で客死した。死の床でニコライは、婚約者のダウマーに、自分が死んだらすぐ下の弟で帝位継承者になる[[アレクサンドル3世|アレクサンドル]]と結婚するよう頼んだ、と信じられている。結婚後の半生をニコライの養育に注ぎ込んできた母マリヤは、愛息の死に打ちのめされ、二度と立ち直れなかった。 |
ニコライの病状は重くなる一方で、首が回らなくなり、音と光に異常に敏感になった。病を軽いものとみたニコライは旅行を続けたが、[[イタリア王国|イタリア]]に入国した時に病状が急変した。倒れた皇太子は療養のために南フランスに運び込まれたが、病状は回復せず、追い打ちをかけるように脊椎結核は脳へ転位し、[[結核性髄膜炎]]へ発展した。1865年4月12日の夜に[[ニース]]で客死した。死の床でニコライは、婚約者のダウマーに、自分が死んだらすぐ下の弟で帝位継承者になる[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル]]と結婚するよう頼んだ、と信じられている。結婚後の半生をニコライの養育に注ぎ込んできた母マリヤは、愛息の死に打ちのめされ、二度と立ち直れなかった。 |
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ニコライを心から敬愛していた弟の[[アレクサンドル3世|アレクサンドル]]は、彼の死の三年後に生まれた兄の元婚約者である[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|ダウマー]]との間の長男にニコライと名付けた。[[父称]]も含めて同姓同名である彼は、後の[[ニコライ2世]]である。 |
ニコライを心から敬愛していた弟の[[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル]]は、彼の死の三年後に生まれた兄の元婚約者である[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|ダウマー]]との間の長男にニコライと名付けた。[[父称]]も含めて同姓同名である彼は、後の[[ニコライ2世]]である。 |
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==出典== |
==出典== |
2021年6月13日 (日) 09:32時点における版
ニコライ・アレクサンドロヴィチ Николай Александрович | |
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ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家 | |
ニコライ・アレクサンドロヴィチ(1864年) | |
称号 |
ツェサレーヴィチ ロシア大公 |
出生 |
1843年9月20日 ロシア帝国、ツァールスコエ・セロー、アレクサンドロフスキー宮殿 |
死去 |
1865年4月24日(21歳没) フランス帝国、ニース |
埋葬 | ロシア帝国、サンクトペテルブルク、ペトロパヴロフスク要塞内首座使徒ペトル・パウェル大聖堂 |
父親 | アレクサンドル2世 |
母親 | マリヤ・アレクサンドロヴナ |
宗教 | キリスト教正教会 |
ニコライ・アレクサンドロヴィチ(ロシア語: Николай Александрович, 1843年9月20日[ユリウス暦9月8日] - 1865年4月24日[ユリウス暦4月12日])はロシア大公、ツェサレーヴィチ(皇太子、称号保持1855年 - 1865年)。家族からは「ニックス」(Никс)或いは「ニクサ」(Никса)の愛称で呼ばれていた。
生涯
1843年にツァールスコエ・セローで、皇帝ニコライ1世の長男アレクサンドル・ニコラエヴィチ皇太子と、その妃マリヤ・アレクサンドロヴナ妃との間に長男として生まれた。恐ろしいほど頭がよく、才能にも恵まれ「ロシアの希望」「完璧の極致」と呼ばれ[1]、家族や教師から溺愛されていた。
1855年、父がアレクサンドル2世として帝位につくと同時に11歳でツェサレーヴィチとなった。1864年、ニコライはデンマーク王クリスチャン9世の次女ダウマーと婚約した。
1861年頃、軍事演習中に事故が起き、大理石の柱に背骨を強打した。怪我は深刻なものだったが、その後適切な措置は取られなかった。ニコライ自身も無理をし、痛みを隠そうと努め、その結果命を縮めた。
南欧旅行の最中に調子を崩し、最初はリウマチと診断された。ところがこれは誤診であり、実は事故が原因で脊椎結核を発症していることが判明した。
ニコライの病状は重くなる一方で、首が回らなくなり、音と光に異常に敏感になった。病を軽いものとみたニコライは旅行を続けたが、イタリアに入国した時に病状が急変した。倒れた皇太子は療養のために南フランスに運び込まれたが、病状は回復せず、追い打ちをかけるように脊椎結核は脳へ転位し、結核性髄膜炎へ発展した。1865年4月12日の夜にニースで客死した。死の床でニコライは、婚約者のダウマーに、自分が死んだらすぐ下の弟で帝位継承者になるアレクサンドルと結婚するよう頼んだ、と信じられている。結婚後の半生をニコライの養育に注ぎ込んできた母マリヤは、愛息の死に打ちのめされ、二度と立ち直れなかった。
ニコライを心から敬愛していた弟のアレクサンドルは、彼の死の三年後に生まれた兄の元婚約者であるダウマーとの間の長男にニコライと名付けた。父称も含めて同姓同名である彼は、後のニコライ2世である。
出典
- ^ Edvard Radzinsky (2005). Alexander II: The Last Great Tsar. Free Press